ミドリ色の屋根は永遠に~René Simardに首ったけ~

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ルネのデビュー50周年記念誌④

2021年09月25日 | ルネの活動記録

 ルネのデビュー50周年記念誌紹介の4回目です。

 日本は23日(木)が「秋分の日」でした。ルネがデビュー当時住んでいたケベックのオルレアン島は紅葉シーズンを迎えています。様々な農産物とその加工品のお店の紹介映像を見ると、食いしん坊なシマ姉は「食欲の秋」まっしぐら(笑)。いつかまた行きたいなぁ・・・。



 そして今回から2回にわたり、ルネの家族についての内容になります。1回目はルネの亡き父ジャン=ロック・シマール氏と亡き母ガブリエル・ラベ(愛称ギャビー)についてです。

 過去ログでも紹介いたしました、ルネの亡き父ジャン=ロック・シマール氏の著書”Au-Dela Du Silence 沈黙を超えて”の年代記には、氏が生まれてから、再婚したモニクさんが亡くなるまでの出来事が書かれていましたので、改めて紹介いたします。

▲ジャン=ロック・シマール氏の著書”Au-Dela Du Silence

<ジャン=ロック・シマール一家の中の顕著な出来事>

1931. 4. 1 ジャン=ロック・シマールJean-Roch Simard誕生
1934.11.21 ガブリエル・ラベGabrielle L'Abbé誕生
1953. 7 ジャン=ロックとガブリエル結婚
1954. 8.13 オデットOdette誕生
1955.12. 5 リンLyne誕生 
1956. ジャン=ロック、初めてビールを飲む
1957. 1.21 マルタンMartin誕生
1959. 6.10 ベルナールBernard誕生
1959. 6.30 ベルナールBernard死亡
1960. 3. 9 レジスRégis誕生
1961. 2.28 ルネRené誕生
1964. 5.26 アレクシスAlexis誕生
1965. 3~10 上の4人はhorphelinatで暮らす
1966. マティルドゥMathilde死産
1968. 8 オルレアン島l'Île d'Orléansに引越す
1969. 7. 7 ナタリーNathalie誕生
1970. ルネ、「ジェン=ロジェの発見」で第1位獲得
1971. ケベックのサビニエール・ドリオン
   Québec, rue Sapinière-Dorion通りに引越す
1972. オルレアン島に戻る
1974. 6 ルネ、第3回東京音楽祭世界大会でグランプリ受賞
1975.10 ジャン=ロック、家族と別居する
1978. 3 アレクシス、ジャン=ロックの家に移る
1978. 5.26 ジャン=ロック離別
1983. ジャン=ロック、モニク・オジェMonique Augerと出会う
1992.12.22 ジャン=ロックとモニク結婚 
2003.11.28 モニク逝去


※カテゴリ「ルネの家族」参照
https://green.ap.teacup.com/applet/rene_simard/msgcate28/archive


▲デビュー25周年の特集番組映像


     ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪


TOUT sur l'enfant star
René Simard
L'IDOLE d'un PEUPLE



Sa famille lui fait garder les pieds sur terre
  家族は彼に足を地につけさせている

 ルネにとって大切なのは子供たちや妻だけではありません。 彼の両親 (生前の) と兄弟姉妹は、彼の人生において大きな位置を占めています。


 ルネは7人兄弟の5番目です。 彼には3人の兄弟:マルタン、レジス、ジャン=ロジェ、そして3人の姉妹:リン、オデットとナタリーがいます。 彼は、名声を手に入れたとき、彼の人生は最悪の結果になったかもしれないと認めています。 しかし、彼の家族は、彼が地に足をつけておくことを許してくれていました。
 「私を救ってくれたのは家族の核です。 若い頃にこの職業を始めれば、脱線する可能性がありました。 もっと大変な時期もありましたが、この強い核が道を示してくれました。 神の摂理に感謝します。 私は幸運な男です。」と、彼は強調しました。
 また、彼は嫉妬を抱えて生きていなかったことを幸運に思っています。
 「私の兄弟姉妹は決して私をうらやましく思ってはいません。私は例外的な仕事に就く機会があり、同時に、彼らはとても名誉ある生活を送っています。 私は嫉妬の感情を感じたことは一度もありません。そして、それは常に、私が今の仕事を続けるモチベーションになっています。

