ちいさな幸せ

幸せの基準ってある?
それは自分の心の中にあると思う。
私は何時も陽だまりのような幸せの中に居た。

久坂(くさか)葉子と言う作家

2006年05月29日 | 気にかかる
          アルペンブルー(星桔梗)
         年間を通じて葉が茂っている
      1.5cmほどの花が放射状に枝垂れて咲く

「ラジオ番組を録音してくれる所しらない?どうしてもとりたい番組があるのよ。29日のラジオ関西なんだけど」とたまちゃんからのメール。私は電話した。「古い知人の文筆家のほりさわさんが久坂葉子の大ファンで協力してあげたい」と言う。きっと関西の人で無いので関西放送が聴けないのだろう。「ダヴィングならしてくれるけど、番組そのものと言うのは聞いた事ないよ」「貴女は何でも良く知っているから訊ねてみたのよ」「私がとってもいいけど忘れたらごめんよ」頼まれた事を忘れる事はま~ない、しかしこの頃の自分には油断がならない。予防線を張ったのである。早速ラジオに「29日18:30 たまちゃん録音」と書いた紙をぺったり張った。

「無事とり終えました。送りますから待っていてください」「本当に有難う。ご迷惑をかけてすみませんでした。一杯感謝しています」「今録音を聞き終えた所です。本を読んでみたくなりました。私こそ知らない事を教えて頂いて有難う」

本名は川崎すみこ 川崎造船の創設者のひこ孫に当たる。父は男爵、母は加賀百万石の前田家の流れを汲む子爵の娘の次女として生まれる。神戸山本町に生まれ山手女学校に通う。昭和25年19歳の時「ドミノのお告げ」で芥川賞候補となる。

1952年12月31日21:45、阪急六甲の駅で大阪行き特急に飛び込み自殺する数時間前に書いたものだ。21歳の若さである。作品もダウンロード出来るようになっていた。その最後の作品は「幾度目かの最後」と言う。27枚と言う長さであるが読んでみたかったし、読んだ後はたまちゃんにあげれば良いと思いプリントした。

山手女学校の仲良しの友達の母親に宛てた手紙形式になっている。その友達が言うには「私の親と言うより気の会う友達、心の友というかしら、話の解ってくれるおばさんと言う感じでした。母親では理解してもらえないからと何でも相談していたようです」と語る。でも実の母親とすれば娘の最期の遺書に近い作品が自分宛ではなく、他人であったと言う事は辛かっただろうと思う。

「幾度目かの最後」の最後の方の抜粋をテープから起こしてみた。「おばさまこれは小説ではありません。全部本当なんです。真実私の心の告白、鉄路のほとりは虚構でなしに本当のことを私に書けと言いました。これがそうです。私はこれを発表するべくして死ぬでしょう。私の最後の仕事なんですから。おば様私は静かな気持ちになれました。書いてしまった。すっかり。なんという罪深い女。私は地獄行きですね。おば様お体をうんと大切になさって下さい。花がいけているお部屋、懐かしいお部屋です。  12月31日午前2時頃」

その日彼女は忘年会に出て、席を移し、ピアノの弾き語りで(ピアノは上手だった)「人の気も知らないで」を原語で歌ったと言う。その足で六甲駅(くまののおばさまの家がある)で降りて、その命を自ら絶ってしまった。彼女の遺体は自宅に帰る事無く菩提寺に直行したらしい。何故なのだろう。「久坂葉子研究会」と言うのがあるらしい。姉は語る「真面目すぎて悩みが多かったのだろうと、今この年になって理解できるようになった。母は何時も言っていた『すみこは10年か20年後に生まれて居たらよかった』と言う。

今夜の放送は死の9日前一日で書き上げた作品で「鋏と布と型」と言う、女性デザイナーとマネキン人形の語りで、私には優しい「禅問答」のように聞こえた。53年前関西放送が神戸放送と言っていた頃、死後一年目に録音放送されたテープの再放送である。

放送の終わりに「死に急ぐと言うよりも、激しく生真面目なその人生を生き急いだのではないか」と締め括った。此処にも又「生き急ぐ」と言う言葉が出てきた。
これが年末に近い時期ならば「流行語大賞」に選ばれるかも知れないとフッと思った。

たまちゃんがこの件で私の事を思い出してくれなければ、私は一生知らないで過ぎただろう。同じ神戸生まれ、4歳違い。同じ時代を駆け抜けて、死後53年経ってもまだ忘れられない人を知ってよかったと思っている。唯私的には「芥川賞候補の作品」は余り読まない。録音を聞いていてやはり「芥川賞的かな?」と思う感じは在った。その年の「芥川賞」は何方だったのだろう?



















コメント (4)
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