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「甲子園百年の歴史」、丸山健夫武庫川女子大学名誉教授、西宮文化協会記念講演会(スケッチ&コメント)

2024-05-14 07:45:51 | スケッチ



「甲子園百年の歴史」と題して武庫川女子大学名誉教授、丸山健夫氏の講演会が4月17日(水)午後2時30分から西宮文化協会四月行事として開かれ楽しみに出かけた。会場の様子をいつものようにスケッチした。
 
講演に先立ち吉井良昭当会会長から「3月行事で甲子園球場見学会を開催しました。今月は丸山健夫先生の甲子園百年の歴史の話を伺います。当会は大正4年(1915)「西宮史談会」として歴史研究の集まりとして始まり昭和22年(1947)、一般の方も参加できる会に衣替えして77年になります。本日は会員外の方々も大勢いただいておりますが、講演会、各種見学会、バス旅行、月報発行など活動しております。是非ご入会いただけば幸いです」などと挨拶があった。
 
「甲子園球場は、今年でオープン百周年を迎えます。大正13年(1924)8月1日に開場した。地鎮祭は8月11日です。建設日数は4け月半です。どうやって出来たのか。作ったのは誰だったのか。」と丸山先生は話し始めた。
 
「阪神電鉄の三崎省三専務さんです。三崎さん(1867~1929)に当時権力が集中していたからできたといわれます。だから名は表に出しませんでした。三崎さんは日記を残しています。三崎さんはアルバイトをしながらアメリカで勉強した経験がある。アメリかでは既に野球が盛んだった。野球は日本でも必ず流行ると三崎さんは直観したのです。それが甲子園大運動場建設につながった。」と話しを進めた。
 
「阪神電鉄は明治38年(1905)神戸~大阪間の営業運転を開始した。明治43年(1910)香枦園で日米で野球の試合が行われた。鳴尾競馬場内に作られた総合運動場で大正6年(1917)全国中等学校優勝野球大会第3回大会が開かれた。第1回大会は豊中球場で開かれた。鳴尾では7年間開かれたが、押し寄せた観客が球場からあふれ新たな野球場建設が急がれた。」と話しを続けた。
 
「甲子園球場は武庫川の改修工事を進めていた兵庫県から武庫川の支流の旧枝川と申川の間の河川敷を阪神電鉄が買い取り用地に当てた。用地が確保されたあとは改修工事で武庫川で使われていたトロッコが生かされた。阪神電鉄の電気が使えた。3月11日に起工、急ピッチで工事は進められ8月1日に鉄筋コンクリート造り50段、大鉄傘の「阪神電鉄大運動場」がわずか4か月半で誕生した。」と話した。
 
今回の丸山先生の講演では阪神電鉄の三崎専務の話が特に印象に残った。「三崎さんは「日本人はからだが小さい。身体を鍛えたい。大運動場には2面のテニスコートを作った。昭和7年(1932)には25メートルプールを作った。」と話しを進めた。
 
「昭和9年(1934)、ベーブルースらのアメリカ選抜チームが全日本と対戦した。昭和10年(1935)、大阪野球倶楽部設立した」(1958年:大阪タイガース・1961年:阪神タイガースに商号変更)
 
「甲子園球場は第二次世界大戦に巻き込まれた。昭和18年(1943)には大鉄傘が金属供出で取り外された。1945年、焼夷弾攻撃を受けた。戦争が終り、米軍に接収された。昭和22年(1947)に春夏の野球大会が復活した。昭和26年(1951)、内野スタンドにジュラルミン製の銀傘が復活した。平成22年(2010)リニューアル工事が完成した。スタジアム照明をLED化した。」と話しを結んだ。
 
貴重な機会を用意いただいた西宮文化協会事務局にひたすら感謝である。(了)

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