さうぽんの拳闘見物日記

ボクシング生観戦、テレビ観戦、ビデオ鑑賞
その他つれづれなる(そんなたいそうなもんかえ)
拳闘見聞の日々。

フライ級「小さな巨人」たちの祭典

2020-05-02 01:49:14 | 海外ボクシング
さてさて、軽量級最高の伝統クラス、フライ級。
歴史的な大選手と日本の選手が絡むという点で、バンタム級と並ぶものがあります。


マガジンによるエントリー、一回戦は以下の通り。

パスカル・ペレスvsサントス・ラシアル
大場政夫vsパンチョ・ビリャ
ミゲル・カントvsポンサクレック・ウォンジョンカム
井岡一翔vs勇利アルバチャコフ


...色々言いたいこともありますが(笑)とりあえず順番に。



アルゼンチン初のボクシング金メダリストにして、プロ初の世界チャンピオン。「メンドサのライオン」パスカル・ペレス。
白井義男から王座を奪い、米倉健司、矢尾板貞雄とも闘った「元祖日本人キラー」とも言えそうな選手。
まあ、どこの国の人相手でも強かったんですが。

金メダルからプロ転向となれば、華々しい道のりで世界戦まで進んだものと思うところですが、実際はロンドン五輪優勝が22歳、プロ転向は26歳の時。
時のアルゼンチンは「国家社会主義」を掲げる独裁者、ペロン大統領とエバ夫人(エビータの愛称で有名)の時代で、金メダリストのペレスは、アマチュアイズムを信奉する権力者から、次のヘルシンキ五輪でもメダル獲得を期待される存在だった、とのこと。
しかし、妻を娶り、子を得たが故に、生活のため、ペロンの「許しを得て」プロに転向したのだそうです。

しかしその年、大衆に抜群の人気を誇ったエビータが亡くなり、徐々にペロンの権勢が危うくなっていきます。
そして1954年、ペレスは、アルゼンチンに遠征してきた世界王者、白井義男とノンタイトルで対戦し、引き分けます。

この白井のアルゼンチン遠征は、白井のマネージャー、アルビン・カーン博士が、当時のロジカル・コンテンダー中、最強と目された南アのジェイク・トゥーリとの対戦、4度目の防衛戦で大苦戦した難敵レオ・エスピノサとの再戦などを回避するべく、挑戦権を持たず、弱いと見た、小柄なアルゼンチン人ボクサーを次回の挑戦者に選ぶために企図したものではないか、という説があります。
また、人気者の夫人を失い、スポーツ・ヒーローを支援することで大衆の支持を得たいペロン大統領が、ペレスのランキング上昇を実現すべく、その狙いに乗ったのではないか、とも。

当時世界9位で、挑戦資格がなかったペレスは、この引き分けにより、挑戦権のある7位以内に浮上し、10月にタイトル挑戦のため来日。
耳の病気を訴えて試合を一ヶ月延期させ、11月に白井と対戦。判定勝ちで王座に就き、翌年のリマッチでもKO勝ち。
その後、9度防衛の長期政権を築くことになります。

結局、白井はペレスと三度闘い、初戦引き分け、二、三戦目は連敗。三度目の対戦を最後に引退します。
カーン博士の目論見が外れたのか、誰が相手だろうが、白井自身の衰えは避けようがなかったのか。
いずれにせよ、日本初の世界王座は失われ、二人目の世界王者が誕生するまでには、約8年の歳月を要しました。


ということで動画ですが、まず白井義男との最後の対戦。当時、映画館で流れていたであろうニュース映像。
5回TKO勝ちで世界フライ級王座、初防衛。後年、TV番組で放送されたものみたいですね。貴重。





3度目の防衛戦、キューバのオスカー・スアレスに11回TKO勝ち。
小柄ながらパワーがあり、パンチが伸びます。





4度目の防衛戦、欧州王者ダイ・ダワー(イギリス)に初回KO勝ち。
33勝1敗、ジェイク・トゥーリを破った強豪を、早々に右フックで倒す。





5度目の防衛戦、スペインのヤング・マーティンを3回KO。
サウスポーを打ち合いに巻き込んだ、という風に見える。





59年、ペレスはこの年、4試合全部を日本で闘います。

まず矢尾板貞雄にノンタイトル戦で判定負け、初黒星。
次に、米倉健司(当時キャリア5戦、4勝1敗)にノンタイトルで判定勝ち。
続いて矢尾板と再戦かと思いきや、不思議なことに米倉とタイトルマッチで対戦、判定勝ち。8度目の防衛。
そして矢尾板とタイトルを賭けて対戦、3回にダウンを喫するも逆襲、13回TKO勝ち。

