スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

鳳凰賞典レース&汎神論

2015-01-07 19:10:07 | 競輪
 2015年の最初の記念競輪となる立川記念の決勝。並びは後閑-齋藤-野木の東日本,浅井に田中-坂本の九州,脇本-村上の近畿に渓。
 浅井がスタートを取って前受け。4番手に後閑,7番手に脇本で周回。残り2周のホームで浅井が誘導を斬ると,脇本が上昇を開始し,後閑もこのラインの内から合わせて出ていきました。ホームで脇本が浅井を叩き,村上も続いて打鐘。後閑が渓をどかして3番手を確保。引いて巻き返した浅井は後閑の後ろで齋藤の外を併走するような態勢からホームで発進。バックでは脇本を捕えて前に。今度は村上が田中をどかしてスイッチ。後閑も続きましたが口が開き,前のふたりで優勝争い。ゴール寸前で浅井を交わした村上の優勝。浅井が8分の1車輪差で2着。流れ込みの形で後閑が3車身差の3着。
                         
 優勝した京都の村上義弘選手は先月の岸和田記念に続いての記念競輪優勝で通算29勝目。立川記念は初優勝ですが,当地で開催された一昨年の日本選手権で優勝しています。このレースは脇本,村上,浅井,後閑の4選手とほかの5選手では力に開きがあると思われ,ラインはあまり関係のない力勝負になることが予想されました。その中では脇本の番手だった村上が最も有利で,その利を生かしての優勝だったといえるでしょう。浅井の粘りもさすがだったと思います。

 ライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizの規定がどのようなものであるべきかを考える前に,スピノザの規定は,ライプニッツが独自の哲学を構築する理由を考えるときに関係してくる内容を含みますので,その概要だけ示しておくことにします。
 スピノザの規定は,スピノザの哲学が汎神論とみなされることと大きく関係していると僕は理解しています。神Deusが万物の最近原因causa proximaであるということと,万物は神が様態的変状modificatioに様態化したものであるということは明らかに関連し,万物が様態的変状様態化した神であるという考え方は,神が遍く存在するといっているに等しく,それは汎神論と理解されるであろうからです。
 僕はスピノザの哲学を汎神論と理解するのは,やや危険な意味合いを含むと考えています。というのは,スピノザの哲学が汎神論とみなされるというのは,実質的には無神論とみなされるのと同じだったと理解するからです。万物は様態的変状に様態化した神であるとスピノザが主張するとき,その神は,少なくとも神学者が理解していたような神ではありません。端的にいえばキリスト教的な神ではありません。ですからスピノザのこの主張は,自身の哲学が無神論とみなされることを覆い隠すための詭弁であると理解されて,不思議ではなかったと思うのです。
                         
 汎神論的要素というのは,『エチカ』よりも『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』に多く見受けられると僕は考えています。『神学・政治論』はスピノザの生存中に刊行されたので,スピノザに汎神論者というノベルティを貼る場合,こちらが大きく影響したと僕は思っています。このために『神学・政治論』は,ただ反動的な神学者から敵視されただけでなく,スピノザとデ・ウィットとの関係で示したように,当時の政治状況からはリベラルと目された人にも反感をもたれたし,同時にデカルト主義者のような,当時の思想としてはやはりリベラルであったといえる陣営からも激しく糾弾されることになりました。つまりそれくらい,スピノザの汎神論と無神論は関係付けられていたのだと僕には思えるのです。
 ですからライプニッツは,汎神論のような考え方に帰着することも避ける必要があったのだと思います。
コメント
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