2021年3月9日(火)に埼玉県川越市の河越館跡に行って来ました、JR川越線の西川越駅から歩きました、柏原城跡の帰り笠幡駅からです、この日は結構歩きましたね・・・・道路歩きは疲れますよ。
川越周辺の地図です、川越駅上の川越城とは異なります・・・・逆に戦国期はこの川越城を攻めた位置にあった河越館なのです・・・両方とも入間川なのですが支流ですね。
川越橋から見た入間川下流です、右側の西川越駅から来たのです。
川を渡ると土手下に学校が・・・この横が河越館跡ですね
土手を下ると河越館跡の常楽寺です。
常楽寺を正面から・・・。
中に入り・・・。
お寺横に供養塔があります、この河越氏は坂東八平氏の秩父氏の一族で河越に館を構え河越氏となりました、鎌倉幕府に仕えましたね、源義経のの正妻郷御前(京姫)の里です、重頼・郷・義経の供養塔。
常楽寺横の空き地から見た河越館跡です・・・常楽寺裏手方面が主殿。
河越館跡・・・柵内、正面の建物は先程の上戸小学校です、学校も館の一部みたいですね。
手前の少し凹んだ所が河越氏時代の堀跡ですね・・・・・河越氏は応安元年(1368)に鎌倉幕府と対立した武蔵平一揆で敗れ衰退、遺跡跡に戦国初期再度山内上杉に改修使用されているのです。
河越氏時代の井戸。
これも河越氏時代の堀跡。
説明版です・・・源義経とのかかわり郷御前・・・正妻(静御前が有名ですが)、衣川まで落ち延びました(娘一人)ねわずか5年でした、頼朝の命で京に行きましたね、親の河越重頼も義経没落後誅殺。
河越氏時代の館イメージだそうです。
その後、戦国時代初期長亨元年(1487)に起こった長亨の乱(山内上杉と扇谷上杉の争)の際、関東管領山内上杉顕定が扇谷上杉方の川越城を攻撃するため7年間にわたり陣を構えた場所でもあります、遺構が重なり合っているのです。
山内上杉軍の使用した位置を重ねた説明もありました。
川越周辺の地図です、川越駅上の川越城とは異なります・・・・逆に戦国期はこの川越城を攻めた位置にあった河越館なのです・・・両方とも入間川なのですが支流ですね。
川越橋から見た入間川下流です、右側の西川越駅から来たのです。
川を渡ると土手下に学校が・・・この横が河越館跡ですね
土手を下ると河越館跡の常楽寺です。
常楽寺を正面から・・・。
中に入り・・・。
お寺横に供養塔があります、この河越氏は坂東八平氏の秩父氏の一族で河越に館を構え河越氏となりました、鎌倉幕府に仕えましたね、源義経のの正妻郷御前(京姫)の里です、重頼・郷・義経の供養塔。
常楽寺横の空き地から見た河越館跡です・・・常楽寺裏手方面が主殿。
河越館跡・・・柵内、正面の建物は先程の上戸小学校です、学校も館の一部みたいですね。
手前の少し凹んだ所が河越氏時代の堀跡ですね・・・・・河越氏は応安元年(1368)に鎌倉幕府と対立した武蔵平一揆で敗れ衰退、遺跡跡に戦国初期再度山内上杉に改修使用されているのです。
河越氏時代の井戸。
これも河越氏時代の堀跡。
説明版です・・・源義経とのかかわり郷御前・・・正妻(静御前が有名ですが)、衣川まで落ち延びました(娘一人)ねわずか5年でした、頼朝の命で京に行きましたね、親の河越重頼も義経没落後誅殺。
河越氏時代の館イメージだそうです。
その後、戦国時代初期長亨元年(1487)に起こった長亨の乱(山内上杉と扇谷上杉の争)の際、関東管領山内上杉顕定が扇谷上杉方の川越城を攻撃するため7年間にわたり陣を構えた場所でもあります、遺構が重なり合っているのです。
山内上杉軍の使用した位置を重ねた説明もありました。
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