ちいさな幸せ

幸せの基準ってある?
それは自分の心の中にあると思う。
私は何時も陽だまりのような幸せの中に居た。

単身赴任

2006年05月13日 | 思い出話
              バ ラ
         我家に来てから40年近くなる
       取り立ってて手入れもしないのに毎年咲く
           先生に褒められた俳句
         「早起きの我に微笑むバラ一輪」

父親が東京暮らしだった当時、息子達は小学生と幼稚園児だった。春休み、夏休みには二人で東京の父の元に行った。私が新大阪まで送って行き、父親が東京駅で迎えた。帰りはその反対である。新大阪に迎えに行くと乗車口のガラスの向こうに小さな二つの顔が並んでいた。彼らの近くに座っていたらしい人が笑って私に言った事がある「京都から乗車口に立っているんですよ」親の私も下記の心境。

     子供らの 留守の食卓わびしくて 
            テレビの音を 大きくなしぬ

何時もは新幹線だが一度だけ父親と飛行機で帰ってきたことがある。今では考えられない事だが、飛行機が着いた地点から建物まで歩いてくるのです。それだけ便数も少なかったと言う事だろうか。父親に買ってもらったバットを持って飛行機から降りてきた姿を昨日の事の様に覚えている。

私か子供達か、どちらが先立ったかは忘れたが、私が始めて飛行機に乗せてもらったのもこの時期だった。嬉しさよりも恐さが先立っていた。落ちるのではないかと言う恐さである。頭痛もしたような記憶がある。

子供達は浜田山の清交寮(独身寮)にいる父の所にまず落ち着く。独身寮なので食事の世話もしていただける。昼間は二人だけで何をして遊んでいたのだろうか?夜遅く帰ってきた父親が部屋に入ろうとしても、鍵が掛かっていて入れなかった事もあったとか。遊びつかれた子供は呼べどもドアを叩けども目を覚まさなかったのだろう。

関東には大宮に兄が、横浜に弟がいたので、どちらにも何日かずつ泊めてもらって従兄弟達と愉しく遊んだり、おばさん達に遊びに連れて行ってもらったりと愉しい休日を過ごす事になった。

私は独身寮には関西に帰る事になった時、荷物の整理に行っただけだ。私は毎日手紙を書いて、2日に一度(月水金)と投函した。金曜日に帰るのに何故金曜日に投函するかと言うと、家族と過ごして東京に帰った月曜日が一番寂しいのではないかという私の考えからである。せめて手紙で寮で待っていてあげようと考えた。その手紙は大きなダンボウル一杯あった。今思えば残しておけばよかったと思うが残念ながら捨ててしまった。

独身寮の裏側には社宅がずらりと並んでいた。私は社宅に住んだことがないので世間の話しか知らないが、主人の役職が奥様の序列と聞いたことがある。私達の会社の社宅もそうなのかどうか知らないが、これが世間で言われる社宅と言うものかと眺めた。

転勤になって始めての夏休み一度だけ親子3人で主人の元に行った。東京ではなく横浜生麦の船員寮兼独身寮だった。主人が横浜から丸の内に半月ほど通う事になった。この時も私は子供達を連れて遊びに出るのは少なく、寮になんとなくごろごろしていて、上げ膳据え膳の生活だったので見事に太った。帰宅してからすぐ整備体操に通って痩せた。これが運動の始めである。

家には市内に住む姉の娘(姑の孫娘)が泊まってくれていたので心配は無かった。
思えば今の私より姑は若いのである。心配する事もなかったな~

帰るとき東京駅に叔母(姑の妹)と義姉と主人が見送りに来てくれた。発車のベルが響き、電車が動き始めるとホームの三人を見ることが出来なかった。なぜなら私の瞼から止めどなく涙が流れ出た。それは激しい嗚咽に替わった。見送った人たちも吃驚したと思うが、自分自身どうする事も出来なかった。子供達は黙って母親の泣き止むのを待っていた。私は横浜辺りまで子供のようにしゃくり上げていた。

尼崎に帰れば私が中心にならなければならないその責任の重さと心細さが私の心を押し潰したのだろう。私が子供の前で泣いたのはその時と姑を見送った時だけだと思う。自分では十分お世話したつもりでも、やはり義理の中、自分の母ならばもっと優しくしたかも知れないと思うと涙が止まらなかった。そんな私の背を長男が無言でそっとたたいてくれた。「あ~大人になったな~」と感じた瞬間である。

       ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

河畔に標なく  船戸与一
 文中こんな台詞があった。なぜ招待を断るのかと日本人が外人に問う。「日本に対する憎しみのせいか?」と聞くと外人は答える「どうして日本人はそんなに過去の歴史に対してびくつくんだ」自分の考えで招待を断っているので、過去の歴史のせいではないとの答えである。この言葉、今の対外政策にも当てはまりませんか?私はそう感じたのですが。

船戸さんの作品は2000年に「虹の谷の五月」で直木賞を取られた時読んで、これが二冊目である。























コメント (7)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ホットケーキ サンドイッチ サンキストオレンジ ビフテキ 

2006年05月13日 | 思い出話
             西洋オダマキ(黄)
        何年か前種をまき色とりどり咲きましたが
             残ったのがこの色
           今年は一番沢山咲きました

