プロレスラーとしての超獣にとって,欠かせないアイテムのひとつにチェーンがありました。新日本のブロディとしての初登場となった後楽園大会のとき,ブロディはスーツ姿でしたが,チェーンは持っていたほどです。ブロディくらいの体力があるなら,チェーンのような武器は不要であったと思うのですが,なぜか手放そうとはしませんでした。ときに試合中にチェーンを用いることによって,反則や無効試合で試合を終らせることもありましたので,そうした意味合いを見出すことは可能ですが,おそらく日本でのブロディは,自身がヒールであるということに大きなプライドを持っていて,それがいつでもチェーンをアイテムとしていた理由ではなかったかと推測します。そこにもある種のエゴイズムがあったという見方が可能でしょう。

まだ新日本に移籍する前,両国国技館大会でブロディがチェーンを振り回したため,壁に傷が残ってしまい,相撲協会から全日本プロレスにクレームがついたことがありました。こういう場合,チェーンの使用を禁ずるというのがひとつの方法。あるいは新日本であればブロディにそういう要求をしたかもしれず,こうしたことが新日本とブロディの諍いの遠因となっていたのかもしれません。馬場もあるいはブロディにそうした打診をしたかもしれませんが,最終的にはチェーンの使用を認めました。その代案として,国技館の壁を幕で覆い,傷がつかないようにするという措置を講じました。長州とブロディの対戦が国技館だったのですが,この日はこうした措置が施されています。
プロモーターとしての馬場は,リング上ではレスラーがやりたいようにやらせるという基本姿勢でした。チェーンの使用を規制するのではなく,壁を保護することを選択したのは,その基本姿勢からすれば当然のことであったのでしょう。逆にいえば全日本でのブロディは,規制を受けずに自由に暴れ回っていたことになります。ブロディはそれが当然のことだと思っていたのでしょうが,新日本に移籍して,それはそうではなく,馬場がそのように振舞うことを許容してくれていたということに気付いたのだと思います。だからブロディは一度は裏切った全日本への復帰を望むようになったのでしょう。
朝倉流の論証は,ふたつの個物,res particularisとres singularisには相違があるということを前提としています。ただ,ほとんどの物体がres singularisであるということにはさすがに異論は出ない筈です。するとほとんどの物体の存在と作用の決定には,第一部定理二八が適用されなければならないということにも,異論は出ないと断定できます。
第一部定理二八の大前提となっているのが第一部定理一六であるということは疑いようがありません。したがってより具体的にいえば,第一部定理一八はすでにこの定理の前提として含まれていると考えなければなりません。さらに第一部定理二八備考の中盤部でいわれていることは,第一部定理二八から帰結するのだとスピノザは考えていた筈ですから,このことも第一部定理二八には含まれているというべきでしょう。つまり神ないしは延長の属性が,物体の内在的原因であり,同時に最近原因であるということが,第一部定理二八には示されているのだと考えなければなりません。
第一部定理二八をこのように考えること自体はそうも難しいことではありません。延長の属性は自己の類において無限なものであり,ここでは物体はres singularisであると措定していますから,それは第二部定義七により有限なものです。第一部定理二八も第二部定義七も,スピノザはres singularisについて言及しているのであり,res particularisについて何かをいっているのではありませんから,このことも間違いないと判断して問題ありません。つまり自己の類において無限であるものを内在的原因かつ最近原因として有限であるものの存在や作用が生起するということが,具体的にどのような意味をもつものであるのかということを,第一部定理二八は示しているのだと考えればよいのです。
ところが,res singularisが無限様態を媒介して生起するということ,つまり有限である個々の物体が運動と静止そして不変の形相を有する全宇宙の姿を媒介して生起するということについては,備考の中ではいわれているのですが,定理の中に含まれているようには僕にはどうしても思えないのです。

まだ新日本に移籍する前,両国国技館大会でブロディがチェーンを振り回したため,壁に傷が残ってしまい,相撲協会から全日本プロレスにクレームがついたことがありました。こういう場合,チェーンの使用を禁ずるというのがひとつの方法。あるいは新日本であればブロディにそういう要求をしたかもしれず,こうしたことが新日本とブロディの諍いの遠因となっていたのかもしれません。馬場もあるいはブロディにそうした打診をしたかもしれませんが,最終的にはチェーンの使用を認めました。その代案として,国技館の壁を幕で覆い,傷がつかないようにするという措置を講じました。長州とブロディの対戦が国技館だったのですが,この日はこうした措置が施されています。
プロモーターとしての馬場は,リング上ではレスラーがやりたいようにやらせるという基本姿勢でした。チェーンの使用を規制するのではなく,壁を保護することを選択したのは,その基本姿勢からすれば当然のことであったのでしょう。逆にいえば全日本でのブロディは,規制を受けずに自由に暴れ回っていたことになります。ブロディはそれが当然のことだと思っていたのでしょうが,新日本に移籍して,それはそうではなく,馬場がそのように振舞うことを許容してくれていたということに気付いたのだと思います。だからブロディは一度は裏切った全日本への復帰を望むようになったのでしょう。
朝倉流の論証は,ふたつの個物,res particularisとres singularisには相違があるということを前提としています。ただ,ほとんどの物体がres singularisであるということにはさすがに異論は出ない筈です。するとほとんどの物体の存在と作用の決定には,第一部定理二八が適用されなければならないということにも,異論は出ないと断定できます。
第一部定理二八の大前提となっているのが第一部定理一六であるということは疑いようがありません。したがってより具体的にいえば,第一部定理一八はすでにこの定理の前提として含まれていると考えなければなりません。さらに第一部定理二八備考の中盤部でいわれていることは,第一部定理二八から帰結するのだとスピノザは考えていた筈ですから,このことも第一部定理二八には含まれているというべきでしょう。つまり神ないしは延長の属性が,物体の内在的原因であり,同時に最近原因であるということが,第一部定理二八には示されているのだと考えなければなりません。
第一部定理二八をこのように考えること自体はそうも難しいことではありません。延長の属性は自己の類において無限なものであり,ここでは物体はres singularisであると措定していますから,それは第二部定義七により有限なものです。第一部定理二八も第二部定義七も,スピノザはres singularisについて言及しているのであり,res particularisについて何かをいっているのではありませんから,このことも間違いないと判断して問題ありません。つまり自己の類において無限であるものを内在的原因かつ最近原因として有限であるものの存在や作用が生起するということが,具体的にどのような意味をもつものであるのかということを,第一部定理二八は示しているのだと考えればよいのです。
ところが,res singularisが無限様態を媒介して生起するということ,つまり有限である個々の物体が運動と静止そして不変の形相を有する全宇宙の姿を媒介して生起するということについては,備考の中ではいわれているのですが,定理の中に含まれているようには僕にはどうしても思えないのです。