動画は矢尾板との再戦。ペレスのダウンシーンは割愛(笑)してありますね。





しかしこの頃から、ペレスは妻との不和、肉体の衰え、政治的立場の悪化(ペロン大統領が失脚した影響で、ドミニカに亡命)などで心労が重なり、酒量が増えていったそうです。
10度目の防衛戦はタイに遠征し、ポーン・キングピッチに敗れ、再戦でもTKO負け。
引退後は病(肝硬変など)を煩い、落剥。その後、一度は権力の座に復帰したペロン大統領からも見捨てられ、50歳で亡くなります。

現役時代の闘いぶりは、白黒の画像からでも伝わってくるとおり、身体全体にリズムがあり、下肢のバネを利かせて、伸びてくる強打で相手を倒す、非常にエネルギッシュなものです。
しかし、そんな英雄も、ボクサーとして盛りを過ぎると、庇護してくれた権力者から見捨てられ、悲しい最後を迎える。

白井との第二戦で、勝利の判定を告げられた瞬間「我が将軍、やりました!」と叫んだという「小さな巨人」の最後は、本当に寂しいものだったといいます。
中南米におけるスポーツの政治利用と、その無残な結末というのはよくある話ですが、ペレスもまた、その典型的な犠牲者だったのでしょう。


ちょっと(かなり?)脱線しましたが、全盛期は体重に余裕があり、それこそライトフライやミニマムの体重で闘っていたとのこと。
それで9度防衛中、KOが5度あるんですから、それだけでも史上最高のフライ級、と言われるのも納得ですね。




えらく長くなりましたが、そのペレスの同胞が、時を経てその防衛回数に並びます。
サントス・ラシアル。WBAフライ級王座二度獲得、二度目の王座を9度防衛。
後に防衛ゼロとはいえ、スーパーフライ級王座も奪取、二階級制覇を達成。
小柄ながら強打者、という点も、ペレスと共通すると言えるでしょうか。柔軟性ではペレスがだいぶ上ですが。


動画はまず、3度目の防衛戦、18勝17KOのホープ、ドミニカのラモン・ネリーを9回TKO。





何と言っても印象的なのはこの試合。4度目の防衛戦で初来日。
帝拳のホープ、故・穂積秀一の世界初挑戦でしたが、ファンにとっては当然、TV局にとっても一番有り難くない、アーリーKOでの敗退となってしまいました。





初回は好調だった穂積を見て「こらまずい」と見たか、2回から踏み込み厳しく、ロープに追い詰め、コーナーを嫌ってサイドステップを踏んだ穂積を追って強打。
ダウンを奪ったあと、しっかり狙ってもう一度倒し、連打で詰めてストップ。


この次、韓国遠征。5度目の防衛戦。後にIBF王者となる申喜燮戦。勝負が早い。
レフェリー、そこは続行させちゃいかんと思うです、ハイ。






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考えたら、サンチェスよりもこちらの方が先に亡くなっています。永遠のチャンピオン、元祖逆転の貴公子、大場政夫。
フライ級としては大柄で、ボクサータイプながら好戦的。
数々の熱戦を残した上に、ラスト2試合があまりに劇的な試合で、その名は伝説として語られています。

減量苦は相当なものがあり、いよいよバンタム級転向待ったなし、というところでの事故死は、本当に残念なことだったと思います。
当時のボクシングファンの悲嘆は、想像を絶するものだったのでしょうね。


さて、動画探そう、と思ったらまた(笑)助かります。いやはや。





しかし、これら世界戦以外にも、フリッツ・シェルベ、ロッキー・ガルシア、トニー・モレノ、ナタリオ・ヒメネスという選手と、合間にノンタイトルを闘っていて、その辺の映像も見てみたいものですね。
シェルベは後の欧州王者で、世界戦にも出る選手。テキサスで闘ったガルシア戦は凄い逆転KOだったそうです。
この辺、今の感覚だったら、何試合かは世界戦にしてもいいような感じですね。
大場政夫は、防衛回数以上のチャンピオンとして見るべきだという気がします。




対するはフィリピン初の、いや「東洋」初の世界王者、パンチョ・ビリャ。
お名前とお話はあれこれ知ってても、さすがに動画見たことなどありませぬ。そらそうや。

フィリピン出身、アメリカ人のマネージャーに実力を認められ、20歳で渡米。
本名フランシスコ・ギルドというが、メキシコ革命の英雄の名を与えられ改名。
その強さ、正々堂々、クリーンな闘いぶりで、アメリカの観衆の心を掴み「アメリカ代表」的な立場で、英国が誇る世界最強の男、ジミー・ワイルドに挑み、7回KO勝ち。
一躍、ニューヒーローとなるが、無冠戦で新鋭ジミー・マクラーニンに敗れたあと、歯の治療の失敗で、敗血症により亡くなる。享年23歳。