元町6丁目に三越デパートがありました。そこの大食堂に連れて行ってもらって食べるのが「ホットケーキ」です。子供用の椅子を持ってきてくれる、店員さんが紙のエプロンを着けてくれて準備完了。今か今かと待つうちにあのたまらないキツネ色の「ホットケーキ」が出てきます。小さくきったバターをぬり、蜂蜜をかけて待ちに待った我が口へ・・・。今でも好きですね。でも普通は冷凍をチンするだけのようなので外で食べなくなりましたが。子どもたちが小さい頃家でよく焼きました。あのキツネ色にしたい為に重たい鉄のフライパンをわざわざ買ったくらいです。外国では「パンケーキ」と言いますね。日本のように厚みは無く小ぶりで、何枚も積み上げて出てきました。寸胴のピラミットの様なのを見て始めは驚きましたね。「エッ!これ何?」って。

おゆきさんとお友だちになって間もなく、土曜日に昼食に招待されました。「もう一人一緒で良い?」と私。当時仲良しだったけいこさんと一緒におゆきさん宅へ
お家はその当時まだまだ珍しいコンクリートの高層住宅でした。その時、出されたのが「サンドイッチ」けいこさんも始めてらしく「おいしいね~」「おいしいね」と顔を見合わせぜ~んぶ頂きました。やはり上海とやらから来た家は違うなと思いました。はさまれていたのが何か?そこまでの記憶は無いんです。

「サンキストオレンジ」は今ではスーパーに行きますと山積みですが、昭和30年の始め頃店頭で目にすることはなかったと思います。

勤めていた会社が船会社でした。神戸港に船が入りますと船長さんに花束等持っていくことがあるのです。なかむら船長さんに花束を渡しますと、握手を求められました。私がモジモジしていると「こんな時は握手をするものです・・・」と教えられました。

そんな時食堂で出されるのが「サンキストオレンジ」なんです。こんなに瑞々しいみかんは食べた事がないと思いました。船が大きいので沖にいることが多いのです。すると「さんぱん」という小船で船までいきます。味を占めてからは船が着くといえば反射的に「サンキストオレンジ」を思い浮かべて行きたかったものです。主人は営業でしたから行くわけです、やはり「サンキストオレンジ」は楽しみだったと言っています。

ご存知ですか、船が港にいてブイに繋がれている時はお金を払っている事を。だから徹夜になっても、一刻でも早く荷物の積み下ろしを済ませた書類を作らなければなりません。だから出社しますとソファーに営業の人が寝ている事がありました。

主人が7年(3年の約束が延びた)程、東京に単身赴任していました。姑が東京は嫌だと言うので私達は残りました。その時の約束は毎週帰る事でした。海外に出る時を除いて、そしてどうしても帰れないときは私を東京に呼んでくれました。
私は3日分の献立を冷凍・冷蔵庫に作って、いそいそ出かけました。

定宿は赤坂プリンスホテルか新橋第一ホテル、一度帝国ホテルに泊まりたいと言ったのですが、それは叶いませんでした。今の私ならあちこち東京見物するのですが、当時の私は余り興味が無く、ホテルでその当時大好きだったクロスステッチをして主人が夕食に連れて行ってくれるのを待っていました。あれっ!お昼は一人で何食べたのかしら?全然記憶にない!

色んなお店に行きました。記憶に残っているのは「長谷川一夫さんのお店」です。
お座敷天麩羅といってお部屋に調理台があって、私達のためだけに板前さんが天麩羅を揚げてくれるのです。お忍びの恋などにはもってこいの場所ですね。

今でも時々テレビなどで耳にしますが、六本木のステーキの店「瀬里奈」です。

始めに食前酒を飲むテーブルに案内され、順番を待ちます。横に長~い鉄板が渋く光っています、座ると布製のエプロンが渡されます。それを身に着けて待っていますと、まずにんにくのスライスを、そして肉を目の前で焼いてくれます。私が驚いたのはその肉の厚さと調理法・・・両面焦げ目が入ると、さっと金属の蓋をかぶせる事です。たれは何種類か出てきました。若かった私達ですペロッと平らげます。後は別席で食後の飲み物をというスタイルでした。お店の名前しかもう覚えていませんが、その名を耳にしますとやっぱり懐かしさに胸がきゅんとなります。

東京といえば「築地の喜楽寿司」東京に着いた夜は大体ここでした。始めに寿司板にドンと山盛りの海藻が出てきます。海藻類の苦手な私は一寸困りました。

もう一度行きたいねと言う事で調べたら、今も営業と分かりました。今年一月国技館に相撲見物に行きました時、行きました30年ぶりに・・・お店が移転するという時に関西に帰ってきましたので、今のお店は初めてなんです。昔のお店はうなぎの寝床のように奥深くカウンターの中には5~6人の板前さんが居たように記憶していますが、今のお店はカウンターの中は板前さんが二人で、二階もあるようでした。でも兎に角懐かしかった。女将さんは会社の名前を覚えていて「あの頃は良い時代でしたね」と話が弾みました。

子供達は小学校時代がその時期にあたります。こんな事がありました。帰宅しまして、所定の場所に私の寝巻きがないのです。おかしな~と探しますとなんと、次男の布団の中にありました。小学生でしたから寂しかったのだと思います。わたしの代わりに抱いて寝たのでしょうか?ほろりとさせられました。今もし彼に話しても「そんなん知らんで~」といわれるのが落ちでしょうね。私の大事にしていた嬉悲しい思い出です。

主人は毎週会うという約束を果たしてくれました。今のように新幹線の回数券がない時代です。会社からは月一回分は出るそうですが、後の3回分は自前です。私もファミリアの赤ちゃん服の編み物のアルバイトをしましたし、預金ゼロの今から思えば恐ろしい生活です。

親孝行の旦那様に添うのも辛いものがあります。でもこの単身赴任がなければ
「長谷川の天麩羅」や「築地の喜楽寿司」も「瀬里奈のビフテキ」も私は食べられなかっただろう。そう考えればこれも又良しかな。











コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする