スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

よさこい賞争覇戦&内在的媒介の排除の妥当性

2014-04-15 19:03:05 | 競輪
 新制度となって西日本では最初の記念競輪になった高知記念の決勝。並びは新田-渡辺の福島,猪俣-浅井の中部に大塚,脇本-稲川-筒井の近畿で兵藤が単騎。
 スタートは浅井が取って猪俣の前受け。4番手に新田,6番手に脇本で兵藤が最後尾で周回。残り3周の3コーナー過ぎから早くも脇本が上昇し,残り2周のホームでは猪俣の外に。猪俣はすぐには引かず,バックまで併走。強引に外から脇本が抑え,一旦は離れた兵藤も4番手に追い上げて打鐘。5番手が猪俣,8番手に新田で一列棒状。2コーナー前から猪俣が発進。さらに新田も。直線の入口では脇本,稲川,猪俣,浅井,新田と雁行状態。浅井が新田を外に振り,新田のスピードが緩むと直線では大外を渡辺が突き抜けて優勝。稲川の内から伸びた大塚が2着入線も,このときの内側追い抜きで失格の裁定。繰り上がって新田が半車身差の2着で福島ワンツー。浅井が半車輪差で3着。
 優勝した福島の渡辺一成選手は一昨年10月の岸和田記念以来となる記念競輪5勝目。高知記念は初優勝。マークした新田が後方に置かれたのでピンチかと思ったのですが,見た目以上に前が脚を使っていたようで,これでよかったようです。競技にも参加しているので,競輪に集中できる状況ではなく,以前と比べれば精彩を欠いているといえるような最近の状況ではあったわけですが,それは単に結果だけを見ての判断といえ,持ち味のスピードが衰えているわけではありません。今後もチャンスが巡ってくるものと思われます。

 内在的原因と内在的媒介を完全に分けてしまうことの,『エチカ』の文脈の中での妥当性については一応は問うておくべきでしょう。
 今回の考察で用いた例を再び取り上げれば,僕が部屋の中でどんな行動をしようが,部屋の外部に出ない限り,部屋の現実的本性に変化は生じず,したがって部屋の現実的形相も変わらぬまま保持されるというのがありました。朝倉流ではこの場合,僕が部屋に内在するといういい方は,本来的には不適当であるということになります。なぜなら朝倉流の内在は,単にAがBのうちにあるからAはBに内在的であるといわれるのではなく,AとBの間に因果関係が結ばれている場合にのみ,内在的であるということになっているからです。部屋と僕の間にこの種の因果関係がないということは明白でしょう。現実的に存在するある物体が不変の形相を有する全宇宙のうちにあるからといって,それは本来的な意味での内在ではないということが,この例と論理的に同一の関係にあるということもまた明白であると思います。
 内在というのは文字通りに内にあるという意味なのですから,このような解釈法は常識的には強引であるということになるでしょう。しかし『エチカ』の文脈,あるいはスピノザの言及だけに依拠した場合には,少なくとも成立しないということはできないというのが僕の結論です。というのも,内在的媒介といういい方は僕に特有のいい方なのであって,スピノザは神が万物の内在的原因であるということはいっているものの,無限様態の媒介によって個物res singularisが生起するということを主張する文脈では,内在ということばを用いていないからです。そして同時に,第一部定理二八備考の中盤部分では,神がres singularisの最近原因であるといっていて,同じ第一部定理二八備考の後半部分で神はres singularisの遠隔原因ではないと付け加えていることから,無限様態をres singularisの原因とみなすことはできません。つまり無限様態がres singularisの内在的原因であることはないのです。
 これらの状況から,この点に関する朝倉流解釈は,妥当である可能性があると僕は判断します。
コメント
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