大まかなところは色々と読んで知っていました。オールド・グレートの特集記事には、判で押したように出てくる名前のひとつです。
しかし映像なんてあんのかね、と思って検索したら一発で出ました。それも肝心要のジミー・ワイルド戦が。





何しろ1923年の試合、今とはだいぶ様子が違います。
これ、フライ級の試合?と驚くほど、足止めて、真っ正面から勝負してます。顔面丸出し(浜田剛史©)です。
最初はワイルドが強打で先制攻撃をかけていますが、ビリャが逆襲、最後は痛烈。

その後の様子もまた、あらまー、こういう感じなのですか...と。
しかし何しろ、凄い試合であることは、今の目にもわかりますね。いやはや。



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さて、長い間フライ級のクラスレコードだった、14度防衛の技巧派王者「リングの大学教授」ミゲル・カント。
そのうち8度をメキシコ国外、つまり「敵地」で闘っている。
さらに、14度防衛のうち、13度が判定勝ち。TKO勝ちがひとつあるだけ。

敵地のロケーションの中、ジャッジの支持を取り付けて勝つ、という、ある意味では倒すこと以上の難事を、これほど数多くやってのけたボクサーは他にいるでしょうか。
そう考えると、単に技巧派と片付けられない、倒し屋とはまた違った凄みが見えてくるように思います。

あと、敵地での試合が多いのは、KOが少なくてメキシコ国内で人気が無かった(地元のメリダは別にして)からだと長年思っていましたが、メキシカンにしては珍しく?ホセ・スライマンWBC会長との不和を抱えていたせいでもあったそうです。

一例として、77年、9度目と10度目の防衛戦を、連続してチリのマルティン・バルガス(後に具志堅に挑みKO負け)と闘っていますが、これもWBCの「強要」(ヘスス・リベロ談)によるものだったそうです。
当時のチリは、悪名高いアウグスト・ピノチェト独裁政権による軍政下にありました。
試合映像は、カントの地元メリダでの初戦はありますが、チリの首都サンティアゴで行われた二戦目の映像は、今のところ見当たりません。
どんな様子だったか興味あります。色々大変だったのでしょう。
それを思えば、今よりも厳しい雰囲気ではあったにせよ、日本遠征なんて、カントにとっては気楽なものだったのかもしれません。


試合ぶりですが、ハイライトのものは画質がよろしくありませんので、長いですがフル、ただし画質の良いものを。
8度目の防衛戦、触沢公男戦。
敬虔なクリスチャンで知られ、その奮戦ぶりでファンの記憶に残る触沢を、カントの技巧が圧倒します。
カントの良さが見やすく出ている試合。左の多彩さには感心します。これならKOがなくて、判定まで見られてお得、と思うくらい。

触沢はこの前の試合、世界9位クルス戦の映像を見たことがありますが、本当に壮絶な打ち合いの末のKO勝ちでした。
カント攻略の目算が立つのかは別にして、世界戦に出してあげたいなあ、と周りが思い、動くのも無理ないな、と思った次第です。
しかし実際の挑戦は、厳しい結果に終わるわけですが。





これはお時間あるときにゆっくりとご覧ください。画質も当時のものとしては抜群です。



そのカントの記録を破ったのが、タイの最高傑作のひとり、ポンサクレック。
ウォンジョンカム、というより、シンワンチャーの方が馴染んでますが、まあそれはいいとして。

日本に何度も来てるうち、本田秀伸戦、小松則幸戦、内藤大助との四戦目を直に見ています。
バランスの良いサウスポーで、ムエタイの変な癖があまり見えない。よく鍛えられているなあ、と。
本田との読み合い、外し合いの攻防、小松を正面に「セット」して打ちまくった攻撃力、内藤の「上体逃がし」に射程を外され苦しみつつも、果敢に攻め続けた姿、いずれも世界一流のチャンピオンならでは、見応えあるものばかりでした。

ただ、カントとの比較でいくと、小熊、花形、高田二郎に触沢といった面々に比べると若干小粒な、日本人コンテンダーと多く闘いすぎ、という気はします。
それ以外にも20何位とか、一階級下の30何位とか、そんなん数の内に入るんか、と思うようなマッチメイクがありました。
まあ、ペレスの時代ならノンタイトルマッチやな、と思うしかありませんが。

とはいえ、相手のレベルが多少違っても、二桁前後の防衛は間違いなかっただろう、とは思います。
心技体、いずれも見ていて納得感のある、素晴らしいボクサーでした。
サウスポーとしての技術レベル、完成度で言えば、タイの小型ハグラー、と呼びたくなるくらいに。