 これは、ルネにとって非常に貴重なシマール一族の何人かのメンバーの肖像画です。


▲仲睦まじかった頃の両親 右は「René Simard au Japon」の試写会で





Son pere,
Jean-Roch Simard 父ジャン=ロック・シマール

▲彼の父親はアルコール依存症に苦しんでいました
 ジャン=ロック・シマールは、離れた子供たちとの和解に成功しました


 ルネの父親は、信念を持ち、誇り高く、勤勉な男でした…そして、彼の時代を先取りしていました! ナタリー・シマールは子どもの頃、ジャーナリストに、家事と料理は彼がやっていたと語りました。 ジャン=ロックは隣人に与えるのが好きで、それは彼が数年間教区の聖歌隊を志願した理由でした。
 しかし、彼は自分よりも強い悪、つまりアルコール依存症と戦わなければならなかったのです。彼はこの病気によって衰弱を感じることがよくありました。 1975年、彼の子供たち、ルネとナタリーのマネージャーであるギィ・クルティエとの意見の相違により、彼は家族全員との関係を断ち切りました。ジャン=ロックがアルコール依存症から抜け出すと、ルネは彼に近づきました。
 2007年、ジャン=ロックはジャーナリストのルイーズ=マリー・ラコンブに打ち明けました。その後、彼はシマール家の不幸を詳述する本、“Au dela du Silence 沈黙を超えて” を書きました。しかし、この本のいくつかの箇所は、ジャン=ロックの要請により、出版前に家族の一員によって撤回されたようでした。マダム・ラコンブは次のように説明しました。
 「シマール氏は傷付いた男でした。彼は私に秘密を打ち明け、引き下がらなければならないほど難しいテーマを打ち明けました。 この男の苦しみは計り知れません。
 彼は 2010年2月22日に78歳で亡くなりました。彼は喘息、肺気腫、糖尿病を患っていました。彼は人生の最後の数年間を病院で過ごすか、亡くなる前に親しくなった娘のナタリーと一緒に過ごしました。


左:芸能誌のトップ記事タイトルは「ルネは家族全員をサポートする必要はありません」「2年間彼の父と会っていない」
 右:ルネと父ジャン=ロック氏との和解


Son mere,
Gabrielle L'Abbé 母ガブリエル・ラベ

▲ギャビーはシマール家の砦です 彼女は決してがっかりしない

 彼女がギャビーと呼ばれたことを除いて、私たちは一族の家長についてほとんど知りませんでした。専業主婦で、夫のアルコール依存症のために貧しい家族を支えていました。ルネにとって、この女性はただ刺激的でした。
 「私の母は私を驚かせる人でした。時が経つにつれて、彼女の優しさは増すばかりでした。彼女は、レジリエンス(回復力)という言葉の意味を教えてくれました。ママは私の人生の重要な人であり、これからもそうです。」  
 ジャン・ロックとの離婚後、レオン・ポルタンと出会いました。 今回はルネが語りました。
 「私は、彼女がどんな時も常にポジティブである、私の天使ガブリエルと呼んでいる私の母に似ています。彼女は常に物事の美しい側面を理解し、体験しようとしていました。彼女は糖尿病を患っており、インスリンを1日3回服用し、生き残る方法を知っていました。 彼女にはしばらく前から新しい恋人がいて、一緒にいるのを見るのは可愛らしいです。
 彼女はレオンと再婚し、メディアは小さな式典に招待されました。この女性は雑誌”Le Lundi”のコラムでも知られており、”Maman Simard ママン・シマール”の名前で料理記事に署名していました。ガブリエル・ラベは2015年8月3日、長い闘病の末、84歳で亡くなりました。


<le Journal de Montrealの記事からの追記>
 「私の母は人生で本当に大変な時期を過ごしました。彼女は常に生存者でした。コンピューティングが私たちの生活に登場する前に、彼女はすでにキーボードに削除ボタンを持っていました。私が前進するのを防ぎ、子供たちの生活を悪化させるための弾丸のようなものを、私が経験したすべてのものを引きずり出したくありませんでした」と彼は言いました。

▲母ガブリエル(ママン・シマール)の料理本

▲母ガブリエルとレオン・ポルタン氏の再婚の記事

▲父ジャン=ロック・シマール氏(左)と母ガブリエル・ラベ(右)の葬儀の記事


 次回は”Sa famille lui fait garder les pieds sur terre”の後半、妹のナタリーと兄レジスについてです。


 現在ナタリーはfacebookの公式ページや”Simplement bien avec Nathalie”で情報発信し、covid-19の第4波の中、雑誌やミニライブ等で意欲的に活動しています。

 ルネの53枚目のアルバム11月11日に発売されることが発表されました。それに向けて、ルネはプロモーションやTV出演で忙しくなることと思います。

 息子オリヴィエ夫婦と同居することで、今年4月に生まれた初孫のクロエちゃんと一緒の生活を満喫しているルネ。 covid-19の影響で、ミュージカルの制作延期など、予定を変更せざるを得ないこともありますが、体調管理に十分気を付けて、デビュー50周年という記念すべき年にふさわしい素敵な歌やステージで、今まで以上に私たちファンを楽しませてくれることを、心待ちにしていますsymbol1


 
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     cat4三毛猫姐御だよりcat

 8月8日以来久しぶりのミイ姐御だよりですnikukiu


 相変わらず『寝子(ネコ)』だけに、ガッツリ寝ております(笑)。少し前まではもう二回り大きな箱がお気に入りでしたが、朝晩涼しくなったためか、小ぶりの干し芋の箱にみっちり詰まって寝るのがマイ・ブーム(? 奥に大きい箱も有ります)のようです(上写真参照)。でもしっかりはみ出てます(笑)

 紙袋や箱が有ったら検品して、取りあえず一度は入ってみる猫あるある★ また、早朝小腹が空き始めた頃、置いてある紙袋や箱、広告などをビリビリかじると、私が飛び起きるのを覚え、「早く起きないとビリビリするわよ~」とでも言うように、人の様子をうかがいながらかじります。近くに来て鳴いたり、フミフミすればいいものを~★

 また、雨に濡れて帰って来ると、必ず私の所に来て「拭いて~symbol1」です。ミイ専用出入り口から出ておきながら、入る時は人がいる濡れ縁で「開けてくださ~いanger」 自分で開けられるくせに、甘え声で鳴いて引き戸や網戸、ミイの監視台と化した出窓を開けてもらうお嬢様のミイですが、夏痩せして軽くなって、涼しくなった途端、スズメを狩ってくるアマゾネスでもあります★

