バ ラ
我家に来てから40年近くなる
取り立ってて手入れもしないのに毎年咲く
先生に褒められた俳句
「早起きの我に微笑むバラ一輪」
父親が東京暮らしだった当時、息子達は小学生と幼稚園児だった。春休み、夏休みには二人で東京の父の元に行った。私が新大阪まで送って行き、父親が東京駅で迎えた。帰りはその反対である。新大阪に迎えに行くと乗車口のガラスの向こうに小さな二つの顔が並んでいた。彼らの近くに座っていたらしい人が笑って私に言った事がある「京都から乗車口に立っているんですよ」親の私も下記の心境。
子供らの 留守の食卓わびしくて
テレビの音を 大きくなしぬ
何時もは新幹線だが一度だけ父親と飛行機で帰ってきたことがある。今では考えられない事だが、飛行機が着いた地点から建物まで歩いてくるのです。それだけ便数も少なかったと言う事だろうか。父親に買ってもらったバットを持って飛行機から降りてきた姿を昨日の事の様に覚えている。
私か子供達か、どちらが先立ったかは忘れたが、私が始めて飛行機に乗せてもらったのもこの時期だった。嬉しさよりも恐さが先立っていた。落ちるのではないかと言う恐さである。頭痛もしたような記憶がある。
子供達は浜田山の清交寮(独身寮)にいる父の所にまず落ち着く。独身寮なので食事の世話もしていただける。昼間は二人だけで何をして遊んでいたのだろうか?夜遅く帰ってきた父親が部屋に入ろうとしても、鍵が掛かっていて入れなかった事もあったとか。遊びつかれた子供は呼べどもドアを叩けども目を覚まさなかったのだろう。
関東には大宮に兄が、横浜に弟がいたので、どちらにも何日かずつ泊めてもらって従兄弟達と愉しく遊んだり、おばさん達に遊びに連れて行ってもらったりと愉しい休日を過ごす事になった。
私は独身寮には関西に帰る事になった時、荷物の整理に行っただけだ。私は毎日手紙を書いて、2日に一度(月水金)と投函した。金曜日に帰るのに何故金曜日に投函するかと言うと、家族と過ごして東京に帰った月曜日が一番寂しいのではないかという私の考えからである。せめて手紙で寮で待っていてあげようと考えた。その手紙は大きなダンボウル一杯あった。今思えば残しておけばよかったと思うが残念ながら捨ててしまった。
独身寮の裏側には社宅がずらりと並んでいた。私は社宅に住んだことがないので世間の話しか知らないが、主人の役職が奥様の序列と聞いたことがある。私達の会社の社宅もそうなのかどうか知らないが、これが世間で言われる社宅と言うものかと眺めた。
転勤になって始めての夏休み一度だけ親子3人で主人の元に行った。東京ではなく横浜生麦の船員寮兼独身寮だった。主人が横浜から丸の内に半月ほど通う事になった。この時も私は子供達を連れて遊びに出るのは少なく、寮になんとなくごろごろしていて、上げ膳据え膳の生活だったので見事に太った。帰宅してからすぐ整備体操に通って痩せた。これが運動の始めである。
家には市内に住む姉の娘(姑の孫娘)が泊まってくれていたので心配は無かった。
思えば今の私より姑は若いのである。心配する事もなかったな~
帰るとき東京駅に叔母(姑の妹)と義姉と主人が見送りに来てくれた。発車のベルが響き、電車が動き始めるとホームの三人を見ることが出来なかった。なぜなら私の瞼から止めどなく涙が流れ出た。それは激しい嗚咽に替わった。見送った人たちも吃驚したと思うが、自分自身どうする事も出来なかった。子供達は黙って母親の泣き止むのを待っていた。私は横浜辺りまで子供のようにしゃくり上げていた。
尼崎に帰れば私が中心にならなければならないその責任の重さと心細さが私の心を押し潰したのだろう。私が子供の前で泣いたのはその時と姑を見送った時だけだと思う。自分では十分お世話したつもりでも、やはり義理の中、自分の母ならばもっと優しくしたかも知れないと思うと涙が止まらなかった。そんな私の背を長男が無言でそっとたたいてくれた。「あ~大人になったな~」と感じた瞬間である。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
河畔に標なく 船戸与一
文中こんな台詞があった。なぜ招待を断るのかと日本人が外人に問う。「日本に対する憎しみのせいか?」と聞くと外人は答える「どうして日本人はそんなに過去の歴史に対してびくつくんだ」自分の考えで招待を断っているので、過去の歴史のせいではないとの答えである。この言葉、今の対外政策にも当てはまりませんか?私はそう感じたのですが。
船戸さんの作品は2000年に「虹の谷の五月」で直木賞を取られた時読んで、これが二冊目である。
