昨夜は何かを書くには頭が熱くなっておりました。今頃ですが感想です。
試合については、会場で見た限りでは、3回を境に八重樫東が闘い方を変えたように見えました。
動いて外して、捌いて、という展開では、捌ききれないという判断が、八重樫自身によって
下されたのではないか、と推測しますが、実際どうかはわかりません。
ローマン・ゴンサレスの攻撃は、ワンツーや右から入る形のいずれにせよ、後続のパンチが
正確な上、パンチとパンチの繋ぎ目が実に滑らかで、しかも打てば打つほど強くなる。
実際に対峙した、その攻撃力と質量は、八重樫の想像を超えたものだったのでしょう。
また、ゴンサレスの立ち位置の取り方も絶妙で、リング中央の「SPORT」の四角いロゴの外側に立ち、
必然的にロープの近くに立つことになる八重樫を、連打の最初のパンチでさらに下がらせ、
ロープを背負わせて後続の強打で打ち込む「手練れ」ぶりは、相変わらずさすがの一語。
相手を「倒し慣れ」ているボクサーの恐ろしさを、存分に見せつけられた感じでした。
そういう相手に対し、3回以降、正対しての攻防は不利とわかっていたはずの八重樫は、
サイドに動くよりも、正面から攻め込み、ハンドスピードを生かした右から左の返しを決め、
さらに左右のボディブローを決めてゴンサレスを止め、打ち合いを挑んでいきました。
3回は取れるかと思ったところでダウンさせられる痛い失点があり、5回は取れたかとも見ましたが、
もうこの時点で、八重樫は明らかに、ポイント計算ではない「勝負」に出ていました。
その覚悟は、当然、このカードには物足りない器の代々木第二体育館を埋めた満員の観衆にも
ひしひしと伝わっていて、場内には声援と悲鳴が間断なく交錯していました。
ポイント上は八重樫の劣勢ではあっても、7回までは、両者の闘いには最低限の均衡も見られていました。
ゴンサレスが連打の最後に右ストレートをボディに送れば、八重樫は左ボディで相手を止め、
ゴンサレスが左ボディを叩き返すと同時に、八重樫は左フックを上に合わせる。
八重樫の奮戦は誰の目にも驚異的で、ゴンサレスにとっては脅威だったでしょう。
しかし8回、とうとうそれが崩れ、ゴンサレスが明確に優勢。八重樫は身体を相手に向けられない場面があり、
それでもなお立て直して打ちかかる。9回、打たれながれも肩越しに右を当て、連打も決めるが、
とうとう最後の時が来て、左アッパーでダウンし、レフェリーがやっと試合を止めました。
セコンドが最終的に棄権しなかったこと、レフェリーストップが遅かったのではないか、という議論は
当然あるかもしれませんが、その反面、この試合はそういう近年の安全管理の趨勢とはまた別次元において
闘われた「死闘」だった、ということに、ある種の感動をしている自分もいます。
是非論は別として、このような闘いを、今の時代に見ることになるとは、想像していませんでした。
勝利の瞬間、両手を突き上げ、目を見開いて涙を流したローマン・ゴンサレスは、
ラテン・アメリカの死生観のひとつを象徴するボクシングの、勝利による生命の獲得、という事実に
感情を抑えきれずにいるように見えました。
そして八重樫東は、勝者に倍する拍手と賞賛の中、インタビューで客席を笑わせることまでして、
時折笑顔を見せながら、リングを降りました。
何と凄い試合を、いや、闘いを見たものか。
両者の闘う姿、そして闘い終えた姿を思い返して、何よりも強く、そう思います。
私が賢しらに、試合前に思い描いていた、或いは希望を込めて願っていた予想や、試合展開の想像などは、
試合が始まって早々に意味が無くなってしまいました。
ゴンサレスの圧倒的な力、それに対峙し、最後まで牙を剥き続けた八重樫。
その両者が見せた、闘いというものの本質、その根源的な生命の躍動は、圧倒的な熱量をもって、
昨夜、我々の心に伝わりました。
両者を賞賛することすら、今は何か白々しく感じられます。
今、彼らに向ける感情を言葉にすると「畏敬」の念、というしかないのかな、と、
そんな風に思っています。
そして試合後、八重樫と共にインタビューを受けるローマン・ゴンサレスの姿を、
花道から凝視し、鋭い視線を飛ばしていた、21歳の若き戦士の姿にもまた、
それに似た感情を抱いています。
いずれ時が経ち、彼がこの王者に挑む日が来るのでしょうか。
そのとき、どのような闘いが繰り広げられ、その果てに何が勝ち取られるのか、それとも。
この先、ボクシングファンとして当然ながら多くの試合をさまざまに見続ける中で、
心の奥底に、この試合を希求し続ける自分がいることでしょう。そう確信しています。