スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

死の状況&対決の本質

2015-01-22 19:23:36 | 歌・小説
 リーザの死の状況をテクストからまとめてみます。
                         
 第三部で,ドストエフスキーとゲーテの関係で示した火事が発生します。これは放火です。スタヴローギンの妻であるマリヤが殺され,これを隠蔽するための放火であったと考えてよいと思います。この一件についてスタヴローギンは愛人であるリーザに対し,自分が殺したわけではないけれども,主犯であるフェージカがこの犯罪を犯すのを阻止しようとしなかったという主旨のことを言います。実際には阻止しようとしなかったというばかりではなく,フェージカを唆したと理解すべきだと僕は考えますが,これはいいでしょう。火事のときスタヴローギンは現場と川を挟んだ反対側にいました。文字通り対岸の火事として発生した状況だったのです。
 これを聞かされた後で,リーザは婚約者であるマヴリーキーと共に現場に向いました。現場には多くの野次馬が出ていました。そこでは妻であるマリヤを殺すことがスタヴローギンに有利であったという話が上がっていたとあります。スタヴローギンが放火殺人犯として疑われていたといえます。
 そこにリーザが現れました。野次馬からリーザはスタヴローギンの愛人だという声が上がりました。マリヤを殺しただけでは物足りなくて様子を見に来たのだという声も上がりました。そして激昂した野次馬連中によって,リーザは撲殺されてしまうのです。
 『悪霊』の執筆の時期はすべての事件の終了後。書いたのは記者という設定。それにしては不自然な部分も多々ありますが,これはおいておきましょう。記者は,この一件を目撃していて,後に裁判で供述することになったと書いています。それによれば,リーザ殺害の一件は偶発的なものであり,殺した当事者たちも前後不覚の状態だったと申し立てたとしています。そして最後に,文章を書いているその時点でも,同じ見解だと結んでいます。
 目撃者にして筆者が,偶発的に殺されたといっているのです。僕がリーザの死が唐突だったと感じても無理のないところでしょう。でも僕のひらめきは,記者がそういっているという部分を契機としていました。

 なぜライプニッツにとって神が人格的な存在でなければならなかったのか。同じことですが,なぜキリスト教的観点に立つならば,神は人格的存在でなければならないとライプニッツは結論したのか。この答えは,それを逆に考えた場合に明瞭に理解できます。もしも神が意志もせず,考えもせず,行動もしないのであったら,神とは,宿命的なものであり,あるいは自然的なものであり,あるいは必然的なものとなるでしょう。ライプニッツはそのように神を理解することは避けなければならない,あるいはキリスト教的な神がそのような存在であってはならないと考えたのです。そしてこのライプニッツの考えは,神がスピノザ主義的なものであってはならないというのと同じ意味を有していたと僕は考えます。なぜなら,第一部定理一七は神自身が必然的なものであることを示していますし,第一部定理一六は,自然のうちに生じるすべての事柄が,必然的なものであることを意味します。そしてスピノザは,神と自然がそう変わらないものであるということを明言しています。それは『エチカ』でもそうですし,『神学・政治論』も,その観点から書かれています。ライプニッツにとってスピノザとの対決の本質的部分は,ここの部分にあったのだと考えていいでしょう。
 ただし,ライプニッツは宮廷人であったから,そのように考える必要があったともいえます。ライプニッツにとってスピノザ主義に同調することは,その立場を危うくすることであるに違いなかったからです。ライプニッツはドイツ出身で,後に帰国していますが,基本的にパリで宮廷人として振舞いました。ドイツはプロテスタントの勢力が強かったのですが,フランスはカトリックが優勢でしたから,とりわけライプニッツが欲していたのは,カトリック的な神の立場を死守することであったと思います。プロテスタントにもカルヴァン主義のような反動勢力と進歩的勢力が混在していましたが,カトリックはプロテスタントと比較してなお保守的な組織であったといえるでしょうから,ライプニッツの哲学が反動的なものにならざるを得なかったのには,事情があったと理解しておくべきでしょう。
コメント
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