三郎兼続の日記

趣味の写真で山登り・旅行を主体にした日記
最近は山登りが少なく、城郭・巨木へ

八上城に行って来ました(明智光秀による丹波攻略の地)。

2021-04-13 18:15:42 | 城郭兵庫1
2021年4月6日(火)に兵庫県篠山市の八上城に行って来ました、”麒麟がくる”の明智光秀の丹波攻略の波多野氏のお城です、昨日は波多野氏と同盟を結んで明智軍と戦った赤井氏の黒井城でした。

兵庫県篠山市は波多野氏一族が治めていました、周辺の山にはそれぞれお城を設けていたのですね、沢山ありますね、中世城郭は麓に館、山に詰めの城を設けて守ったのです、真ん中少し下が八上城です(丹波富士の名前がある高城山462/240)、16世紀中頃は三好長慶や松永久秀らと交戦・・・その時は脇の奥谷城が本拠地とか・・・その後八上城を設けて強化・・・・左側の篠山城は江戸期に築城したのです。

今回は篠山城からレンターサイクルで八上城まで往復しました、その後篠山城も散策しました、奥谷城・法光寺城跡には行きませんでした。

これは篠山城天守台から見た高城山462m(八上城)、右が法光寺城かな?。

自転車で来ました八上城です。

登山口前の案内板です、幾つかありますが、東尾根からの春日神社口です。

コース案内もありますね、右側から左側の方にですかね・・・上で左側のコースは危険個所が発生の案内があり途中まで行き戻りました・・後程。

春日神社口です。

趣のある神社なので寄り道します・・・土塀ですが少し剥がれ落ちて。

春日神社。

脇に杉の巨木がありましたね、神社よりも此方に目が行きましたので。

八上城主郭の縄張り図、左上へほうから中央へ此れから登っていきますね、それから右下まで降りて再びもどります。

春日神社内?、伝・主膳屋敷跡です、麓の館跡です、右横少し上まで削平地があります。

少し上り、伝・鴻の巣番所跡。

次に削平地が、伝・下の茶屋丸。

伝・下の茶屋丸からの景色が・・・多分、明知勢が拠点とした金山が見えるのでしょう、天正3年(1575)織田信長の命で丹波攻略を開始した明智光秀は、天正3年10月に黒井城を包囲しましたが、天正4年1月に波多野秀治の寝返りにあい敗北撤退、天正5年(1577)再度丹波攻略に架かります、天正5年10月亀山城・八木城・園部城を天正6年4月までに落とし、八上城・黒井城の包囲網を築きます、1年以上の包囲網で城内は餓死者が出る状態で、天正7年(1579)7月八上城は落城しましたね。

次は伝・上の茶屋丸です・・・・東尾根を削平し陣営を置いた所ですね、山城は堀切で分割し土塁を築けばなかなか落ちませんね・・・小谷錠も四年ぐらいかけての切り崩したのですからネ。

上の茶屋丸の上にも削平地が見えました。

漸く主郭部へ出てきましたね、石垣が少し見え始めました、右側が伝・右衛門丸の曲輪、左側が涼御殿、上が腰曲輪ですネ。

右衛門丸の奥から振り返ります、右側が腰曲輪。

各曲輪の脇を通り山頂方面へ。

振り返ります、腰曲輪・右衛門丸・篠山の街並み。

三の丸です、その上が二の丸へと続きます、多分最近木を刈り取ってくれたのでしょうね、非常に見やすいですからネ。

三の丸に上がりました。

三の丸の端に来ました、腰曲輪・右衛門丸・篠山の町・明智軍が拠点とした金山城?。

振り返ります、二の丸ですね。

二の丸の虎口へ来ましたね、奥が本丸ですね。

此処でも振り返りますね、三の丸です。

二の丸から本丸をみました・・・。

本丸からの景色。

本丸です。

やはり本丸を・・・。

上の本丸の写真右手下にある曲輪・・・岡田丸・・・波多野家の重臣なのでしょう。

岡田丸の奥から見た本丸です、右側方面が二の丸・三の丸方面です、左側方面から藤木坂の西尾根方面ですね。

藤木坂の途中が危険個所ありとの情報がありました、取り合えず水の手曲輪までは行きたいので下ります。

本丸脇の帯曲輪から下りへ。

少し下ると伝・蔵屋敷跡が・・。

なおも下ると伝・池東番所・・・・このお城は殆どが伝承なのでしょうね・・・伝。

急斜面の切岸下が竪堀どか・・・私は右側の水の手へ。

谷あいに水の手曲輪・・・・伝朝路池です、奥の右奥には伝池西番所があり、貴重な水の手を守っていたのでしょう、何せ1年以上の籠城戦で食べ物も無い状態で頑張るのは水があればこそですからネ、天正7年7月波多野家はこの戦で滅亡しました、この1か月後黒井城も落城しましたね。




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