 飼い主の空耳アワー「ごはん~」、「ないの~」に加え、熱い眼差しでご飯や飲み水の催促。控えめに「くーん、くーん」と鳴いて、それでも駄目なら哀愁漂う後ろ姿で訴え、おねだりするミイ姐御にメロメロな義父は、ミイのチョコチョコ食いのために、気付くとご飯を足しています。
 ミイ専用出入り口から夜中に侵入して、ミイご飯を食べていく猫が時々出没するため、最近は夜締めてしまうので、早朝起こされる私の寝不足の秋は続きます。そしてミイは、朝も昼も夜も適度に寝て、早起きして外トイレとパトロール(泣)。でも、私が帰って来ると、いそいそお迎えに出てきて「お帰り~」攻撃のミイや、チュール欲しさに「お手」、「おかわり」をするミイ(これは私にしかしないsymbol1)に、甘々なシマ姉なのでした。


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ルネのデビュー50周年記念誌③

2021年09月19日 | ルネの活動記録

 ルネのデビュー50周年記念誌紹介の3回目です。ちなみに今から46年前の1974年9月20日は、ルネの2回目の来日の最終日でした。

 そして今回は、ルネの子供時代のエピソード、”Un enfant curieux et au grand coeur心の広い好奇心旺盛な子供”のPart.2になります。デビュー前のルネがどんな生活をしていたか、家族とどう関わっていたかが分かる内容です。

TOUT sur l'enfant star
René Simard
L'IDOLE d'un PEUPLE



Un enfant curieux et au grand coeur
  心の広い好奇心旺盛な子供



幸福の家

 ルネが子供時代を過ごしたのは、主にオルレアン島のサント・ペトロニーユでした。家族は彼らの家に『白い家』というニックネームを付けました。それは小さいですが、それでも9人の大家族を収容することができました:
 「私たちは3つの部屋を持っていました。 1つは私の両親用、もう1つは女の子用、もう1つは男の子用です。 私たちは同じベッドで寝ました。 弟のジャン=ロジェが足元で斜めになって寝ていることもありました。」
 
 歌手を覚えています。 2014年、”Qui etes-vous?”という番組の撮影のために、アーティストはこの子供時代の家に戻り、次のように言いました。「感動しました。 家に足を踏み入れるだけで、時間を遡るような気分になりました。年をとるにつれて敏感になるんです。 私の奥深くに何かを求めるようになります。」と。


♪YouTube映像”Simard Houses”
https://youtu.be/NrRm3HtWvi0



▲オルレアン島の『白い家』

▲▼『白い家』”Qui etes-vous?”より

 

▲『船長の家』”Qui etes-vous?”より


彼にはいくつかの
    素晴らしい想い出がある


 ルネ・シマールは裕福な家庭に生まれた(銀のスプーンを口に入れて生まれた)わけではないかもしれませんが、子供の頃の想い出を世界と交換することはありませんでした。 特に彼の家族と一緒に歌うことになると。

観光客に知られる家族!

 両親、兄弟、姉妹は頻繁に会って歌います。 家族がセント・ペテロニーユ村では、そのことで知られるようになるほどです。 家族は通行人の注意を引くために『白い家』のバルコニーによく移動して歌いました。「観光客がいると、村の人たちは彼らを私たちの聖歌隊に向かわせました。 立ち止まって私たちを見ている人がいて、私たちは歌う家族と呼ばれていました。 それは私が大切にしている美しい想い出です。」とルネは言います。


常に囲まれている

 彼は豊かな愛の中で成長しました。 彼の両親も人の周りにいるのが好きな人たちでした。 楽しくなればなるほど、私たちはもっと笑います! 歌手は言います:「私は日曜日のミサの後の家族の食事が好きでした。 私にとって、それは神聖でした。 私はほぼ毎日ミサに仕えました。 私の結婚にも参加したルジナール・ラローズ司教、ルボウフ神父、家族の友人であり続けたシスター・エレーヌを覚えています。」 小さなルネがとても自信がある少年なのは、間違いなく、このすべての愛と、さまざまな人々と築いたこれらの感情的な絆のおかげでした。 その上、彼は率直に発言しました(ポケットに舌を持っていない)。 すでに彼は、若くして大きな心を持っており、彼の周りの人々を幸せにするのが好きでした。 彼は決してこの貴重な資質を失うことはありませんでした。


子供の頃の想い出

 「サンペトロニーユには、当時ベル・エア城がありました。 私たちはプールで泳ぐことができるように50セントを支払いました、そして私たちが階段を降りると、人々が泳いでいるのを見ることができる窓がありました。 それは前衛的でした。 冬には、雪の中に砦を建て、トンネルを掘ってそれらをつなぎ、ろうそくの明かりで自分たちを照らしました。 私たちは外で日々を過ごしました。私はあなたにそれを夕方に言うことができます、私たちは寝ました!と。」、大人になってからのインタビューでアーティストに伝えました。 ルネにとって、家族の想い出は宝物です。 確かに、少年は家族との生活が何であるかを長い間知らなかったと言うことができました。 9歳で成功すると、彼はスーツケース暮らしを始め、家族の周りで過ごす時間が少なくなりました。

