ちいさな幸せ

幸せの基準ってある?
それは自分の心の中にあると思う。
私は何時も陽だまりのような幸せの中に居た。

集団疎開(1)

2006年05月01日 | 思い出話
            スターチスのドライフラワー
            2月に観梅と花摘みに行った
         2ヶ月で色鮮やかなドライフラワーが誕生


1944年9月小学3年生の私は親元を離れて加古川市に疎開した。今では通勤圏内の近さである。行く前の日におじいちゃんと奈良に行った。行く事の決まった時に母は三田に私を連れて行った。もう切符もなかなか手に入らない頃の事だ。「蛍」を見せると言うのだ。

その宿から川に行く道で「瓜」のなった家があった。「一つわけてもらうからね」と母の手に入れた「瓜」を道端で、手を汁で濡らしながら食べた。その後の「蛍」の群舞を私は忘れない。余り人気のない川べりで、初めて見る「蛍」を追い続けた私。そんな私を母はどんな思いで見ていたのだろう。戦争が激しくなるので疎開するのである、二度と生きて会えなくなるかもしれない、母の心は色んな思いが交錯していただろう、その母の悲しい顔や思いは闇が静かに抱いていた。

引率の佐々木先生は当時20代であった。その若さで3年~5年の女の子を50人ほど連れて行ったのである。今の人には出来ない事だろう。現地の人2~3人が寮母さんとして来ておられた。その方達は主に食事の世話と洗濯である。チーフがほんじょうさんと言うメガネを掛け、長い髪を三つ編みにして頭の周りに巻きつけていた。この人が特別私を可愛がってくれるのである。でもそれは他の子の手前私には迷惑だった。皆親元を離れて寂しいのが解っていたから。

洗濯は大きな釜で全員の下着を煮る事から始める。なぜなら全員めったお風呂にも入れないので「シラミ」を湧かしているから。「身体に湧く「シラミ」は白く、血を吸うと丸々と赤黒くなる、髪の毛の「シラミ」は元々黒いのである。これも一種の保護色であろうか。生みつけた卵は白。二人一組になってお互いの頭の「シラミ」を取りあったものだ。

食事はささき先生の地元の関係者への再々のお願いによって、他の疎開地よりましだったらしい。終わりの方は「芋づるの雑炊」になったり「いなご」を食べたりしたけれど。加古川の土手に「つくし」を取りに行ったこともある。

勉強と言うほどの事はしなかった様に思う。教科書もなかったし、半紙をもらい、それを縦横に折って筋を付けた桝の中に書き取りをした位である。あとの時間は何をしたか覚えていない。

掃除は毎日した。畳はそこが修養道場だったからか縁のない硬い畳だった。時々「ムカデ」が出てきて私達を刺した。すると男の先生(男の子は別棟で男の先生と生活していた)がその「ムカデ」を捕まえて、その傷口にこすり付ける。そうするのが「ムカデ」の毒を逃れる道と聞いた。しかし噛まれて痛い上にその「ムカデ」を身に擦り付けられるのである、その子は大声を上げて泣く。私は幸い噛まれた経験はない。

上級生の女子は薙刀の練習をしていた。私達も一度薙刀を持たされたが、背丈を遥かに越える。薙刀を振ると言うより、自分達が振り回される感じで一度で中止になった。

男の子は遊ぶ時辺りの(道場は林の中にあり、回りは小山である)木を折って刀にして「戦争ごっこ」をしていた。たまたま一人の男の子が手にしたのが「漆の木」だった為、被れて死んだ。その地方の風習か、戦争中で棺おけが無かったからか「酒樽」のような「たる」に入れられた。子供と言えどもそのままは入らないので、座った形に折りたたまれたと聞いて、子供心に可哀想にと思った。

引率のささき先生とは戦後も時々集まったし、神戸市が疎開地にお礼の「瓦せんべい」を持っていくように頼まれた時も、先生と数人の子供達で疎開地を再び訪れた。修養道場のあった場所は、今はゴルフ場になっていていく事は出来なかった。

先生はお姉さん親子と住んで居られたが、お姉さんが早死にされ、その息子が結婚して同居、上手くいかず、一人暮らしになられた。年老いて「脳溢血」に倒れたと聞いて、私達がお見舞いに行こうとしたが「今の姿を見られたく無いので、来ないで」と断られた。何年か後亡くなられたので、私が思い出すのは元気だった男のような先生である。見舞えば良いという物でないことをその時知った。




コメント (2)
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