ペラルゴニューム
生き残り組
ゼラニュームと似ているのに
春一期咲きなのは何故?
「字はたいをあらわす」っていいます。その「たい」って「体」即ち「体型」と思っていた。でも「態」即ち「状態」ではないのですか?字引を引いても見つかりません。諺辞典なら在るのだろうか?どちらが正しいのだろう?
叔母に親戚中でも有名な達筆な方がいました。私はお会いした事はないが年賀状で見事な字は見ていました。書かれた字は力強く男性の字のようでした。80歳を過ぎた頃からでしょうか、字の美しさに代わりは無いのですが、字に勢いと言うものが無くなって来ました。「あ~叔母さんも年をとられたんだな~」と思っていましたら、訃報を聞くことになりました。その時に「字」はその人の体力をも表すのだなと感じたのです。
結婚して数年後、ゴルフ帰り、主人を送りがてら私に会いに来てくれた私の元上司が言いました。「今とっても幸せなんだね。年賀状の字を見ていれば解る。字が伸び伸びとしている」って。その時まで自分の字の変化に気づきませんでした。字は意識なしに変わって行くものなんですね。
昔の字と比較してみると、まず字の大きさが違いました。昔は小さな字を書いていましたが、大きな字になっています。そう言えば何時か会の代表で案内状を出した方に逢いに行った時「案内状を下さったのは何方?」と聞かれて「私です」と答えると「アラッ!字を見て男性かと思っていました」と言われた事があります。
もう一人新聞記者の友に「・・・さんの字のかなは大きい字と小さい字があるね」と言われた事です。彼は職業柄、人の字を見る事が多いからでしょう「なるほど」と思いました。言われるまで気付きませんでした。今でもその癖は直っていませんが書いた文を読み返す時、この言葉を良く思い出します。
我家には「屋久杉の硯箱」と「四足の硯」があります。その硯の裏には舅の氏名が刻まれています。舅が小学生の頃、今で言う「習字のコンテスト」が在ったそうです。屋久島からは舅の書き初めが出されました。本土(屋久島の人は九州の鹿児島県の事をこの様に呼んでいた)の審査員は「小学生にこんな字は書ける筈が無い大人の手が入っている」と断言したそうです。この知らせを受けた小学校長は舅を連れて本土に渡り、審査員の目の前で書かせました。勿論舅が優勝で、その時に記念品として贈られたのが「四足の硯」と言う事です。
舅の字は餅箱の蓋の裏とか、お屠蘇の箱の蓋裏とかに今でも残っております。彼の子供達は上手でもなく下手でもなく普通の字です。
私が小学一年の時です。父兄参観日(今の保護者会)がお習字でした。授業中だんだんおしっこに行きたくなりました。先生が廻って来られたら「お便所に行きたい」と言おうとするのですが、沢山の父兄も見えていますし、とうとう言えませんでした。座っているときは蓋をしている様なものですから良かったのですが、立ち上がった途端、おしっこをちびってしまったのです。靴の中まで水浸し、その気持ちの悪さは今でも覚えています。そろっと母のところに歩いていきました。母はすぐ気づいてくれました。どのようにして帰ったかの記憶は飛んでいます。
私はもう一つ強烈に覚えている小学生の思い出があります。一年生の3学期だと思います。「カタカナ」から「ひらかな」に替わる時です。文章は「汽車の話」でした。その文章を「カタカナ」から「ひらかな」に書き換えた人から帰られるのでした。だんだん人が減っていきます。あと3~4人もいたでしょうか、夕暮れが迫ってきました。でも中々書き換えが出来ないのです、自分が心細い気持ちで暮れ行く窓の方を見ていた姿は覚えているのですが、その後のことはすっかり忘れております。暗くなるので宿題にされた様な記憶もあるのですが・・・
小学校の低学年は勉強の出来ない子でした。5年生の夏休みのノートで「優秀賞」を頂き「あれ!私もやれば出来るのでは?」とその時思いました。その学年末「向上賞」を貰いました。それから私の追いつけ追い越せが始まりました。今のように絶対評価だけで人との対比が無い小学校生活ならば私は出来ないままの子供だったかもしれません。子供が自覚できる為にもアメとムチは必要だと思っています。
生き残り組
ゼラニュームと似ているのに
春一期咲きなのは何故?