ルネはそれをすべて持っていました:美しい声、優しさとユーモアを。



 このページでは、日本ではあまりなじみのない表現が3つほど出てきました。それは、「銀のスプーンを口に入れて生まれる(裕福な家庭に生まれる)」、「ポケットに舌を持つ(率直にものを言う)」、「スーツケースで暮らす」です。3つめは、ルネが歌手デビューしてケベックのアイドルになった時から、TV番組やコンサート等で各地を飛び回って活動したことを指します。さらに第3回東京音楽祭世界大会でグランプリとフランク・シナトラ賞を受賞してからは、日本だけでなく、アメリカとフランスでも活動し、アメリカでは長期滞在して英語とダンスのレッスンを受けるなど、家族と離れて生活する期間が長くありました。


 現在は、ケベックに腰を落ち着けて活動しているルネ。還暦を迎え、ベテランの歌手としてだけでなく、俳優、司会者、監督など、幅広い才能を発揮しながら、若手育成にも力を入れています。また、前回のコンサート・ツアーでは、妻マリー=ジョゼと娘ロザリーが同行し、娘と”Smile”でダンス共演もしましたね♪ これからも夫として、父として、祖父として、家族を大切にして、プライベートでも幸せな人生を歩んで欲しいです!!


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   cloverシマ姉のグリーン・ライフclover


 今年のコスモスが咲き始めました。2メートル近い高さまで伸びますので、毎年台風で倒れてしまいます。写真は台風14号が通過する前の10月16日のもの。時々小雨が降る不安定な天気でしたが、雲間から青空が見えた時に携帯でパチリ♪ 向かって左の写真はなかなかいいでしょう? ちなみに17日の午前中の内に、暴風雨で倒れないようにひもで縛るなどの対策をしていたため、今回は大丈夫でした。

 それから、夏越しに成功した、赤、白、ピンクのガーデンシクラメンが咲き始めました❤ 葉が全部なくなってしまったため、今年はもうだめかと放っておいた大きな植木鉢の白いシクラメン(右写真手前)は、いつの間にか葉を出し始めていました。3年目の株なので夏は休眠中だったのかしら? 処分しないでおいて本当に良かった! 4株とも液肥で栄養補給中です。
 


 9月も中旬。暦の上では秋。23日は秋分の日なのに、まだ朝からミンミンゼミ(写真右)が鳴いています。今年はアブラゼミツクツクホウシヒグラシの鳴き声をほとんど聞いていません。さすがに日が短くなり朝晩は涼しくなって、秋の虫の音も聞かれるようになりました。

 濡れ縁の朝顔ユウガオがまだ頑張っています。でも、西の出窓のグリーンカーテンの方はもう終わりかけです。

 それから、購入当初、強い日差しで葉が日焼けし、下の方の葉が落ちてしまっていたカポックは、数年ぶりに下から新芽が出ました♪(写真中央) 今年は、花を咲かせるまでに20年以上かかるとも言われ、花が見られるのはごく稀なカポックが花を付けました。「手入れが悪く生存の危険を感じると咲くとも言われている」と書かれた記事を読んだため、花が枯れた後切ってしまいました。これで一安心・・・と思っていたら、実が黄色や赤に色づいてきれいだそうで、残念なことをしました(泣)。でも、カポックは運気を上げる植物で、さらに、観葉植物が育ったり、いつも咲かない花が咲くのは、幸運が訪れるサインだそうですので、期待することにいたしましょうsymbol1

 もう少しして花が終わったら、庭のブルーサルビアの剪定をし、ベゴニアを植木鉢に植え替えて冬越しの準備をします。また、今年は義父が除草剤を散布するのを阻止したため青じそが群生(笑)。しその実をたっぷり収穫して醤油漬けを作りました♪ サボってしまったしその油味噌づくり・・・今から柔らかそうな葉を摘んで作ろうか迷っている、食いしん坊のシマ姉です。 

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ルネのデビュー50周年記念誌②

2021年09月12日 | ルネの活動記録

 ルネのデビュー50周年記念誌紹介の2回目です。

 ちなみに、今から46年前の1975年9月14日と15日は、ルネのファースト・コンサート東京公演の日でした。


 そして、9月9日の”Échos Vedettes”に掲載された記事で、ルネの53枚目のアルバムの発売11月11日に決定したことが発表されました!!

 今年は、彼のデビューアルバムL’oiseauから50周年を迎えるにあたり、ルネ・シマールは今秋、53回目の発売を予定しています。 2月に60歳の誕生日を迎えた歌手にとって、今年はお祝いの年です。 このレコードで、彼の人生の新しい章に入る多才なアーティストは、私たちのために何を用意しているのでしょうか? 私たちはしばしば、私たちを驚かせることができた誰かから、何でも期待することができます...そして私たちはこの新しい作品を発見することを待つことができません! 発売日:11月11日

 以前10月発売とお知らせしておりましたが、ちょっと遅れても発売日が決定してワクワクですsymbol1 今回も日本のAmazonで取り扱われることを期待しましょう!


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 今回のデビュー50周年記念誌の内容は、ルネの子供時代のエピソードになります。

 私はルネがデビュー前の幼少時に病気で入院したことを、知人から聞いて知っていました。でも、記事で読んだのはこれが初めてです。また、デビュー前に貧しい生活を送っていたことは周知のことですが、父ジャン=ロック氏が喘息を発症して働けなくなったことが原因だったと、ずっと思っていました。

 しかし、ルネのセミ・ドキュメンタリー映画”Un Enfant Comme Les Autres 普通の子供(日本公開時は『ルネ・オン・メロディ』)”
等でも、そのことについてはほとんど描かれていませんでしたし、ルネのデビュー25周年記念CD集の小冊子や記念誌で紹介された経歴でも書かれていませんでした。そしてアルコール依存症だったこともです。

 こちらは、ケイブンシャのニュー・ソング・ブック臨時増刊号「スーパーアイドル ルネの特集記事「ルネ・シマール物語」の中からの抜粋です。『パパの病気』に書かれていることが、デビュー前のシマール家が生活に困窮した原因だと、ずっと思い続けてきた情報のもととなっています。


 「パパが病気になったのは、ルネが7才の時でした。パパの病気はぜんそくでした。現在は良くなったものの、その頃はひんぱんに起きる発作のため、ほとんど働くことはできない状態でした。このため、もちろん一家の生活は苦しいものになり、まず、それまで借りていた、大きな二階建ての家から、ケベック市内の小さなアパートの地下の4部屋に移りました。姉さんたちも働きに出ました。でも、何と言っても食べざかりの子供が7人。国からの保助や、姉さんたちの仕事だけでは食べるだけがせいぜいです。」

▲料理の仕事中のパパ(左)と両親の結婚式の写真(右)

 ルネが生まれたのはシクーティミのサグネィで、その後ケベックシティのオルレアン島セント・ペテロニーユ村に転居したのは、父ジャン=ロック氏の仕事の関係だったことや、様々な職場でコックの仕事に就いていたこと等が記念誌によって分かりました。
 月刊明星1974年10月号に掲載された『まんが履歴書』では、『製材会社のコックさん』と書かれており、ファン・クラブ「メープル・メイツ」の会報№1に掲載された『ルネ・物語』では、『父親のシマールはもともと材木労働場のコックをしていて、少ない収入をおぎなおうと家にいる時は必ず近くの教会の聖歌隊のリーダーをつとめた。』と書かれていました。それらの記事については、カテゴリ『ルネ・シマール物語』で過去ログをお読みください。

 また、父ジャン=ロック氏の著書”Au-Dela Du Silenceの年代記によると、シマール一家がオルレアン島に引越したのは1968年8月。その1年後の1969年7月7日に妹ナタリーが誕生しましたが、1970年にルネが「ジェン=ロジェの発見」で第1位を獲得した後、一家は1971年にケベックシティのサビニエール・ドリオン通りのアパートの地下の4部屋に引越しました。それは前出の『パパの病気』でも書かれていました。((Journal de Montrealの記事では「シャルルブールの宿泊施設」)

▲アルバム”Un Enfant Comme Les Autres”のジャケットの内側と映画の一場面

 1971年にルネがデビューしてオルレアン島に戻ったのは1972年でした。そして、ルネのセミ・ドキュメンタリー映画”Un Enfant Comme Les Autres普通の子供(日本公開時『ルネ・オン・メロディ』)は1971年12月から1972年1月に撮影され、1972年3月30日に公開されました。近所の人たちに見送られながら『白い家』を出るシーンや、購入した『船長の家』に到着し、家族が家に入る中、売家のプレートを外してポーチから落とすシーンがありますが、その日付から考えると、再現ではなく、ほぼ実際の場面の記録だったのではないかと推測されます。


 ルネを最初に発見したのは、当時ノーベル・レコードの人気歌手だったパトリック・ザベ氏(またはクルティエ氏の母)で、結婚式には招待されて歌ったことが当時の記事で紹介されています(上の記事参照)が、映画や日本で紹介された経歴等では、クルティエ氏の結婚式で歌っていたルネの歌声を聞いて、ルネをスカウトしたことになっているものもありました。(それについては記念誌の⑥で紹介いたします)

▲月刊明星1974年10月号の特集記事より『船長の家』でのリビングで家族と一緒に

※カテゴリ『ルネ・シマール物語』参照
https://green.ap.teacup.com/applet/rene_simard/msgcate6/archive
※過去ログ「ルネのデビュー裏話」参照
https://green.ap.teacup.com/rene_simard/574.html

 ちなみにこの本では、ルネの誕生日を『1月26日』と間違って記載されていましたので、訂正してあります(カナダのファンの間でも話題に上りました)。また、ルネがオルレアン島で最初に住んだ『白い家』ですが、シマール一家が住んでいたのはその2階です。

 私の翻訳では不十分かもしれませんが、これからずっとデビュー50周年記念誌の紹介記事が続きますので、楽しくお読みいただければ幸いです。


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TOUT sur l'enfant star
René Simard
L'IDOLE d'un PEUPLE



Un enfant curieux et au grand coeur
  心の広い好奇心旺盛な子供

 サグネイ出身の少年の素晴らしい運命を、誰も予測できなかったでしょう。 しかし、ルネ・シマールはスターの素質を持っていました。


 歌手、司会者、俳優、監督となる男が生まれたのは、1961年2月28日シクーティミでした。ルネ・シマールは家族の中で、7人の子供の5番目ですが、シマール一家は貧困の中で暮らしており、両親は毎月の収入を得るのに苦労していました。

頻繁な引っ越し

 ガブリエル・ラベは専業主婦で、家、子供、家事の管理を担当していました。父のジャン=ロックは家族を養うためにいくつもの職業に就きましたが、彼が最も頻繁に仕事をしたのは料理人でした。彼は主に冬の製材所の料理人でしたが、夏の食堂でも料理人をしていました。その後、ジャン・ロックはオルレアン島のレストランで働きました。家長の様々な仕事のために、シマール家は頻繁に引っ越しをしました。しかし、ジャン=ロックには常に同じ目標がありました。それは、家族を貧困から救うことができる仕事を見つけることでした。「私たちが小さい頃、家族でクリスマスバスケットを持っていました…そして、それは私にとって、子供の目にも常に素晴らしい贈り物でした。それは並外れたものでした。」と、永遠の楽観主義者である大人になったルネ・シマールは説明しました。


A six ans, il est hospitalisé6歳で、彼は入院しました

病気が襲う

 1967年、ルネ・シマールは6歳でした。 この病気は家族の中に入り込み、最初に肝炎に感染したのは、母親のガブリエルでした。ウィルス性肝炎は当時よく起こった障害でした。
 次に肝炎にかかったのはルネでした。ふたりとも何日も入院しました。親戚たちはとても心配し、枕元に次々にやってきました。最終的には痛みよりも不安がありました。 医療チームはなんとかウイルスを取り除くことができ、人生はその流れを取り戻したのでした。


▲▼2回目の来日(1974年)の時のポスター、ノーベル・レコードのサイン入り絵葉書、ピンナップ(上)と記事(下)



<le Journal de Montrealの記事からの追記>
 ルネ・シマール ルネ・シマールは、1961年2月28日午前3時33分、シクーティミのl’Hôtel-Dieuオテル・デューで生まれました。 彼はオルレアン島に移る前に、Saint-Ignaceサン・ティグナス通りの住宅で幼少期を過ごしました。



 ルネが歌手デビューした後、父ジャン=ロック氏も保護者としてルネのマネージメントの仕事をするようになり、一家の生活は安定しました。紹介されている家族写真も、デビュー後購入した『船長の家』の暖炉の前で撮影され、ルネが受賞したトロフィーも写っています。
  同ページの白黒写真のルネは、2回目の来日時の時のものです(上画像参照)。ルネの1回目と2回目の来日には、父ジャン=ロック氏も同行していました。

 また、ウィルス性肝炎は、ウイルスが原因となって肝臓に生じた炎症性疾患のことを指し、臨床経過によっては急性期の症状のみで治まることがある一方、慢性化し肝硬変や肝細胞癌など、より重篤な病気が発症することもあります。入院中は家族もルネ本人も不安だったに違いありません。完治できて本当に良かったです!

 現在ルネは「100歳まで生きる」ことを目標に、食事の管理や運動習慣により健康と体力の維持に努めています。還暦を迎えてなお、初孫が生まれた幸せや、デビュー50周年53枚目のアルバム制作、GARA comediHa!コラボ・アルバムとミュージック・ホール・プロジェクトで充実した毎日を送るルネを、ずっと応援していきたいですね!!


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    forkシマ姉のスローライフitem9



 『ルパン三世』や『コブラ』のモデルにして、戦後のフランス映画界を代表する俳優ジャン=ポール・ベルモンド氏がパリの自宅で亡くなりました。 彼は88歳でした。

 1974年にルネ・ファンになってからというもの、洋楽や洋画に目覚めた私は、シャンソンやフレンチ・ポップスを聴き、フランス映画を深夜のTVロード・ショーで観るようになりました。当時のフランス映画は「アラン・ドロンか、ジャン=ポール・ベルモンドか。」と言われており、私はベルモンド派でした。
 『華麗なる大泥棒』、『おかしなおかしな大冒険』、私の好きなミレイユ・マチューが主題歌を歌った『パリは燃えているか』など、ベルモンドの作品は結構観ていました。


<ジャン=ポール・ベルモンド>

Jean-Paul Belmondo、(1933年4月9日 - 2021年9月6日)
・名前をもじった “ベベル”、あるいは主演作『おかしなおかしな大冒険』(73)の原題(Le Magnifique)にちなんで“ル・マニフィック(偉大な人)”などの愛称で親しまれた。
・ジャンリュック・ゴダール監督の「勝手にしやがれ(1960年)」でスター街道を歩み始め、出演作品は80以上。
・フランスの映画刷新運動ヌーベルバーグの中心的俳優となり、ゴダール監督の作品ではほかに「女は女である」「気狂いピエロ」に出演。娯楽作品でも活躍し、二枚目俳優アラン・ドロンと共演した70年公開の「ボルサリーノ」は大ヒットした。
・『リオの男』を凌ぐスケールとギャグ満載のアクションの数々は、ジャッキー・チェンの『プロジェクトA』にも大きな影響を及ぼしていると思しき快作。


 フランスのエマニュエル・マクロン大統領はSNSで「彼は永遠にル・マニフィックでい続けるでしょう。ジャン・ポール・ベルモンドは国の宝でした。堂々として、豪快な笑い、高い声と俊敏な体を持ち、崇高なヒーローであると同時に身近な存在であり、疲れを知らない向こう見ずであり、言葉の魔術師でした。彼は80本の映画で人の人生をつくりました。彼の中に、私たちは自分自身を見出していました」と追悼しました。
 ライバルと称され、長年の友人だった俳優のアラン・ドロン氏(85)は「打ちひしがれている」とショックを隠せなかったといいます。

