ちいさな幸せ

幸せの基準ってある?
それは自分の心の中にあると思う。
私は何時も陽だまりのような幸せの中に居た。

別れ

2008年07月28日 | 今日この頃

               名前は知らない(08-5-6)
              種が飛ぶのか アチコチで咲く
          良く見れば 1cm足らずながら美人系の花


一日中うとうととして過ごした。どんなに頑張っても自然に眠りの国に誘われる。体力回復の為に必要な眠りタイムらしい。

無性にあっさり系のものが食べたい。蕎麦やうどんではなく、ソーメンが食べたい。薬味はショウガとネギだけ。ショウガの喉を通る時の清涼感がたまら無く良い。

ソーメンは我が県の播州「揖保の糸」が良い。ソーメンは2~3年経った「ヒネ」と呼ばれるのが美味しいとされているが、近頃はその表示を余り見かけない。賞味期限の記載がされるようになって、記入しづらくなったと聞く。


7月25日義兄が82歳の生涯を閉じた。命日を私は忘れる事は無いだろう。何故なら「天神祭り」の日だからだ。「天神祭り」と言う言葉を聞くたびに、暑さと義兄の命日だと思い出すだろう。

義兄の誕生日が12月1日であったことは、還暦祝いに参加する為、名神を走った時、富士川で見た富士山の美しさと、現在地を知らせるために掛けた電話に「富士山に見とれないで、早よおいで」と言った義兄の言葉と共に思い出していた。又、近年は愛子様がお生まれになったのが義兄と同じ12月1日だった事でも記憶している。

色々の事情があり、通夜には長男に行ってもらい、私達と次男は告別式当日に日帰りする事にした。

始発で立花を後にし、一番早く乗れる「のぞみ」で埼玉に向かった。目的の故か、途中、富士山も東京タワーも気にする事無く東京駅にすべ選りこんだ。此処から大宮に行くわけだ。過っては夫婦で行く時は、マイカーで行くが、私一人の時は電車で行った。今日の降り立ち駅は大宮の先の宮原駅である。義兄の家には大宮下車、バスで行ったな~とか、色々思い出しながら列車に身を任せていた。

浦和のあたりだろうかその頃「キューポラ」がニョキニョキ立っていたと思っていたが、見当たらなくなっていた。変わりに大宮に近づくにつれて高層ビルがニョキニョキと建っていた。

式場の案内図通りに行ったので、私の通っていた在来線ではなかった。その為には上野で一旦のりかえた。すると宮原駅まで直通である。帰りは従兄弟も一緒だった為に大宮で乗り換え在来線で東京まで帰ってきた。

宮原駅に到着すると、今までの大宮駅までなら勝手に開いていたドアが開かない、どうなったのだろうと思案していると、主人が扉の側にボタンを見つけ、其れを押すと扉が開いた。何処か田舎町での経験はあるが、都会の真ん中では始めての経験だった。

式場には告別式に1時間前に着いた。まだ早く昨夜式場で泊まった義弟がいただけだった。間もなく義姉や姪たち一家がやってきて、義兄と対面させて頂いた。4,5年ぶりに会った義兄は私の姑、すなわち義兄の母にそっくりになっていたのには驚いた。「血」とはこういう事なのかと改めて恐れすら感じた。姑も82歳(数え年)義兄は満82歳(今は生きている時と同じ満で言うらしい)だった。

告別式が始まったが、参列者の「焼香」が始と終わりと2度もあることに驚いた。関西と関東との違いなのか、埼玉県の地方だけなのか解らないが、お棺の蓋の釘うちを縁者一同でするのだが其れは無かった。私は今年始、もりやまの叔母さんの時は順番にしたと思う。

お棺を運ぶのも、玄関まではストレッチャーのようなものに乗せられた、霊柩車に移すときのみ近親の男子が持った。これは今でも男子に限るようだ。

火葬場の雰囲気は何処とも似ている、平屋である。此処の玄関からはお棺は人手は借りずに、電動ストレッチャーである、指定されたのは11号室、納められる内部は薄いブルーである。ストレッチャーの操作により内部の台に設置され、扉は閉ざされた。

扉を開けて立ち会うのは喪主とその二人の娘、主人と義弟のみで、私達の目の前に運ばれてきたお骨は頭部、上半身、下半身に分けられていた。義歯ではなかったという歯は隅に行儀良く並んでいた。お骨は骨太で真っ白で奇麗だった。しっかりと残ったお骨は骨壷に入りきれず、白木の杭の様なもので砕かれた。バリバリと3度ばかり繰り返され、無事大きな骨壺に収まった。

義兄の旅立ちを見届けて、私達は義弟と共に関西に帰ってきた。
コメント
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