ちいさな幸せ

幸せの基準ってある?
それは自分の心の中にあると思う。
私は何時も陽だまりのような幸せの中に居た。

カラオケ

2006年05月08日 | 思い出話
             アプチロン
         赤 桃色 黄色と三色あります
     案外高いので去年の年末バーゲンで買いました

集団疎開から後は家が焼けたので平野小学校に転校しました。その学校で歌の上手な子達が選ばれてNHK放送局に歌いに行きました。その放送をラジオで聞きながら私も行きたかったと思ったことを覚えております。

6年の頃だと思います、学芸会でしょうか、島崎藤村の「千曲川抒情の歌」千曲川の四季を歌った詩だと思いますが、まつなみくんという男の子が「川中島」を「鞭声粛々夜河を渡る・・・」って朗々と吟じて、その前後に3~40人が藤村の歌を吟じると言うか歌うと言うか、ちゃんぽんになった節回しで歌うのです。この時は私も選ばれて出ました。

姑を見送り、子供の手も離れた、40~50代に「カラオケ」に懲りまして、10年間、金曜、土曜はスナック通い。勿論主人と一緒です。一人で行く事はありません。普段は飲まない私ですが、その時は水のような水割りを飲みます。飲むと何だか声が良く出るように思うからです。一晩に20曲ぐらいは歌いましたね。主人はたまには歌いますが、ひたすら飲んでしゃべっていました。

ご一緒していた方の奥様は「カラオケ」にとても年季が入っていましてね、男歌がお得意でした。それはそれは上手なんです。それでもご主人が言われるには「若い頃はもっと声が出ていた」これでも下手になったんだぞ!ってことですね。

歌唱力ではとても敵わない、そこで私は考えました。1週間に一曲新しい歌を覚えようと思いました。決めた曲をテープにとって覚えました。若かったんですね、すぐ覚えましたよ。時には新曲のカラオケのほうが来ていない事がありましたが、そこは商売です大体ありましたよ。皆さん気がついて新曲を楽しみに待ってくれるようになりました。

私は負けず嫌いなんでしょうかね?私は無駄な競争はしたくないので、自分に出来る事は何か?を考えて「新曲を覚える」を考え付いたつもりなんですけど・・・

こんな事もありましたね。主人が一寸入院した事がありまして、皆さんで退院祝いをしてくださると言う話が来ました。それから私はその当時流行り始めた「都はるみのふたりの大阪」を主人とデュエットすることに決めまして病院にテープを持ち込んで練習しました。主人は余り気乗りではありませんから、なかなか覚えられなくて叱咤激励する入院生活でした。外科で切ってしまえば傷が治れば退院でしたし、一寸贅沢に個室でしたから出来ました。特訓のお陰でやんややんやの拍手を頂きましたよ。

定年後もたまには行っていましたが、おなじみのお店がマスターの体調不良で人に譲られてからは行かなくなりましたね。私達のころの夜の街はおじ様族全盛でおば様が少々混じっていましたが、今の神戸の夜は若者の天国と様変わりしましたね。
お店の構えも若者向きになったようです。今のおじ様族すなわち団塊の世代とやらは飲み歩くより他に何か趣味をお持ちで、夜の街は若者に譲ったのでしょうか?





コメント (5)
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