 また、ルネの来日当時通訳をされていた道上雄峯氏も、facebookに彼とのツー・ショット写真をアップされていました。

 ジャン=ポール・ベルモンド氏のご冥福をお祈りいたします。


 ベルモンド氏の死因は公表されていませんが、コロナ感染で亡くなった千葉真一氏をはじめ、ルネ・ファン世代が良く知る著名人が次々亡くなっていて、寂しい思いをしています。

 コロナのワクチン接種が進む中、私も1回目を5日(日)に済ませ、2回目は機械的に3週間後の26日(日)に指定されています。

 ちなみに全く関係ありませんが、今から5年前の2016年9月12日は、ミイ姐御がシマ姉家に来た日でした(笑)。

 もちろんワクチンを接種してもブレイクスルー感染の可能性があり、たとえ本人は症状が軽く済んでも、周りにうつす危険を伴います。現在置き換わっている感染力の強いデルタ株は、ワクチン接種の対象ではない小さな子供にも感染しますので、ワクチン接種の有無にかかわらず、今まで通りの感染予防は続けることが必要です。

 新規感染者数は減少しているものの、明日13日から9月30日まで緊急事態宣言が延長された19都道府県と、「まん延防止等重点措置」が9月30日まで適用される8県の、あわせて27都道府県のほとんどで、最も深刻な「ステージ4」に相当する項目があります。これらの対象となっていない県でも、医療現場の逼迫など予断を許さない状況です。

 ルネ・ファン世代はワクチン接種が進んでいます。しかし、まだまだ油断せず、感染予防に努め、ルネの53枚目のアルバム発売など、楽しいこともたくさん控えておりますので、あと少し一人一人が感染予防に努め、少しでも早いコロナ収束を目指しましょう!

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ルネのデビュー50周年記念誌①

2021年09月05日 | ルネの活動記録

 ルネのデビュー25周年記念CD集の収録曲の紹介が一段落しました。ちなみに、今から46年前の1975年9月4日は、ルネのファースト・コンサート大阪公演の日でした。

 そして今月からは、今年デビュー50周年を迎えたルネの活動を紹介した記念誌の紹介に入ります。


Histoire de vie人生の物語

TOUT sur l'enfant star
René Simard
L'IDOLE d'un PEUPLE


チャイルドスターのすべて
ルネ・シマール 人々のアイドル



 この記念誌は今年1月にカナダで発売され、ebayに出品されたものを購入し、2月12日に届きました。内容の紹介は次のとおりです。

〇ルネ・シマール64ページフランス語*伝記2021 +120写真 雑誌コレクション                                                                                                                                                                                                                                                                                                         
〇ルネ・シマールに捧げられた完全な結果
〇フランス語の雑誌 発刊モントリオール
〇彼の子供時代、10代、キャリア、愛、家族、戦い、彼の人生のすべて
〇ルネの素晴らしい写真でいっぱいの64ページ


 残念ながら、現在は出品されていません。でもご安心を! 当ブログは私のルネ・データ・バンクですので、翻訳して紹介していきます。
 webニュースなど、インターネットに投稿された記事は、Google翻訳等で容易に読むことが出来ますが、雑誌等の文章はそれが出来ません。でも、せっかく入手した記念誌ですから、写真を見るだけでなく、きちんと訳して全部読みたい!!
 デビュー25周年記念誌は、画像と文章を飛び飛びで紹介していましたが、今回は見開きページで、全文を翻訳しています。50周年記念誌の紹介が完了したら、次は25周年記念誌も同様に紹介していく予定です。

 いつか実行しようと思いながら、伸ばし伸ばしにしていたので、ついにやるべき時が来たという感じです。そのために記事はガッツリ予約投稿しています。実のところ、この文章を書き上げたのは5月25日(笑)。じっくり腰を落ち着けて書き進めています!! ちなみに『ルネのデビュー50周年記念誌』のシリーズは、30記事完結で、私のルネ・コレクション画像を加えて紹介するために、画像の準備は万端です!

 そして、今回紹介いたしますのは、序文目次(概要)のページです。


René Simard
L'IDOLE
DE PLUSIEURS GENEPAITIONS


序文

ルネ・シマール
アイドル
いくつかの世代

 ルネ・シマールはケベックで最も人気のあるスターの1人です。10歳のとき、最初のインタビューの1つで、生涯歌うことを考えているかどうか尋ねられたとき、彼は、「死んだときだけ歌うのをやめる。」と答えました。近年、物事は大きく変化しました。 ルネは歌うことは少なくなりましたが、彼はまだケベックの芸術の世界で非常に活動的です。

 アーティストのこの短い伝記では、忙しいキャリアと私生活の最も重要な出来事を語ります。ルネは常に私たちを心地良くする素晴らしい能力を持っていました。 彼の優れたユーモア、カリスマ性、そして人生に対する前向きな姿勢は私たちを喜ばせます。 彼は私たちを楽しませ、私たちの考えを変え、人生が必ずしも容易ではないことを、私たちに忘れさせるアーティストであることを常に意識していました。
 彼自身が困難で心配な時代になりました。 彼の子供たちの難聴、妹のナタリーとの喧嘩、そしていくつかの挫折はすべて、彼が勇気を持って人生に直面したことを私たちに認識させる例です。 そして彼は、決して聴衆を忘れませんでした。


