4月に入り、学校は来週から新学期を迎えます。
そして今から50年前、ルネは1975年3月19日から4月12日まで、「君のすべてがほしい 」のプロモーションと全国縦断スプリング・コンサート、「ルネ・オン・メロディ」の劇場あいさつ や「メープル・メイツの集い 」のために4回目の来日をしました。ちなみに、3月6日は倉敷コンサート(倉敷市民会館)、7日は東京コンサート( 神田共立講堂)、8日は札幌コンサート( 札幌厚生年金会館大ホール)が開催されました。
▲ルネ・シマール・ファン・クラブ「メープルメイツ」の会報№3より
また、今から42年前の1983年3月27日に、第12回東京音楽祭世界大会(※Wikipediaより)が日本武道館で開催され、ルネと妹ナタリー・シマールがプレゼンターとして招かれました。
ルネの再来日を熱望するファンの署名活動によって実現したものと、共に署名活動を行った友人と諸手を挙げて歓喜していましたが、この来日の本来の目的が、ルネの妹ナタリー・シマールの日本デビューであったことを知ったのは、それからずっと後のことでした。この来日時、ナタリーはいくつものTV番組に出演して「5月の手紙」を歌いましたが、ルネはナタリーと一緒に「ミドリ色の屋根」を歌っただけでした(※Youtube映像「René & Nathalie in Japan」でご覧ください)。また、ルネが第3回東京音楽祭 に出場する前に、何週にも渡って「週刊セブンティーン」で組まれていたのような大々的な特集もありませんでした。
今回は、日本ではあまり大きく取り上げられていなかった、第12回東京音楽祭世界大会 (※過去ログより)についての特集号である、カナダの「Fan Club International René & Nathalie Simard」の会誌「MAGAZINE RENÉ ET NATHALIE」Vol.1No.1、1983年夏号を紹介いたします。
▲表紙 ▼2ページと3ページ(目次)
このレビューは、ルネ&ナタリー・ファン・クラブの会員向けに特別に作成されました。それぞれのキャリアについて、できるだけ多くの情報をお届けできればと思っています。
あなただけのために作成された独占写真、記事、特別プロモーションを提供します。会員カードの有効期間中、定期的に『Magazine René et Nathalie』をお届けします。私たちは、この方法で会員の皆様のご要望にお応えし、皆様の完全なご満足を実現したいと考えています。
ご意見、ご質問、ご感想がございましたら、この雑誌に何度か掲載されているファン・クラブのアドレスまで、お気軽にお寄せください。
皆様が楽しく幸せな読書をされることを願っています。
Jean Pilote ジャン・ピロトゥ
President FAN CLUB RENÉ ET NATHALIE ルネ&ナタリー・ファン・クラブ会長
▲ルネとナタリーのファンクラブのオフィスにて、ジャン・ピロトゥ、パトリシア・ボワヴァンとニコル・フェラン(バシャン姉妹の本より)
▲左頁:ファン・クラブに送られてきた会員からのファンレター紹介
RENÉ ET NATHALIE AU JAPON 日本でのルネとナタリー
The 12th Toyko Music Festival 第12回東京音楽祭
若さと才能を組み合わせると、必然的にルネとナタリー・シマールの名前が浮かび上がります。彼らはどこへ行っても、群衆の熱狂を呼び起こしました。彼らの成功への道はアジアまで広がっています。
日本人は彼らを歓迎しただけでなく、レッドカーペットを敷いて歓迎しました。
▲左頁上:ナタリーは優勝者の Lionel Ritchie ライオネル・リッチーにトロフィーを授与しました。
左頁下:フランスの歌手 Sylvie Valtan シルヴィ・ヴァルタンもこのイベントのために東京を訪れてました。
右頁上段:(左)ルネとナタリー、そして、フェスティバルのゲストアーティストとして人気の Barry Manilow バリー・マニロウ 。 (右)ルネとナタリーは、フェスティバルに参加していた Connie Stevens コニー・スティーブンスと Nancy Wilson ナンシー・ウィルソン に会って楽しい時間を過ごしました。
右頁中段:Joe Cocker ジョー・コッカー と彼のパートナーも、フェスティバル後のレセプションにルネとナタリーと一緒に出席しました。
右頁下段:Gregory Peck グレゴリー・ペック と彼の魅力的な妻は、ルネとナタリーにとても感銘を受けました。
3月21日、ルネとナタリーは第12回東京音楽祭世界大会が開催されている東京へ飛びました。この時、彼らにはマネージャーのギ・クルーティエと彼の友人ジョスリン・ベルジェロンが同行していました。
ルネにとって、今回の日本への旅は帰国の旅でした。 1974年に彼が権威あるフェスティバルで優勝し、驚異的な成功を収めたことを私たちは皆覚えています。ナタリーにとって、それは「日の出ずる国」への2度目の旅でした。1月に彼女は東京に行き、ALPHAレコードから「La Mer, Ma Mère 」(海の中のあなたへ)と題した日本語の初の45回転(シングル)レコードを録音しました。
二人とも力強い復帰でした! 12本のTV番組と日本限定LPです。ルネはこの長い活動で3曲に参加し、ケベックでは、間もなくリリースされる予定の45回転レコードで、彼らが一緒に演奏する日本の曲を聴く機会がすぐに訪れる可能性が大いにあります。
いいえ、日本人はルネを忘れていませんでした。約8年間の不在の後、彼らはそれを再発見して驚きました。12年間の経験を積んだ彼は、これまで以上に決意が固く、生き生きとしていて、才能にあふれていることがわかりました。到着からわずか2日後、彼はすでに東京のメインストリートである銀座でファンに囲まれていました。
ナタリーが名声を得るまでにそれほど時間はかかりませんでした。彼女の45回転レコードはすでに日本のレコード店すべてで販売されており、日本人はそれを大いに愛しています。数週間ですでに20万枚以上売れました。冒険はまだ終わっていません。
3月26日の夜、有名な「東京音楽祭世界大会」が開催され、ルネとナタリーが主賓として出席しました。参加者には、Lionel Ritchie ライオネル・リッチー、Joe Cocker ジョー・コッカー 、Jennifer Warnes ジェニファー・ウォーンズ 、Connie Stevens コニー・スティーブンス、Herbert Léonard エルベール・レオナール、Nancy Wilson ナンシー・ウィルソンが含まれ、Barry Manilow バリー・マニロウが特別ゲストでした。コンテストの最後に、ルネとナタリーは、武道館に集まった3,000万人以上の視聴者と15,000人の観客の前で、Lionel Ritchie ライオネル・リッチーに最優秀賞を授与しました。すべては、9年前にルネ自身が優勝したのと同じステージで行われました。
フェスティバルの締めくくりとして、ルネとナタリーは、毎年このイベントに集まる観客の拍手を受けながら、1974年のグランプリ受賞曲「ミドリ色の屋根(※Youtube映像「René & Nathalie in Japan」)」を披露しました。
9月には再び日本に戻ってくる予定で、ルネとナタリーは日本の主要都市で一連のショーを行う予定です。
彼らがこれまで常に素晴らしい成績を残してきたように、彼らが自国を誇らしくしてくれることは間違いありません。
ギイ・クルーティエにとって、これはルネとナタリーが人口1億1,800万人の日本という巨大な市場に参入することを可能にするもう一つの傑作です。記事は終わりに近づいていますが、私たちは無限の自信とある種の熱意を持って続編を待っています。
この記事を訳して初めて、ナタリーが1983年1月にレコーディングのために来日していたこと、さらにルネとナタリーが9月に再来日してショーを行う計画があったことを知りました。それから、この来日中にルネが参加したという3曲は何だったのか、それがどうなったのか気になります。もしかすると、ナタリーのファースト・アルバムに収録する曲だったのかもしれません。
同年12月に発売される予定だったナタリーのファースト・アルバム(※過去ログ「幻になったナタリーの日本のアルバム 」参照)は、発売延期の末に発売中止となってしまいました。残念ながらナタリーは、ルネが1974年の第3回東京音楽祭世界大会でグランプリとフランク・シナトラ賞を受賞したことによって、世界から注目を集めたような、衝撃的なデビューを果たすことは出来なかったのです。日本でのデビュー曲『5月の手紙』が思ったほど売れなかったために、アルバムの発売も中止になったのでしょう。ルネ友のみなさまもご存じのとおり、『5月の手紙 = Boy』は後に歌詞を変え、TVアニメ『光の伝説 』のオープニング曲『ハートの季節 』として伊藤つかさ が歌いました。
▲1983年に「週刊セブンティーン」に掲載されたナタリーの紹介記事
上の記事の内容をルネとナタリーは知っているのでしょうか? ルネについてもあまり好意的な書き方がされていません。1974年に何週にも渡ってルネの特集記事を紹介していた同じ雑誌とは思えない書き方をしています。この当時は『竹の子族』やツッパリがもてはやされ、アイドルも『普通の女の子』の全盛期でしたし、ルネをあまり知らない世代の記者が書いたのでしょうか? また、東京音楽祭のインタビューで、ナタリーをPRする目的だったのでしょうけれど、一緒にいるルネ本人の前で「とっくにお兄さんを超えている」と言ったレポーターに、私を含めたルネ・ファンの中にはムッとした方もいらっしゃったのではないかと思います。
1974年当時からのルネ・ファンの期待は外れ、素敵な青年に成長したルネも、ルネそっくりのナタリーも日本で活動することはありませんでした。カナダでは、ルネとナタリーが日本で活躍することを期待していたことが、今回紹介したファン・クラブの会誌で分かっただけに残念でなりません。
さらにルネが25歳の時には、「今夜だけ復活!栄光のアイドルスター達」と題したバラエティー番組の出演依頼でルネは来日していました。この時ケベックでは、「日本人はルネを忘れていなかった」と題した記事が芸能新聞に掲載され、ルネもナタリーとのデュエット曲を引っ提げて来日していました。しかし、ルネは1974年当時のことを紹介され、「ミドリ色の屋根 」を歌っただけでした。
▲「エルヴィス・ストーリー」の来日時、向かって左からプロデューサーのジャン・ピロトゥ、エルヴィス役のマルタン・フォンテーヌと舞台監督のルネ
そのこともあって、ミュージカル「エルヴィス・ストーリー」の舞台監督として来日したのは別として、ルネが日本に来ることは無いのだろうと思っていました。でも、昨年の11月に、ルネが妻マリー=ジョゼと日本にプライベートで旅行をし、ルネが今でも日本のことを大切に思ってくれていることを知って、本当に嬉しく思いました
▲ルネの日本旅行(2024年11月)の記事より
今回は当時の想い出まで語ってしまい、盛りだくさんな内容になってしまいました(笑)。文中のリンクも参考にしていただければ幸いです♪
次回はカナダの「Fan Club International René & Nathalie Simard」の会誌「MAGAZINE RENÉ ET NATHALIE」Vol.1No.1、1983年夏号から、ルネとナタリーの日本での活動の様子を紹介いたします(^^♪
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