ハリックの診断即治療&虹彩と、Kenさんの経済学&スケッチ

虹彩には、体質や、現在、過去、未来、のデータが秘められています。虹彩学による虹彩分析を針灸、巨針、食事療法の指針に!

巨鍼の刺鍼法は深浅が問題になります:巨鍼療法のセミナー・・・(7)

2024-06-09 15:01:54 | 診断即治療と虹彩学
図1

図2


昨日、巨鍼の痛くない刺し方を少し説明しましたが、イラストで説明すると図1のようになります。
つまり、浅くても、深くても、痛みが出てくるわけで、皮下組織の脂肪層を狙って刺鍼するわけです。

その場合に「ほとんど直刺で刺入」します。
仮に斜刺で刺入すると、表皮なのか真皮なのかが分かりにくいし、摩擦面が大きくなり痛みがでやすいからです。
そして、刺入後に巨鍼を斜めにして少し抜くように、真皮や皮下組織に入ったことを確かめて、進鍼していきます。

それができるようになれば、患者さんに痛みを感じさせないで巨鍼をすることが出来ます。
だから刺鍼がとても重要な操作になるわけです。
その操作ができるようになるまで、自分の足に巨鍼をして訓練していきます。(^o^)

「人には刺すが自分には刺さない・笑」という人がいますが、これは論外です。

報酬(治療結果)を得るには、対価(訓練)を払わなければならないのです。
報酬だけ得ようとすると、信用を失ってしまいます。
巨鍼を刺すだけでしたら、鍼灸師なら誰でもできます。

何のために巨鍼をするかです。
患者さんが困っているのを手助けしてあげるためにやるのです。
「大きな鍼を刺すことが出来る」と自慢するためにするのではありません。

巨鍼を刺すことが出来るだけでは意味がありません。
巨鍼を使って患者さんの症状を軽くしてあげるのが目的なのです。
巨鍼は、直径が0.8ミリを使っていますが、最初は0.5ミリから1ミリのものまでテストして、0.8ミリの方が治療効果も、治療効率が良かったので、0.8ミリを使っています。

上記のような刺鍼ができるようになると、1メートルの距離でも刺鍼できるようになります。
私は、最初のころは胆経の環跳穴から崑崙まで刺鍼することもありました。
現在は、別のテクニックを使うので、その必要がなくなり、長くても70センチぐらいの刺鍼でOKです。



今回のセミナーでは、参加者の皆さんに巨鍼を2本ずつ持って帰ってもらうつもりですので、参加される先生方にはお得かも知れませんね。

日時 :6月23日(日)13:00~15:00
会場 :新城針灸治療院
参加費:20.000円(税込)
講師 :新城三六(日本巨鍼療法創始者)


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「没後六十年 洋画家・辻愛造ー風景・風象・挿絵@」展鑑賞会、西宮市大谷記念美術館(スケッチ&コメント)

2024-06-09 12:44:07 | スケッチ


西宮市大谷記念美術館で「没後60年 洋画家・辻愛造ー風景・風俗・挿絵―」展鑑賞会が西宮文化協会六月行事として令和6年6月4日(火)、午後1時半から開かれ楽しみに出かけた。当館学芸員、内村周氏解説の会場の様子をスケッチした。
 
はじめに吉井良昭会長から「西宮にゆかりがあり明治28年(1895)生まれ昭和39年(1964)亡くなられた、激動の時代を送られた洋画家、辻愛造氏の作品の鑑賞会です。学芸員の内村周さんに解説いただき、あと館内を各自ご鑑賞下さい。」と挨拶があった。
 
展覧会構成は第一章、風景画。油彩画が多い。第二章は、風俗画。油彩、木版画、ガラス絵,墨絵と多彩である。第三章は挿絵。これまであまり注目されてこなかった。第4章は辻愛造ゆかりの画家たちとなっているとはじめに紹介があった。
 
「辻愛造は大阪、今の南船場で明治28年(1895)に生まれた西宮ゆかりの洋画家で今回の展覧会では130点展示している。父親は表具師。明治43年(1910)、日本画家、湯川松堂に師事。大正元年(1912)、洋画家、赤松凜作に師事したと解説が始まった。
 
第一章では「絵画」を展示している。23歳の時に描いた「早春風景」(1918)を紹介した。次に「灯台と家」の絵を映した。志摩半島を描いた絵である。一軒の民家を画面をほぼ覆うように描き、灯台は絵の右片隅の上に小さく描かれている。志摩半島の民家や海を眺めた風景が多い。志摩半島は起伏に富んでおり、どの絵も構図が面白い。辻愛造には魅力的な場所だったようで志摩半島にはよく出かけていたと話しを進めた。
 
辻愛造は昭和3年(1928)に香櫨園に転居、香櫨園洋画研究所を創立した。当美術館の前の通りを東進、夙川までの間辺りの川西町に住んでいた。西宮と身近な画家ですと地図を会場正面に映した。昭和3年誕生した「国画会」に所属した。昭和34年(1959)開催の「国画会」審査風景の写真が紹介され、伊藤敬之介ほか数人が並び、辻愛造の左隣に甲陽学院中学1年の時の美術教師だった須田剋太画伯が映っていた。
 
第二章では、風俗画を展示している。油彩画、ガラス絵、墨絵と多彩である。昭和4年(1929)に西宮神社で開かれた菊人形展風景、「西宮市役所之図」など香櫨園に転居してからは多くの西宮ゆかりの風景を墨絵で残している。昭和5年(1930)に「円山遊園之図」という代表作や「酒場」(1932年)がある。そのころ小松益喜が描いた辻愛造の肖像デッサン画が残っていると映像で映した。
 
第三章では挿絵を展示している。1932~33年に新聞の連載小説の挿絵では「モダンな風俗」を描いている。「コドモアサヒ」(1930年)の挿絵に阪神パークの絵を描いている。雑誌の装丁も会場に展示されていると紹介した。
 
展示会場では、大阪市立美術館所蔵の「晩年絵日記」の一部が紹介されており特に興味深く鑑賞した。会場展示の解説によると「昭和38年(1963)元旦から亡くなる年の昭和29年(1964)5月25日までのスケッチをつけた病床日記である。半紙122枚ある。テレビのニュースや来客の様子。病いが進行したあと深刻さに連動する挿絵や自画像が多いが、描きなれた多くの風俗画に加えて、ちょっとした室内風景などには、辻愛造の本領発揮の趣がある。」と紹介していた。
 
貴重な機会を用意いただいた西宮文化協会事務局に感謝である。(了)

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