スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

竜王戦&実在論と認識論

2006-11-30 22:38:03 | 将棋
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 竜王戦第四局。封じ手は▲3八飛でした。この局面は両者ともあまり自信をもっていなかったようです。直後,後手の佐藤棋聖の方から千日手を避ける感じで55手目に△3一飛。ここから銀交換になり,今度は両者とも盛り返したと感じたようなのですが,この大局観は渡辺竜王の方が上回っていたようで,ここからは先手が指しやすくなったと思われます。したがって△3一飛は悪手だったといえるのではないでしょうか。62手目,佐藤棋聖が△4九角と打ち込んだのに対し渡辺竜王は▲5八銀などと相手にせず,▲7五歩と一気に勝ちにいきました。さらに75手目の▲6一銀から寄せに入り,79手目に▲6八歩と一旦受けたのが好手。これに対する△6五桂は疑問手だったようですが,ここでは先手の勝ちは動かないのではないかと思えます。87手目の▲8四銀が決め手(渡辺竜王自身はこの前の85手目の▲8五金で勝ちを確信したとのことです)で,以下,緩みなく寄せきって渡辺竜王の勝ちとなりました。結局,穴熊に潜った先手の玉は手つかずで,快勝といえると思います。これで対戦成績は2勝2敗の五分ですが,渡辺竜王からみると第一局が完敗,第二局が逆転負け,第三局が逆転勝ちで本局が快勝ですから,内容が徐々によくなってきているように感じられ,流れは竜王側にあるとみました。

 定義四はそのまま理解すると,知性が実体の本性を構成していると認識するものについてそれを属性というということになります。したがってこれは,認識論(観念論)的な定義であるということになるでしょう。しかし,これについては問題があって,訳注をみてもスピノザ哲学の研究者の間でも諸説があることが分かります。僕の考えでは,これを単に認識論的な定義であると考えるのは,後にスピノザがこの定理に訴えて定理を証明する仕方からみて,あまり好ましくないように思えます。したがって,ここではこの定義は実在論的(認識論的というのとは反対の意味において)定義であると解釈することにします。つまり,このテーマに関連した定義四の意味は,属性とは,実体の本性を構成するものであり,また,知性は属性を,実体の本性を構成するものと認識する,ということになります。ドゥルーズはこれを,スピノザ哲学では知性は実在するものだけを認識するのだから,これは実在論的に考えて問題ないという意味のことをいっています。僕はそこまでいうのはいい過ぎのような気がしないでもないのですが,少なくとも,この定義における知性というのを,無限知性(無限知性も知性であることにはかわりないので)と考えれば,ドゥルーズのような置き換えが可能であると思われますので,こう解釈すること自体は問題ないかと思います。
コメント
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