つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

死ぬときは・・・

2011-11-20 | Weblog
苦しくても自殺してはならないわけがある。
懸命に生きたけれども、
なぜ生きる?ということの問に答えられず、
あるいは、正しい答えとなっていなければ、
これといって罪を犯さず生きてきても、死後の世界は亦苦しい世界である。地獄のあの世となっていく。
よい人だったけれども、絶望して苦しさのあまりに死を選んでも、死は非情である。苦しく死んでいくものは、
死後もまたそのまま苦しみが続いていくのである。救われたりはしないために、
無知のまま自ら命を絶ってはいけないのである。生きている間が意味ありなのですから。

生命というものに無知であるなら、
その生き様は、少なからず間違ってしまい、どうして?なぜ私だけがと
ありもしないものに訴えかけて生きること多く、刹那的喜怒哀楽に親しんでは、空しく苦しい人生である。
人生は空しいものとして感じてしまう。

地位や名誉や財産やらと、人生を豊かにするものとしても、得てしてもその人生は裏腹である。ましてや、
死後には負の財産として報う。金の扱い方は実に難しい。修行僧とて、その方法が誤れば地獄に落ちるのと同じである。
金儲けは生命の目的とはなんら関係ないものである。むしろ執着として欲に苦しみ、弊害となる。
献身であることが自然なのである。自然はみな献身で保たれているのであるから。
財あるものは、散財して難無きを得ていくもので、囲っていては腐り毒が回っていくのである。
財あるものにもめごとが絶えないように。

金の切れ目は縁の切れ目といわれるのは、欲に執着したものである為に、金がなくなってくれば、
互いにいがみ合い、揉めていく。そんな人に愛など微塵も無く、金に愛しているものである。
人の心根を知りたければ、貧乏をしてみればよい。よく知れる。
裕福なときの優しさは、錯覚であることが多い。

苦しんで死んでいくものは、あの世もまた、そのまま苦しみである。縁であるから。その上で自殺してはならない。
死にたくなくとも死ぬときはくる。寿命尽きるまで生きて、苦の義を覚れ。
そして、
死ぬときは、安らかな顔で・・・。
コメント
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