出雲文化伝承館で指された昨日の第41期女流名人戦五番勝負第一局。対戦成績は里見香奈女流名人が17勝,清水市代女流六段が11勝。
島根県議会議員の振駒で里見女流名人の先手。中飛車から角交換。清水六段は玉頭位取りにしましたが,先手に早い段階で巧みに動かれ,結果的に龍を作られる展開に至りましたので,作戦自体はあまりうまくいっていなかったものと思われます。その後,端に手をつけて攻勢に。
先手が桂馬を打って受けた局面。
桂馬の交換の後に出現した局面なので,△1七桂成と指せば▲同桂△1六歩▲1八歩△1七歩成▲同歩△2五桂▲2九桂で第1図と同一局面に戻り,千日手にはできたものと思われます。しかし後手は千日手は考えなかったとのことで,△1二香と上がりました。
△1一飛も指せればかなり厳しいですが,そこまでの余裕はなかったよう。ということは,少なくとも後手は1手のリードは奪っていなかった局面だったことになるのでしょう。先手は▲2六歩で催促。△1七桂成▲同桂△1六歩は後手に選択の余地がなく,先手は▲2五桂と逃げることになりました。△1七歩成も仕方ないところで▲3九王と逃げるのも自然だと思います。そこで△2五銀▲同歩△4四銀は,どちらかといえば受けを重視した指し方で,これはやや苦しくなっているための手順だったのではないでしょうか。▲5六龍△5五桂▲4八王△4七桂成▲同銀△3六歩▲同馬で第2図。
さすがに先手玉が盤石で差がついた印象。先手が▲4五歩~▲3五桂の攻めを実現させ,押し切りました。
里見名人の先勝。第二局は25日です。
これ以上はライプニッツとスピノザの比較はしませんので,約束した通り,第一部定義三がスピノザの公理系において正しいということを論証します。
僕はこのことの根本は,第一部公理一にあると考えています。自然のうちにはそれ自身のうちにあるものと,ほかのもののうちにあるものだけが実在します。そこでそれ自身のうちにあるものをA,ほかのもののうちにあるものをXとし,XがAのうちにあると仮定します。
このとき,XがAによって概念されるという論理的可能性は否定されませんが,AがXによって概念されるという論理的可能性は否定されます。これは第一部定理一からもそうでなければなりません。そこでAがほかのものによって考えられるとしたら,X以外のもの,たとえばYになります。
Yがほかのもののうちにあると仮定します。しかしAのうちにあるならXですから,たとえばBのうちにあるとしなければなりません。次にBがほかのもののうちにあると仮定するのは,論証上は無意味ですから,Bはそれ自身のうちにあると仮定します。
第一部定義三の前半部分が示すのはAもBも実体であるということです。しかるにAとBが区別されているのは,その区別の方法が知性にあるからです。するとAの本性とBの本性は異ならなければなりません。したがってAとBおよびYは実在的に区別されることになります。いい換えればAとBおよびYには共通点がありません。よって第一部公理五により,Aの認識はBとYの認識を含みませんし,BとYの認識はAの認識を含みません。
以上の事柄が一般的に示しているのは,それ自身のうちにあるものが,それ以外のそれ自身のうちにあるものによって概念されることはないし,ほかのもののうちにあるものによって概念されるということもあり得ないということです。そしてそれ自身のうちにあるものとほかのもののうちにあるものだけが実在するというのが第一部公理一の主旨なのですから,それ自身のうちにあるものは,それ自身以外のものによって概念され得ないのです。つまり第一部公理二により,それ自身のうちにあるものはそれ自身によって概念されるほかないのです。
島根県議会議員の振駒で里見女流名人の先手。中飛車から角交換。清水六段は玉頭位取りにしましたが,先手に早い段階で巧みに動かれ,結果的に龍を作られる展開に至りましたので,作戦自体はあまりうまくいっていなかったものと思われます。その後,端に手をつけて攻勢に。
先手が桂馬を打って受けた局面。
桂馬の交換の後に出現した局面なので,△1七桂成と指せば▲同桂△1六歩▲1八歩△1七歩成▲同歩△2五桂▲2九桂で第1図と同一局面に戻り,千日手にはできたものと思われます。しかし後手は千日手は考えなかったとのことで,△1二香と上がりました。
△1一飛も指せればかなり厳しいですが,そこまでの余裕はなかったよう。ということは,少なくとも後手は1手のリードは奪っていなかった局面だったことになるのでしょう。先手は▲2六歩で催促。△1七桂成▲同桂△1六歩は後手に選択の余地がなく,先手は▲2五桂と逃げることになりました。△1七歩成も仕方ないところで▲3九王と逃げるのも自然だと思います。そこで△2五銀▲同歩△4四銀は,どちらかといえば受けを重視した指し方で,これはやや苦しくなっているための手順だったのではないでしょうか。▲5六龍△5五桂▲4八王△4七桂成▲同銀△3六歩▲同馬で第2図。
さすがに先手玉が盤石で差がついた印象。先手が▲4五歩~▲3五桂の攻めを実現させ,押し切りました。
里見名人の先勝。第二局は25日です。
これ以上はライプニッツとスピノザの比較はしませんので,約束した通り,第一部定義三がスピノザの公理系において正しいということを論証します。
僕はこのことの根本は,第一部公理一にあると考えています。自然のうちにはそれ自身のうちにあるものと,ほかのもののうちにあるものだけが実在します。そこでそれ自身のうちにあるものをA,ほかのもののうちにあるものをXとし,XがAのうちにあると仮定します。
このとき,XがAによって概念されるという論理的可能性は否定されませんが,AがXによって概念されるという論理的可能性は否定されます。これは第一部定理一からもそうでなければなりません。そこでAがほかのものによって考えられるとしたら,X以外のもの,たとえばYになります。
Yがほかのもののうちにあると仮定します。しかしAのうちにあるならXですから,たとえばBのうちにあるとしなければなりません。次にBがほかのもののうちにあると仮定するのは,論証上は無意味ですから,Bはそれ自身のうちにあると仮定します。
第一部定義三の前半部分が示すのはAもBも実体であるということです。しかるにAとBが区別されているのは,その区別の方法が知性にあるからです。するとAの本性とBの本性は異ならなければなりません。したがってAとBおよびYは実在的に区別されることになります。いい換えればAとBおよびYには共通点がありません。よって第一部公理五により,Aの認識はBとYの認識を含みませんし,BとYの認識はAの認識を含みません。
以上の事柄が一般的に示しているのは,それ自身のうちにあるものが,それ以外のそれ自身のうちにあるものによって概念されることはないし,ほかのもののうちにあるものによって概念されるということもあり得ないということです。そしてそれ自身のうちにあるものとほかのもののうちにあるものだけが実在するというのが第一部公理一の主旨なのですから,それ自身のうちにあるものは,それ自身以外のものによって概念され得ないのです。つまり第一部公理二により,それ自身のうちにあるものはそれ自身によって概念されるほかないのです。