非国民通信

ノーモア・コイズミ

王冠が見えないだけだ

2009-04-11 22:42:08 | 非国民通信社社説

 文学史上では、勧善懲悪からの脱却が近代化の一つの節目として扱われます。勧善懲悪の時代であれば、「悪い奴」をやっつけてめでたしめでたし、それが物語の主流でした。しかるに人間の住む世の中はそう単純ではない、その単純ではない世界を描き始めたのが文学史上における近代なのです。とはいえ、これは狭い文学界の話、文学とは無縁な社会に生きる人々の世界認識はどうでしょうか?

 残念ながら、少なくとも日本の場合は今なお勧善懲悪の世界から一歩たりとも抜け出すことが出来ていないようです。世の中が上手く行かないのは、どこかに「悪い奴」がいるからだ、「悪い奴」をやっつければ、この社会は良くなる、そんな幻想が何ら疑われることもなく蔓延っています。

 往々にして「悪い奴」の役割を担わされるのは、トップではなくその手前にいる人々です。皇帝は正しい意思を持って民衆を導こうとしているが、皇帝を取り巻く貴族達の悪意によって政治が歪められている――こうした世界観は「ツァリズム」と呼ばれ、教科書レベルでは20世紀初頭までのロシアに特徴的な心理として紹介されるわけですが、同様の事例は現代でもロシア以外でも簡単に見つかります。日本の右派がその後ろ姿を追いかけることに熱心な中国でも「“皇帝の善政”を待ち望む大衆心理は強い」ようですし(参考)、もちろん現代の日本でも同様、小倉秀夫氏は「君側の奸」症候群という言葉でそれを語っています。

 邪な大臣が政治の実権を握り、王様は操り人形、国民は圧政に苦しむ――これだけ見ればお伽噺の世界設定と感じるかも知れませんが、ちょっと単語を入れ替えれば日本人の世界観と変わらないことがわかります。言うまでもなく、ここで「悪い奴」の役を負わされるのは「官僚」であり「公務員」です。官僚が政治の実権を握っている、官僚が日本を支配している、官僚のせいで政治が機能していない、ゆえに日本社会が停滞している――そう信じ切っている人はいくらでもいるでしょう? だから、官僚と戦わなければならない、官僚のクビを切らなければならない、そうすることで政治を「官僚の手から」「国民の手へ」「取り戻す」必要があると、そう自民党も民主党も口を揃えて説くわけです。

 実際問題として、官僚と行政が対立しているようには見えないのですけれどね。行政が「国民のため」の政治を志しているのに官僚がそれを阻んだ、なんてケースがどれだけあるというのでしょうか。むしろ、官僚機構は行政の意図に忠実であり、それだからこそ問題があるようにすら感じられます。官僚機構の果たした結果が国民のためにならなかったとしても、それが官僚の独断で行われたことかと問えば大間違い、あくまで官僚機構は行政の方針に沿って行動しただけ、行政の示した大方針が誤っているから、その大方針に従って細部を詰めた結果も然りなのです。行政の指示に背いて官僚が暴走して~という世界観は、政治を免責する意識があまりにも強いような気がします。

 そもそも、「実権を握る悪の大臣」=「官僚」、「傀儡化された善なる君主」=「改革を訴える政治家」という図式が誤りなのかもしれません。勧善懲悪の世界観を適用するにしても、その善と悪の役柄を担わせる相手を取り違えているのではないでしょうか。私には思われるのですが、この場合に「悪の大臣」を務めているのは政治家であり御用学者であり経済誌であり、そして「傀儡化された君主」であるのは、実は国民なのではないかと。惰弱な暗君が宦官達の専横を許しているとするなら、そこに当て嵌められるべきは「政治家」と「官僚」ではなく、「国民」と「政治家」ではないでしょうか?

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 「騙された」という言葉を私は使いません。とりわけ政治的な判断を巡る場面においては。代りに「信じた」と書きます。「騙された」と言えば、その人を被害者として扱い、その人の加害者としての側面を意識の外に遠ざけることになりますから。付け加えるなら、そこまで巧妙な「騙し」が行われたわけでもありませんし。その気になれば、偽りに気付くことは出来た、それでも「騙される」ことを選んだとしたら――それは「信じた」と表記した方が適切でしょう。

 「あの時『(郵政民営化関連法案に)4分社化(が盛り込まれていると)知ってましたか』と言われたら、知ってる人はほとんどいなかった」「(民営化の)内容を詳しく知っていた方はほとんどいなかった」今年の2月、麻生首相はこう語りました(参考)。確かに、そうなのでしょう。問題は「知っていない」にも関わらず支持を集めたこと、その無理解に基づく支持を背景にした政治が続いてきたことです。支持を得ていると称しつつ、その支持は誤解に基づくもの――これを放置しても良いのでしょうか?

