つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

救い!

2011-11-16 | Weblog
不穏な空気が漂い始めた。
転機、
アクシデント、
大事に至らぬよう心がけ次第であるが、
後戻りはできない為に、運命共同体として
今までが償われる。
一つは、心がけのよい人としての赴きと
一つは、心がけの悪い人としての赴きとに。
救いというのは、生命の救いである。
今生のあるいは、
来世のということではない。
生命のである。あの世という生命世界の救いである。
今世紀の出来事として見える。
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理学

2011-11-14 | Weblog
知識などいらない。智慧である。
智慧を備えて正否が見え

弁別ができていく。
直感が正しく働く。

どこに師を求める必要も無いものである。
智慧とは
かくも優れるのである。そのために、
識滅をするために自然を見よ、道理に学べ。
自然の癖を知れ。
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・・・間に合わない

2011-11-13 | Weblog
常に謙遜、常に謙虚で、
快い言葉をもって誉めることをする。
どうあれ、
人は、誉められて悪い気はしないものである。
嬉しいものである。お世辞と知りながらもである。
ただ心にも無いお世辞では煙たがれてしまう。
人皆こころあるものとして生きているものであるために、
まったくの心無しでは心なしかわかるのである。
人は、
誉められて生きられ、誉めて生かされるものである。
そのようにして生きる者の人生は賢明となる。
厭味なものが自然とはじかれていき、幸せに生きられる。

人の欠点は見ず、よいところをみて誉めて、とにかく、
人は誉められてよく育つものである。然るに、自分の欠点は見て、
よく省みることをする。そうすれば、誉め言葉にも正されて、
善い人に努めるようになっていく。

難しく生きていけば、実に難しいのが人生である。
単純にして、この世があるわけでないように、計り知れないほど難しいものである。が、
私達は、簡単にして、この世にあり、この世を見ていられる。
自分の計らいが何一つ無く、
御陰様で!
あまりにも難しく得がたい唯一のものとして誉められ、あるものである。
それだから、難しく生きずに、「まっいいか」と簡単にしていくも、難問の答えが導き出されていくものである。
感謝にあずかって、ゆえに、無闇に自害してはいけないものである。
生きる切符を手にしていることが、最大の救いの鍵となっているものだから。

苦しみに打ち拉がれているのなら、こそ、生きている間に問うのです。
問いながら問いながら間を埋めていくのです。
死ぬのが怖い、それが道理です。まだ死ぬなという。
間を埋めていくことによって、死なないでよかったという時が必然、来るのです。

善悪も無く恐怖も無いのが法則である為に、
善悪も恐怖も人の判断の誤りの存在なために、恐怖を無理やりに押さえ込んで死ぬ人の恐怖は、
絶対となり、死んでからも恐怖となってしまい救いようがなくなってしまう。
死んでからは間にあわないのである。

人は、自然に死が訪れれば恐怖とならなくなっていくものとなっている。
それが自然の慈悲の慈であるために。
無理やりとなれば、自然の慈悲も悲となってしまう。
慈悲の慈は天国であり、悲は地獄である。
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意識して

2011-11-12 | Weblog
共にということは、
共に倒れるということである。
共に栄えるということである。
有事の際には特にである。
そのようにして、はじめて共にという言葉を使う。
姑息に使われる言葉ではない。
信頼の上に助け合う言葉である。心ある言葉である。
それなのに、我が身のかわいさに偏り、ともかく一緒にということになる。
ともかくとなるために、あれやこれやと議論がたち、
助けとならなくなり、飴が鞭となる。勇気付けられて気落ちさせられる。
心無いものとなる。

自然は心無いものを淘汰する。
人が何かをつくるとき、
良いものには心が籠められている。魂が入れられて初めて好いものがつくられる。
心の入らないものは役に立つことがない。
無駄にあるだけで、だから淘汰される。
自然は浄化の法であるためである。
だから、
心を正しく持って、心あるものとして生きたらいい。
軽々しく言葉を無駄に使えば、よいことが裏返しの意味となり、
本来の義を失う。
好ましい言葉を常に意識して発して
忌み嫌われることは無いものである。
心あるもので生きて、いまもこれからも楽しいものである。
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報いるということ

2011-11-10 | Weblog
報いという負の絶対。
報われるという正の絶対。
報うというかたちで絶対受け持つものである。
あの世への持ち物、心の荷物である。
諸々の条件が合わさったとき、その荷はほどかれて
悦ぶのか悲しむのか報うのである。同じ文字にして正反対の意味を持って。
いつかの世のいつかの自分に必ず報うのである。

善いことをして、不安とならないものである。
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無垢なこころ

2011-11-09 | Weblog
高学歴だから正しいということは無い。
むしろ知識が邪魔をして常識というのを作ってしまう。
常識という非を。

「貧しき者よ、汝らは幸いである・・・。」と、キリストは説いた。
これは、経済的困窮者を指しているのではない。
知識に乏しい者のことである。子供のように。
子供は疑うことをまだ覚えず、言われたことを素直に守る為である。
だから、善い人に出会ったためのことである。