記憶に新しい選手ですし、動画はとりあえず、戴冠したマルコム・ツニャカオ戦を。
これはしかし、改めて鮮烈な王座奪取です。短い試合の間に、ポンサクレックの良さが全て詰まっていますね。






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さて、井岡一翔、フライ級で史上ベスト8選出です。

「今」「今後」の井岡一翔には、素直にファンとして期待していますが、史上最高を云々する企画においては...。
まして、ミニマム級でならともかく、フライ級で選出...日本の現役選手とオールドグレートの比較、というのがテーマの一つ、と言われても、それがないクラスは他にいくらでもあり、当然、フライ級においてもそうすれば良いだけのことです。

個人的には、オマール・ナルバエスを何故ここに入れない、と思います。
さらに、マーク・ジョンソンやセーン・ソープルンチットなども。
ソット・チタラダも、その特異な天才が発揮された試合は凄かったし(短命の天才、その典型でしたが)、カント攻略の朴賛希なども候補でいいでしょう。
日本という枠でいっても、例えば、白井義男や海老原博幸を外して選ぶという選択肢があるとは、想像していませんでした。

本当にこれは、あらゆる意味で無理です。
ということで、ここは「パス」させていただきます。
スーパーフライ級における、今後の健闘に期待します、ということで。




最後は勇利アルバチャコフ。協栄ジム「ペレストロイカ軍団」のエース。
今みたいに、ロシアや旧共産圏のボクサーが、普通にアメリカで大勢活躍している時代だったら、おそらく日本で直に試合を見ることはかなわなかっただろう、と思います。

89年、世界選手権51キロ級の金メダリスト。翌年、プロ転向。
92年、米国のカルバハル、比国のマカロス、韓国の張正九、同胞ソット、メキシコのヒメネスなど、各国の強豪と戦い、負けたのはカルバハルのみという強敵、タイのムアンチャイ・キティカセムに挑み、ダウン応酬の末、8回に右カウンターでKO勝ち。

当時、この試合で初めて「動くユーリ」を見ましたが、あまりにパンチが速くて切れるのに驚きました。
あ、と思ったらもう相手が倒れている、という感じ。
多分ですが、コンディション的にはこの試合がベストだったのかなあ、と思います。
その後は拳の負傷や減量苦など、どの試合でも多少の枷はあったような印象ですね。それでも相当強かったですが。

スタイルとしては、ある意味では単調なボクサータイプ、巧いが退屈、と言われるようなものでもあり。
しかし何しろパンチが切れるんで、この前提でもって、ファンにスリルを提供していました。
小さくスリップして右カウンター決めて、というシーンを、何度も見ました。

もちろん、実際の成否がどうだったかは言えませんが、普通にアメリカで活動して、それこそジョンソンやカルバハル、チキータらと対戦出来ていたらどうだったかなあ、と改めて思います。
あの時代だと難しかったかもしれませんが...。


またしてもこちらのまとめ動画。フライ級なのに、試合のたびにダウン取ってましたねー。






あと、手撮りの映像なんですが、無冠時代の試合。元IBF王者のサウスポー、ローランド・ボホール戦。
当時、TV放送はなかったようで、専門誌の記事に戦慄的なKOだと書いてあって、長年、見たいなあと思っていました。
数年前に初めて見ましたが、ボホールの重心が前に出たところを、小さくて速いパンチで叩いています。
確かに凄いです。






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ということで、これまた長くなりましたが、対戦について簡単に。

ペレスvsラシアル、アルゼンチンの新旧強打対決だが、機動力、柔軟性でペレスがまさり、徐々に差が付き、ペレス。

大場がストレートパンチの距離でヒットを重ね、果敢に打ちかかってくるビリャを振り切る。大場。

カントvsポンサクレック、足から動いて外すカント、多彩な右リードでカントを正面に寄せて打とうとするポンサクレック。
熾烈な主導権争いだが、パワーでまさるポンサクレックが僅差で勝つか。これは難しい...。

勇利は一回戦なしで。


準決勝、ペレスが遠くから飛びかかり、大場はワンツーで叩きにかかる。打ち合いになるが、動きで外せるペレスがまさる。ペレス。
ポンサクレックvs勇利、多彩なポンサクレックの攻撃に、勇利のシンプルだが強い右強打の反撃。勇利の右が決まって抜け出す。勇利。

決勝、ペレスの猛攻を凌いだ勇利が、ワンツー決めて攻め込み勝利。


どうしても「幹」の部分の強さで、誰と比べても勇利かなー、となってしまいますね。



コメント (3)
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