Bonne Lecture! 読むことを楽しんでください!
La rédaction 執筆

sommaire 概要

ENFANCE 子供時代

4 Un enfant curieux et au grand coeur
  心の広い好奇心旺盛な子供
8 Sa famille lui fait garder les pieds sur terre
  家族は彼に足を地につけさせている

CARRIERE キャリア

12 Star instantanee...ou presque!
  瞬間的なスター...またはほとんど!
14 Le jour ou il a appris a se taire
  彼が黙ることを学んだ日
15 L'histoire derriere sa coupe de cheveux
  彼の散髪の裏話
16 On le dit millionnaire a 13 ans
  人々は彼を13歳の億万長者(ミリオネア)と言う
24 Un image d'enfant qu'il veut faire oublier
  忘れたい子供のイメージ
26 Un artiste aux multiples facettes
  多面的なアーティスト

VIE PRVEE 私生活

36 Une belle fistoire d'amour
  美しいラブ・ストーリー
42 Des enfants différents, mais choyés par la vie
  異っているけれど人生から大切にされている子供達
48 Une famille brisée
  壊れた家族
52 La réconciliation officielle de Nathalie et René Simard
  ナタリーとルネ・シマールの公式和解
58 Qui sont les ancetres de René?
  ルネの祖先は誰ですか?


 この目次の内容と写真を見ただけで、訳していくことに意欲が涌きました♪ また、le Journal de Montrealの”50 ans de divertissement: la fabuleuse histoire du p’tit Simard 50年のエンターテインメント:p’titSimardのすばらしい物語”の記事からも、引用して説明を加えています。当ブログでまだ紹介していない内容も含まれていますので、楽しみにしていてくださいね!


※le Journal de Montreal”50 ans de divertissement: la fabuleuse histoire du p’tit Simard”参照
https://www.journaldemontreal.com/2021/07/31/50-ans-de-divertissement?fbclid=IwAR3Q5t5tsl0AvwD8KYuqVGImYSGDMWpXsrlfx_g5c1D8Dwx7AEpZg5w7oMg



     ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪


 去る8月19日午後8時に開催され、ルネが初めて主催したGARA comediHa!の映像は、1日でブロックされてしまい、現在はご覧いただくことが出来ません。しかし、カナダのルネ友のJohanne Gagnonさんから送っていただいた画像を、当ブログで紹介することを承認いただきました。他のゲストのみの出演場面は有りませんが、ルネの画像とJournal de Quebecの記事で楽しんでください。

※Un gala varié et à son image
https://www.journaldequebec.com/2021/08/19/un-gala-varie-et-a-son-image?fbclid=IwAR2pEduVSYxvJciTqnuGXRnzmXunyfAvUyRgjUfURbDD9o8y7r7_LMD5ct4

▲ケベック州議会議事堂のステージと客席

GARA comediHa!の司会をするルネ

▲「DarkRené」を紹介し、ルネは炎と花火の下で「ヘビーメタル」エレキギターを地面に叩きつけました。スクリーンの画像はちょっと手塚漫画の「ブラック・ジャック」?!

▲▼キャシー・ゴーティエがルネのデビューからのアルバム・ジャケット画像をスクリーンに映して紹介。彼女は「Et tu danses avec lui」のアルバム・ジャケットを見ながら「彼は再び選挙に出馬している若いジャスティン・トルドーのようだ」と言いました

 

▲ ショーの第2部の冒頭で、右半分がドレス、左半分がスーツのコスチュームを着たルネは、素敵なオペラ・ナンバーを提供し、マルク・エルヴィユーといつも壮観な声でいくつかのアリアを歌いました。

▲ゲスト2人の歌とコント 背景にはホテル・フロントナックとケベック・シティの夜景

▲▼ガラの終わりに「 l’ancien René」は、ボーカル、キラキラ、振り付けとタップダンスを備えた爆発的でカラフルなキャバレー・ミュージック・ホールのミュージカルの一部分を、ブール・ノワールの「Aime-tu la vie commemoi」と「雨に唄えば」の曲に合わせて提供しました。



 2021年版ComediHaの中でも素晴らしいと高く評価されたルネの司会による>GALA ComediHaの映像はご覧いただけないのか残念です。

 ルネはJournal de Quebecのインタビューの中で「私は永遠のポジティブです。 容易になることが出来る幸福を持っています。人々の気分を良くすることが好きなのです。 私はいつもエンターテインメント・アーティストだと言ってきました。世の中を変えたいとは思っていません。 人々を楽しませるために、私はここにいるのです。 それは重大に考えすぎず、真剣にやらなければならない仕事なのです。」と結論付けています。

 ルネはデビュー50周年を迎え、52枚のアルバムと、10月にリリースされる53枚目のアルバム、そしてテレビ番組の司会者、ユーモア、ミュージカル、ダンス、映画、音楽ホール、芸術監督での記録的なキャリアをすべて成し遂げました。

 私生活では4月におじいちゃんになったルネの、エンターティナーとしてのさらなる活躍を期待しましょう!

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