釈迦は知識を滅することを修行とした。
だから、人里離れて山に籠もった。心を自然に戻す為である。
子供のように無垢な心に。

「悲しき者よ、汝らは幸いである・・・。」と、キリストはつづけている。
知識の誤りによって苦しんでいる人で、地獄の人生となっている人のことである。
この人が知識にとらわれず、愛しみの行為をしていくことによって
人生が正されていき、苦しみから解き放たれ、地獄の人生から抜け出せるからである。
だから、癒されると言っているのである。

知識は他人の行為の証である。それを学んで識としていくために忘れてしまう。
自然から学び得た経験は自分の行為の証である。それが智慧である。だから忘れることが無い。
智慧の目で見ていけば、道理に適い誤ることがなくなる。
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識滅

2011-11-08 | Weblog
名の知れた僧といえども、
般若心経を正しく訳せずに、この世を空しいものだと説く。
確かな実体がありながら幻だという。
般若心経は、舎利子として舎利子の口から語られている。呼びかけられた名ではない。
だから、舎利子の名のところからが啓示である。観自在菩薩が舎利子に乗り移り、
その口を借りて語っているためである。色即是空・・・が法則であることを述べて、さらに、
舎利子として、法則がどんなものであるのかを述べている。簡潔に要点だけを述べている。
「舎利子・・・」としてはじまり「・・・無知亦無得以無所得」で啓示は終わっている。
啓示であるために、死後の世界からの訓えである。
人は、経験を知識として正しいとしていく。経験とならないことは知識とならずわからない。
死が人の経験とならないために、どんなに知ろうとしてもわからない。
わからないことを知識で判断していけば、その正誤がわからず、語られたことがすべて正しいものとなっていく。
死がわからないために、啓示として語られたことが理解できない。
それを知識で判断している為に、菩薩の言っていることが理解されず、誤った解釈となり、
それが誤っているのかもわから無い為に、正しいものであるとなっていく。
だから、わけのわからない解釈となって、知識の都合の好い解釈となっている。
偉大なる、大いなる智慧の完成などと訳されても、ちっともわからない。役に立たないものとなっている。
知識で判断されている為の誤った解釈となっている。
般若心経は否定の経典ではけっして無い。実体というものを肯定している経典である。
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子供のように

2011-11-07 | Weblog
災害に見舞われたものを気の毒がり、
できることの手助けをしたいと申し出るも、
手助けを伝に災いが降りかかるかもしれないとなれば、好いことも躊躇し始める。
人は対岸の火事と思えばこそ善人ぶるが、自分の身となれば浅ましいものだ。さもしいものだ。
それを心無いという。偽善で生きている。だから、天罰が起こったといわれ
否められる。真に我が身に置き換えられるならば、議論もないものである。
即断で好いことが進められ、あなたの痛みは私の痛みとして、
正しく愛が伝わっていく。絶望が最速で消し去られて、希望がそこかしこを片付けていく。
共に歩むものとなるためである。それで、二度と戒められることはないであろうに!

キリストは神を説いたのでもなく、その愛を、その国を説いたのでもない。
人々の愛を説き、それによっての愛の国、天国となることを説いていったのである。
人の愛によって創られていくと説いたのである。

恐怖とは知らないために起こるもので、無知をなくしていくことで取り去ることができる。
無知であるからこそ恐怖が募り、神を必要としてしまい祈るのである。祈って願いが叶うものであるなら、
悲しみなんてありもしない。いるともいないとも知れないものに縋るために、当たるも八卦当たらぬも八卦となるのである。
愛とは神や仏の愛ではなく、人の心の愛である。心あるやなしやである。心こそエネルギーであり、法則のエネルギーである。
どう思うかは自由である。それが法則の自由であるために。

神や仏とて法則を超越したものではない。法則を変えてしまうことはできない。
人として生まれ、その質優れた者であったために、修行の末に得られた力を持って、
神や仏とした卓越した能力を備えたのであって、法則を知った者である。神通力等と呼ばれ、
それを駆使して観音と呼ばれる人の世界となっているのである。その世界が観音経に説かれているもので、
観世音菩薩という仏の啓示である。皆、釈迦の修行法を守り行じ、悟りを開いた人である。
では、優れた人でなければ悟れないのか?の疑問に、観自在菩薩と呼ばれた
優れた者がその道を切り開き、法則を見、凡人でも悟りを開くことができる術を知り、啓示したのが般若心経である。
信仰も無く心貧しい人でも覚り、救われる術を説いているのである。むしろ、知識も無く貧しいものがより疑うことが無い為に、
救われる人となるのである。子供のように知識少ない方が幸いとなるのである。
言われたことを素直に行う為に!
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省みる