 責任ある政治を目指すなら、これを潔しとすべきではありません。国民は(党の政策を)理解していないが、結果的に自分達を支持しているのであれば問題ない、それでいいのでしょうか。そうではなく、国民が理解するように訴えていくこと、理解した上での支持を呼びかけ、理解していないようであれば理解されるまで説明していくこと、このような選択も有り得たはずです。しかし、最大多数の支持を得た政府与党は理解/無理解を問うことはしませんでした。そして無理解に基づく支持を背景に、自党の政策を「国民の声」と称して押し通してきたわけです。

 もしかしたら、「責任ある」政党/政治家よりも、無責任なタイプの方が好まれるのかも知れません。この場合に「責任」を果たそうとするなら、有権者に対して「理解していない」という事実を突きつけることになるわけですから。それは傲れる大衆の自尊心を大いに傷つけるのではないでしょうか? とりわけ政治的な場合においては自分の判断に疑いを持つ人は少ないような気がします(有権者の判断は正しい、とするのが民主主義の前提ですから。だからこそ民意を楯にした暴論の正当化が行われる、「自分には府民の支持がある」なんてのがごり押しに使われるわけですし、「それは有権者の選択が誤っているからだ」と言い切る政治家などいないわけでもあります)。誰もが正しい判断を下しているつもりなのに、そこに水を差されたらどう思うでしょうか。それが対立政党からの声であるならば黙殺するだけかも知れませんが、自らが支持する政党から誤解を指摘されたとしたら?

 反対に、有権者の無理解を指摘しない、有権者の誤解に同調する政党/政治家は国民に自己肯定感を与えます。肯定的な部分も否定的な部分も全て承知した上での支持か、それとも単なる無知からくる淡い期待か、あるいは全くの誤解に基づく儚い期待か、いずれであっても自党を支持していれば全て歓迎、「君の判断は正しい」と政党/政治家が背中を押してくれるわけです。こうして自らの支持する政党/政治家からお墨付きをもらった有権者は「我々はものがわかっている!」と感じるでしょう(民意は正しいが、「官僚」「役人」は馬鹿ばっかりだと、そう確信している人であれば尚更です)。かくして小泉なり橋下なり、理解ではなく支持を求めるポピュリストが台頭したのかもしれません。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 君主の寵愛を受けて実権を握った佞臣が「わが言葉は皇帝陛下の言葉と思え」とライバルや部下を脅しつける、歴史物だったら珍しくない、典型的な悪役像ですね。しかるに、現代日本はどうでしょうか? 「私の声は有権者の声である」とばかりに語る政治家はいくらでも思い当たります。こういう連中を野放しにしていると、まさに国が乱れるわけですが、どうにも我が世の春を満喫しているかに見えます。暗君は媚びへつらう佞臣を好むのでしょう。耳に痛い言葉で主君を諫めるような人材は遠ざけられ、代りに主君を褒め称え、肯定してくれるような「おべっか使い」を重用するのです。そうしている限り、自分が否定されることはない、己が無知と偏見に向き合うことから逃げ続けられますから。

 佞臣たちは政治の実権を掌握し、国政をズタズタにするかも知れません。しかし、主君がその責めを負うことはないのです。なぜなら、主君を諫めれば権力を失うからであり、佞臣たちは自らの地位を守るべく、問題の責任を主君ではなく他の何かに求めるからです。「陛下、官僚どもが抵抗するための陛下の御威光が届き渡っておりません。私に権限を与えてくだされば、官僚どもを一掃してご覧に入れます」と、このように佞臣たちは有権者に説きます。佞臣は本当のことを言わない、主君が喜びそうなことを囁くだけ、そして12歳にして即位した暗君たちは、その責が己にあることを自覚しないまま、媚びる政治家達に票を投じるのです。

 