我家に来てから40年近くなる
取り立ってて手入れもしないのに毎年咲く
先生に褒められた俳句
「早起きの我に微笑むバラ一輪」
父親が東京暮らしだった当時、息子達は小学生と幼稚園児だった。春休み、夏休みには二人で東京の父の元に行った。私が新大阪まで送って行き、父親が東京駅で迎えた。帰りはその反対である。新大阪に迎えに行くと乗車口のガラスの向こうに小さな二つの顔が並んでいた。彼らの近くに座っていたらしい人が笑って私に言った事がある「京都から乗車口に立っているんですよ」親の私も下記の心境。
子供らの 留守の食卓わびしくて
テレビの音を 大きくなしぬ
何時もは新幹線だが一度だけ父親と飛行機で帰ってきたことがある。今では考えられない事だが、飛行機が着いた地点から建物まで歩いてくるのです。それだけ便数も少なかったと言う事だろうか。父親に買ってもらったバットを持って飛行機から降りてきた姿を昨日の事の様に覚えている。
私か子供達か、どちらが先立ったかは忘れたが、私が始めて飛行機に乗せてもらったのもこの時期だった。嬉しさよりも恐さが先立っていた。落ちるのではないかと言う恐さである。頭痛もしたような記憶がある。
子供達は浜田山の清交寮(独身寮)にいる父の所にまず落ち着く。独身寮なので食事の世話もしていただける。昼間は二人だけで何をして遊んでいたのだろうか?夜遅く帰ってきた父親が部屋に入ろうとしても、鍵が掛かっていて入れなかった事もあったとか。遊びつかれた子供は呼べどもドアを叩けども目を覚まさなかったのだろう。
関東には大宮に兄が、横浜に弟がいたので、どちらにも何日かずつ泊めてもらって従兄弟達と愉しく遊んだり、おばさん達に遊びに連れて行ってもらったりと愉しい休日を過ごす事になった。
私は独身寮には関西に帰る事になった時、荷物の整理に行っただけだ。私は毎日手紙を書いて、2日に一度(月水金)と投函した。金曜日に帰るのに何故金曜日に投函するかと言うと、家族と過ごして東京に帰った月曜日が一番寂しいのではないかという私の考えからである。せめて手紙で寮で待っていてあげようと考えた。その手紙は大きなダンボウル一杯あった。今思えば残しておけばよかったと思うが残念ながら捨ててしまった。
独身寮の裏側には社宅がずらりと並んでいた。私は社宅に住んだことがないので世間の話しか知らないが、主人の役職が奥様の序列と聞いたことがある。私達の会社の社宅もそうなのかどうか知らないが、これが世間で言われる社宅と言うものかと眺めた。
転勤になって始めての夏休み一度だけ親子3人で主人の元に行った。東京ではなく横浜生麦の船員寮兼独身寮だった。主人が横浜から丸の内に半月ほど通う事になった。この時も私は子供達を連れて遊びに出るのは少なく、寮になんとなくごろごろしていて、上げ膳据え膳の生活だったので見事に太った。帰宅してからすぐ整備体操に通って痩せた。これが運動の始めである。
家には市内に住む姉の娘(姑の孫娘)が泊まってくれていたので心配は無かった。
思えば今の私より姑は若いのである。心配する事もなかったな~
帰るとき東京駅に叔母(姑の妹)と義姉と主人が見送りに来てくれた。発車のベルが響き、電車が動き始めるとホームの三人を見ることが出来なかった。なぜなら私の瞼から止めどなく涙が流れ出た。それは激しい嗚咽に替わった。見送った人たちも吃驚したと思うが、自分自身どうする事も出来なかった。子供達は黙って母親の泣き止むのを待っていた。私は横浜辺りまで子供のようにしゃくり上げていた。
尼崎に帰れば私が中心にならなければならないその責任の重さと心細さが私の心を押し潰したのだろう。私が子供の前で泣いたのはその時と姑を見送った時だけだと思う。自分では十分お世話したつもりでも、やはり義理の中、自分の母ならばもっと優しくしたかも知れないと思うと涙が止まらなかった。そんな私の背を長男が無言でそっとたたいてくれた。「あ~大人になったな~」と感じた瞬間である。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
河畔に標なく 船戸与一
文中こんな台詞があった。なぜ招待を断るのかと日本人が外人に問う。「日本に対する憎しみのせいか?」と聞くと外人は答える「どうして日本人はそんなに過去の歴史に対してびくつくんだ」自分の考えで招待を断っているので、過去の歴史のせいではないとの答えである。この言葉、今の対外政策にも当てはまりませんか?私はそう感じたのですが。
船戸さんの作品は2000年に「虹の谷の五月」で直木賞を取られた時読んで、これが二冊目である。