スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ユトレヒト訪問の時期&分割禁止条件

2014-04-18 19:23:29 | 哲学
 具体的な招待の理由は定かではありませんが,スピノザはフランスが占領中のユトレヒトに赴きました。『スピノザの生涯と精神』の訳注で,訳者の渡辺義雄は6月28日頃にユトレヒトに到着していたとしています。そして直後の8月に,ヨハン・デ・ウィットが虐殺されたとしています。この虐殺は1672年8月20日と特定されています。つまりこれだとスピノザは1672年の6月28日前後にユトレヒト訪問をしたことになります。
                         
 渡辺がこのようにいう根拠は,スピノザがユトレヒトでコンデ公爵に会えなかったということ。このことはリュカスとコレルスの双方の伝記で一致しているので,事実と思われます。ところがコンデはユトレヒトに向う途中,ライン河を渡るときに負傷したのでフランスに帰り,実際にユトレヒトに到着したのは1673年4月12日であったと渡辺は書いています。
 ただ,ここにはひとつ,不自然に思える点が残ります。フランスがユトレヒトを占領したのは1672年6月13日。そしてストッパがユトレヒトの司令官に任命されたのが6月27日。つまりユトレヒト占領直後,ストッパが司令官に着任した翌日にスピノザがもう訪問していることになるからです。
                         
 『ある哲学者の人生』では,スピノザのユトレヒト訪問はその翌年,1673年の夏であったとされています。ナドラーによれば,ユトレヒトに到着したコンデは,ルイ14世に関する何らかの用事のために,7月15日にユトレヒトを出発。そしてスピノザは少なくとも7月18日にはユトレヒトには到着していなかったとしています。
 理由はさておき,スピノザを招待したのがコンデないしはストッパであったことは間違いありません。たぶんそのための旅券の手配などもしたと思われます。こうした状況から考える限り,やはりスピノザがユトレヒトを訪問したのは1673年のことで,つまりすでにデ・ウィットが虐殺された後であったとするのが妥当であると僕は思います。

 第一部定理二八,とりわけその締め括りである「無限に進む」という一語のうちに積極的な意味を見出すために必要なのは,この定理から部分的抽出を行うのではなく,ひとつの全体として把握する場合です。個物res singularisの存在と作用への決定が無限に連鎖するということは,定理の全体が,ひとつの無限を構成していることになります。つまり,あるres singularisAが存在および作用に決定される因果関係は,無限の広がりを有しているということです。もちろんこの場合のAというのは,どんな任意のres singularisにも妥当しなければなりません。すなわちどんなres singularisが存在および作用に決定される因果関係を単独で抽出してみたとしても,それは無限の中の一部であるということになるのです。
 第一部定理一三系で,スピノザが物体的実体の分割不可能性に言及するとき,それは無限であるものの分割不可能性を意味しています。ですから無限であるものの一部だけを抽出するということは,不可能なことであるといわなければなりません。無限の一部を抽出することが可能であるというのは,無限を部分に分割することが可能であるといっているに等しいからです。まして第一部定理二八というのは,物体的実体に限っていわれているのではなく,絶対に無限な実体である神のres singularisに対する最近原因性の説明の仕方であるということが明らかになっているのですから,第一部定理一三からして,このような解釈は禁じられなければならないといわなければならないでしょう。
 ところが,朝倉流では事情がこれとは異なっているのです。もしも無限様態の無限性が,実体および属性,あるいは神および神の絶対的本性を構成する無限に多くの属性と同様に一義的に理解されるなら,確かに上述の解釈は禁じ手といえます。しかし無限様態をres particularisの一部とみなし,かつそのres particularisの一部はres singularisによって構成されると理解することで,無限様態をあたかもres singularisであるかのように把握するなら,禁止条件から逃れています。無限であるものを分割しているのではなく,あたかも有限であるものを分割しているということになるからです。
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