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玉村豊男氏、「父を語る」(玉村方久斗展)

2008-01-28 11:10:04 | スケッチ



玉村豊男氏、「父を語る」(玉村方久斗展)

江嵜企画代表・Ken



 玉村方久斗展が、京都国立近代美術館(075-7561-4111)で、1月8日から2月17日期間開かれている。方久斗(ほくと))と聞いて、自虐的な絵を描く日本画家と答えるひとも稀にいるが、一般にはほとんど知られいない。展覧会には140点の絵と雑誌など展示されており、見ごたえがあった。

 一方、玉村豊男氏は、おびただしい数の本を出し、テレビにもしばしば出演しておられる、俗に言う有名人の一人である。恥ずかしながら、この日まで、豊男氏は知らなかった。方久斗のことは、遠縁の吉田義三郎から、大昔、ちらっと聞いたことがあった。義三郎の長男、吉田勇から、玉村豊男氏が、講演すると聞いたので、楽しみにして出かけた。

 方久斗展を小1時間かけて、じっくり見た。講演は、午後1時半から始まり、質問入れて3時までだったが、豊男氏のひとことひとことに、父に対する熱い想いが、びんびん胸に響いてきた。

 豊男氏は、方久斗の8男で、末っ子。父を5歳のときになくしている。よって、母親から聞いた話が中心になる。方久斗は、絵を描くのが早く、旅先で、宴席を前にして描いた沢山の絵が、いま、全国で発見されている。絵を描いて宿代の足にもしたようだ。

 たまにお金が入ると、出版や宴席に使った。相撲取りを呼んだりもしたそうだ。絵の勉強もしたが、書の勉強もしていたようだ。方久斗が名を残した、「雨月物語」絵巻は、圧巻であるが、絵に添えられた字は、書のたしなみのない筆者が見ても、並々ならぬ風格を感じた。

 お金は、家計に入らなかった。余りに芸術家過ぎてお金がない。「絵描きにはなるな」というのが母親の口癖だった。その息子の自分が、絵描きになり、もの書きをしている、と豊男氏は、呵々大笑された。その笑顔が実に、すばらしかった。豊男氏が、いかに、おおらかに、日々送っておられることが、正直に笑顔に出ていた。

 方久斗がなくなる前、「そらで絵を描くな。よく見て描きなさい」といった言葉をよく覚えているという。「父がモノをよく見て絵を描いている姿は記憶していない」、とここでまた、笑顔が出た。 母親から聞いた話で、なくなる前の年に、「これからは、売れるような絵を描くからな」といったそうだ。方久斗は売る絵は描かなかった。

 面白いエピソードが紹介された。東京大空襲のとき、「防空壕にはいると死ぬ。おれは一人でも生き残る。生きてすばらしい絵を描きたい」と言って、母と大喧嘩になったと母親が話していたのを覚えているそうだ。

 方久斗は、京都なまりが抜けなかった。絵の仕事しか関心がなかった。東京に出て、3人の子連れの母と再婚した。母親は再婚して5人子供を生んだ。豊男氏は末子。神童の誉れ高かったという、すぐ上の兄は5歳で夭折した。兄が死んだとき懐妊したらしいので、兄の生まれ変わりだと母親が話していた。

 豊男氏は、大病をした。不思議と生還した。転んでクギが眉間に刺さった。ところが両目のど真ん中だったので事なきを得た。パリでの留学時代ふくめたびたびの事故や事件を無事切り抜けた。兄の生まれ変わりだと実感すると、話された。

 今回の「玉村方久斗展」は、大がかりな個展としてははじめてだそうだ。今回の展覧会をきっかけにして、方久斗の絵が見直されそうな予感がする。

 豊男氏は、明るいトーンの上下のスーツが実に良く似合う。現在は、長野県東部町に住んで、農業。執筆、絵と悠然と生きておられるそうだ。

 講演会場の様子を軽くスケッチした。ご婦人の客が多かった。(了)

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