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6 コメント

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Unknown (srn)
2009-04-11 23:05:11
民主・小沢万歳・国策捜査主張への見事なカウンターかと思います。
ただこうなってくると中道の無意味さという事が厳しいですね。
誰を攻撃するのも間違っているなら正しい選択はないのでしょうか。
20年前のアニメに「全ての民衆に英知を与えて見せろ」(詳細忘れましたが)とかありましたが、それが実現しないと民主主義が成り立たないと言うのは悲しいですね。
現実、私には次の衆院選の投票にで自民か、民主か、共産かを選ぶしかないようなのですが…
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水戸黄門 (Bill McCreary)
2009-04-12 11:42:21
が日本で伝統的に好まれているのと同じ気風でしょうね。水戸光圀は、いわゆる現場系の役人を糾弾しますが、現実には先日の麻生氏にしても石原にしても率先してしゃーないことを一生懸命やっているという毎度おなじみの構図です。

国鉄分割民営化しかり郵政民営化しかりです。前者なんて組合つぶしと赤字の強引な転記と膨大な国有財産の火事場泥棒的払い下げでしかないのですが、頭の悪い国民が騙された-失礼、信じたわけですよね。国鉄職員の「優遇」とかを。

はてはて、私たちが死ぬころには少しは改善されていますかね。あんまり期待はしていません。

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Unknown (非国民通信管理人)
2009-04-12 14:40:09
>srnさん

 どちらかというとこっちのエントリ向けのコメントでしょうかね。
http://blog.goo.ne.jp/rebellion_2006/e/487bdcf9dece973ba5723d2131c110cf

 まぁ誰を攻撃するのも間違っている~と言うわけではなく、誰を非難する/擁護するにせよ、間違った方法、筋違いなやり方があるわけです。ただそれが、ある人のためであればそれが正しく、別の人であれば誤りとするような、そうしたダブルスタンダードを自民党や小泉、橋下などの支持層だけではなく、少なからぬ民主/小沢支持層が披露している辺りは憂慮されるべきと思うのです。

>Bill McCrearyさん

 「悪者」を糾弾する側に回れば、反対に自分をヒーローの側に置くことが出来ますから。そうなるといかに相手を「悪者」にするか、そして勧善懲悪の物語にいかに観客を引き込むか、という方向に政治が傾斜してしまうのかも知れません。ともすると国民は「観客」として自分には責任のないものと思いこみがちですが、でもフィクション視聴者や読者がそこに没入するからこそ成り立つのであって、決して舞台の上の出演者だけで行われているものでもないと思うのですよね。
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前回のお話の一部繰り返しますが。 (GX)
2009-04-12 20:19:18
 >勧善懲悪の世界観を適用するにしても、その善と悪の役柄を担わせる相手を取り違えているのではないでしょうか。
 非国民さんのあてはめに加えて、正義のヒーローとして位置づけられるべきなのは、湯浅氏のような貧困者のために立ち上がる者、国民のことを考えてくれる政治家(小泉前総理や橋下知事のような「改革者」ではなく、ネット右翼から「売国政治家」と認定されるような。)、自分たちの権利を守るために抗議活動をする者たちなどだと思うのですが、これらの人々は「日本の敵」とされますね。国はあくまで国民のためを思って官僚叩き等をやってくれていると信じられているので、当然ですが。
 ちなみに、「勧善懲悪」のヒーロー物でも、その形態をとりつつも、自分たちを「絶対的な善」として位置づけることを疑問視する話は昔から多かったりするのですが、(初代ウルトラマンもこういうエピソードがあることも、評価を上げている要因。)このような話を見逃しているか、あるいは現実にも当てはめる気はないのでしょうかね?
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初めまして (悲愛国)
2009-04-12 22:45:21
こんばんは。いつも深い内容の記事に感嘆しています。正直言うと、やっかんでいました。自分の無能さを思い知らされる感じがして。でも最近は素直に読む事が出来始めています。ぼくは貴兄のような記事は書けません。ちょっと口惜しいですが、これからは貴兄のブログの愛読者として付き合せて下さい。
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Unknown (非国民通信管理人)
2009-04-12 23:55:49
>GXさん

 必ずしも勧善懲悪になりきれない、「絶対的な善」とはなりえない姿が描かれていても、子供には特撮の方ばかりが印象に残ってしまうのかも知れません。今になって「こういうエピソードがあった」と聞くと、時に唸らされるものもあるように感じるのですが、たいていの人はそこを通り過ぎてしまうのでしょうね。

>悲愛国さん

 恐縮です。不得手な部分も多く偏りはあるかと思いますが、宜しくお願いします。
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