「字はたいをあらわす」っていいます。その「たい」って「体」即ち「体型」と思っていた。でも「態」即ち「状態」ではないのですか?字引を引いても見つかりません。諺辞典なら在るのだろうか?どちらが正しいのだろう?
叔母に親戚中でも有名な達筆な方がいました。私はお会いした事はないが年賀状で見事な字は見ていました。書かれた字は力強く男性の字のようでした。80歳を過ぎた頃からでしょうか、字の美しさに代わりは無いのですが、字に勢いと言うものが無くなって来ました。「あ~叔母さんも年をとられたんだな~」と思っていましたら、訃報を聞くことになりました。その時に「字」はその人の体力をも表すのだなと感じたのです。
結婚して数年後、ゴルフ帰り、主人を送りがてら私に会いに来てくれた私の元上司が言いました。「今とっても幸せなんだね。年賀状の字を見ていれば解る。字が伸び伸びとしている」って。その時まで自分の字の変化に気づきませんでした。字は意識なしに変わって行くものなんですね。
昔の字と比較してみると、まず字の大きさが違いました。昔は小さな字を書いていましたが、大きな字になっています。そう言えば何時か会の代表で案内状を出した方に逢いに行った時「案内状を下さったのは何方?」と聞かれて「私です」と答えると「アラッ!字を見て男性かと思っていました」と言われた事があります。
もう一人新聞記者の友に「・・・さんの字のかなは大きい字と小さい字があるね」と言われた事です。彼は職業柄、人の字を見る事が多いからでしょう「なるほど」と思いました。言われるまで気付きませんでした。今でもその癖は直っていませんが書いた文を読み返す時、この言葉を良く思い出します。
我家には「屋久杉の硯箱」と「四足の硯」があります。その硯の裏には舅の氏名が刻まれています。舅が小学生の頃、今で言う「習字のコンテスト」が在ったそうです。屋久島からは舅の書き初めが出されました。本土(屋久島の人は九州の鹿児島県の事をこの様に呼んでいた)の審査員は「小学生にこんな字は書ける筈が無い大人の手が入っている」と断言したそうです。この知らせを受けた小学校長は舅を連れて本土に渡り、審査員の目の前で書かせました。勿論舅が優勝で、その時に記念品として贈られたのが「四足の硯」と言う事です。
舅の字は餅箱の蓋の裏とか、お屠蘇の箱の蓋裏とかに今でも残っております。彼の子供達は上手でもなく下手でもなく普通の字です。
私が小学一年の時です。父兄参観日(今の保護者会)がお習字でした。授業中だんだんおしっこに行きたくなりました。先生が廻って来られたら「お便所に行きたい」と言おうとするのですが、沢山の父兄も見えていますし、とうとう言えませんでした。座っているときは蓋をしている様なものですから良かったのですが、立ち上がった途端、おしっこをちびってしまったのです。靴の中まで水浸し、その気持ちの悪さは今でも覚えています。そろっと母のところに歩いていきました。母はすぐ気づいてくれました。どのようにして帰ったかの記憶は飛んでいます。
私はもう一つ強烈に覚えている小学生の思い出があります。一年生の3学期だと思います。「カタカナ」から「ひらかな」に替わる時です。文章は「汽車の話」でした。その文章を「カタカナ」から「ひらかな」に書き換えた人から帰られるのでした。だんだん人が減っていきます。あと3~4人もいたでしょうか、夕暮れが迫ってきました。でも中々書き換えが出来ないのです、自分が心細い気持ちで暮れ行く窓の方を見ていた姿は覚えているのですが、その後のことはすっかり忘れております。暗くなるので宿題にされた様な記憶もあるのですが・・・
小学校の低学年は勉強の出来ない子でした。5年生の夏休みのノートで「優秀賞」を頂き「あれ!私もやれば出来るのでは?」とその時思いました。その学年末「向上賞」を貰いました。それから私の追いつけ追い越せが始まりました。今のように絶対評価だけで人との対比が無い小学校生活ならば私は出来ないままの子供だったかもしれません。子供が自覚できる為にもアメとムチは必要だと思っています。