2011-11-06 | Weblog
命は、それなりに知らなければならないことがあるための
環境に生まれてくる。不遇に生まれたとする人が、
過去の悪行によってそのようになっているということではない。
今生が幸せな環境にあるとしても、それが前世の行為によるのではない。その身の立場によっての心の知るところによるものである。
その心が知らねばならないための置かれた環境である。その環境にあって、
何を思い何を為したのかに
命の養いがかかる。無知であるためを利として徳と為したか、不利となしたか魂は問われた。

美男美女に生まれたものは得であると見てしまえば、金持ちに生まれたものは得と見てしまえば、
平等に欠ける。自然はどれも等しく偏りが無いものである。偏らないものである為に正確に回り存在となっているのである。
狂い無く明日がやってくる。だから信じられて生きていられる。歪であれば狂いが生じ、何もかもが正確でなく、信じられなくて生きていけなくなる。
存在とならなくなる。平等でないということはそういうことである。
平等である為に、醜さが美しさが貧困が裕福が等々、諸々が相反してある。それらは共に入れ替わり、
心の糧に使われる。ある人生はとして。
その立場、環境に於いて、謙虚さを欠いたり、過度に卑下したりして、堕情
であれば、いつの世もそぐわぬ思いとなって苦しむ。
俗世にさらりと因果応報はあるけれど、生命の真実の世界は、因果応報の世界である。
地獄は地獄、極楽は極楽、それを当たりまえとする世界である。
地獄であってもそれを正当としてしまう世界である。

今が幸せだからといって、今が不幸せだからといって
何も省みなければ、正されることも無く、
そぐわぬ思いに常に苦しみ、抜け出すことが無い。
地獄が当たりまえとなっていく。
苦しむことが当たりまえとなって、疑問を抱くことすらなくなる。
たとえて、汚物に群がり生きるむしたちのように。
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無を誤解しない

2011-11-03 | Weblog
生命には死が無い。
この真実を知らないために過ちを犯す。

この世の中では悪事には楽という文字が最初ついている。
この世の中では善行には苦という文字が最初ついている。
どちらも後、楽と苦の文字が入れ替わってつく。
あるいは、
物事には苦楽が共についていて切り離すことができない。
幸不幸がともにあり、どちらか一方だけを受け入れるということはできないとなっている。
そのために、どんなに幸せに見えていても、それに見合った苦しみがあるのである。
本当の幸せ、楽だけを享受したいのなら、幸不幸のどちらも受け入れないでいることである。
今生の幸せを享受したいのであれば、不幸も受け入れなければそれはかなわない。
真実、この世は、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦、なのである。苦なのである。
一切皆苦となっている。その苦の世界に生まれて、生きて悟ることである。相すれば楽が見えてくる。
見えてくれば、どのようにしてそこにたどり着けるのか、方法が知れてくる。
今生の苦が死後の楽に繋がっていく。
地獄も天国も、その人の心の映像(経験)でつくられていくものである。

死後の世界に逝った人には、この世に戻って来れない理由が二つある。

今生に於いて、何もかも無知で、好き勝手わがままに振舞い、悪しき思いで生きた人のあの世は、足腰立たないほど虐げられて、
逃げたくても逃げられず、そこから出られずにいる地獄の世界。だから、この世に帰って来れないのである。かえりたくてもかえれないのである。
今生に於いて、何もかも無知ながら、善いことに勤しみ努力して、いたらなさを憂いながら、常に悔い改めて生きた人のあの世は、
この世の快楽に比較なら無いほどの極楽となり、楽しくて、苦の伴うこの世には、とても帰りたいとはゆめゆめ思わないものとなるから。
生命は、肉体という媒体をつくり、
それを仮の宿として借りて、魂の向上を培い、無知をなくして、真実の世界で生きていくためを目的としている。
生命はエネルギーである。法則もエネルギーである。その法則によって創られているために、
法則が真実であり、生命の真実の世界である。法則はなくなる事の無いものである為に、永遠となっていて、生命も永遠となっている。
そのために生命には死が無く、法則の回転運動が変化となり進化となり、その進化が肉体の変化となり、無常なものとなっている。
肉体はその自然の変化に対応して進化していくが、
自然の変化を人工的に人に合わせていけば、肉体の進化は止まり退化に転じて、自然に対応できずに滅亡の進化となっていく。
自然の産物を人工的に掛け合わせて、自然界に無いものを創造してしまえば、悪のエネルギーとなって自滅の行為となっていく。
自然(法則)を超えてしまうことは存在とならなくなるのである。つまり、超えられないということである。
自然に学び自然を敬い、常に謙虚に生きてこそ道理に適うものである。

失敗は成功の元。そのようにして、消滅を繰り返して、生滅をしていく。
いつかみんな、永遠の幸せを手に入れるために、永遠の幸せにたどり着くために今を生きる。
生命は死がない。
是(自然)が無くなら無いためである。
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