極刑求め、署名呼び掛け=無念を晴らしたいと母-HP開設、女性拉致殺害・名古屋 (時事通信)
名古屋市の契約社員磯谷利恵さん(31)が拉致された上、殺害された事件で、磯谷さんの母富美子さん(56)ら遺族は22日までに、強盗殺人などの容疑で再逮捕された無職川岸健治容疑者(40)ら3人の極刑を求め、ホームページ(HP)を立ち上げた。
富美子さんら遺族はHPで「利恵にしてやれることはこれくらいしか思い付きません」と言及。「敵を討ちたいと思っても、司法の壁に阻まれ苦悩しています。この壁を乗り越えるためにも、1人でも多い署名が必要です」と記し、3容疑者の極刑を求める陳情書への署名を訴えている。
手記の抜粋も公表し、「泣き明かすだけの弱い母では利恵も心配すると思い、一生懸命我慢していますが、つい利恵を思い涙が止まらなくなります」と悲しみを吐露。その一方で「何の関係も落ち度もない人に、これほどの行為ができるのでしょうか。凶悪犯罪を二度と繰り返させないためにも、協力をお願いします」とつづっている。
政治家でも企業経営者でもない人を個人として取り上げることは基本的にしないのですが、いくら何でもこれはどうかと言うことで、いくつか私の見解を述べようかと思います。まぁ、個人とは言っても昨今では良くも悪くもありがちな姿であり、個人の問題と言うよりも社会や世相の問題でもあるわけですが。
しばしば、権力よりも民衆の方が、そのヒステリックな性情故に危険な存在になることもあります。かつてドイツではゲシュタポが人員不足で調査能力を欠くのを良いことに、虚偽に基づく密告や讒訴が横行し、これによって数知れない無辜の人が処刑されていきました。あるいは日本でも関東大震災の混乱に乗じて何の罪もない人を民間人が自発的に虐殺して回ったこともありました。何の関係も落ち度もない人に、どうしてこれほどの行為ができたのか、私だったらその時点で疑問に思いますね。
そこで今回の場合ですが、「壁」として名指しされているのが司法であるところに注目してください。その主張するところは司法が「壁」として立ちはだかっている、我々の「敵討ち」を司法が阻んでいると、そのように司法を否定するものです。もちろん日本の司法にも問題は少なくないのですが、だからと言ってそれは乗り越えられるべき「壁」なのでしょうか? 司法を無視して私的な判断で人を殺めようという発想は、少なくとも法治国家においては危険視されるべきものです。
まぁ、被害者の悲しみは想像に余りあるわけで、それ故に感情的になるのも致し方ない、敵意ばかりが勝ることにも同情の余地はあると思うのですが、問題はそれを取り巻く我々が被害者にどう向き合うかにあります。我々は被害者のために何ができるのか、何をすべきなのか、その辺りを誤っている人が多いのではないでしょうか。ただ被害者の主張に「乗る」事が被害者のためなのか、被害者の怒りの声に便乗していればそれが被害者のためになるのか、その辺をもう少し考えて欲しいのです。
被害者が復讐心を持つのはどこでも当たり前のことで、日本とは全く異なった文化圏でも同じ事、例えばイスラム諸国でも家族を殺された遺族が爆弾を体に巻き付けて「敵討ち」をしたり、あるいは他人に訴えて「敵討ち」を実行させているわけです。とは言え、「敵討ち」を果たしたところで遺族が元の幸せを取り戻せるものでもありませんし、被害者が戻ってくるものでもありません。
今回の事件も同様で、犯人が極刑になろうがなるまいが被害者はもう戻ってきません。犯人をどのように罰したところで、もう取り返しは付かないのです。「無念を晴らしたい」と遺族は語ります。もしかしたら極刑によって遺族の無念は晴れるのかも知れませんが、それで問題は解決するのでしょうか?
遺族の復讐勘定を満たしてやることが、遺族への救済なり回復なりに結びつくのか、遺族と一緒になって犯人への憎悪を煽り立てることが本当に遺族にとってプラスになるのか、その辺はロクに考えられていないような気がします。「被害者の側に立って~」などと口にしつつも、実際は他人を罰することにばかり熱心で被害者や遺族のことなど顧みていないとしたら愚かなことです。あるいは、本当は他人を血祭りに上げたいだけなのに、被害者感情に便乗することでその欲望をあたかも義憤であるかのごとく装おうとする、被害者の悲しみをリンチに参加するための大義名分として利用しているだけだとしたら、それは卑劣なことです。
あなたが馬鹿であることには完全に同意しますが、最期の一言には同意できません。私を笑わせるにはその程度の馬鹿さ加減では足りませんので。
法と裁判所という第三者機関で刑罰を下す意味がなくなってしまう。衝動的な
怒りで重刑を求める被害者・遺族と、その怒りに便乗する事件とは無関係の人
達が奇異に見えるって言いたいんでしょ?
私もそこまでは賛成です。司法・裁判所には悲惨な被害を受けた原告にとっ
ても冷血に見えるくらいの第三者的判断が求められると思っています。
でも凶悪犯の量刑に関してあなた及びあなたと同様の意見を表明しているブ
ロガーと、前述した類の人達とのコメント欄での言い争いを読むとどっちもど
っちに見えます。前述した司法の第三者性を理解しようとしない感情的な重刑
要求者と、「頭と心が別個に動き、理屈が理解できても気持ちが収まらないこ
とがいくらでも起きる人心の不条理」を無視して自分の理性的理屈に同調しな
い他人をバカ呼ばわりするあなた達。私のようなバカはあなた達は個人的かつ
衝動的な怒り・恨みを冷徹に滅することが常にできて、理不尽な仕打ちに対し
て悲しみしか感じない高尚な精神の持ち主なのかといぶかります。
どちらにせよこの問題における言い争いは第三者どうしで「私はおまえらみ
たいなバカとは違うんだ」と威張りあっているだけですね。バカな私にはどち
らの側にもつけません。どうせあなたはまたバカが釣れたって勝ち誇るコメン
トをつけるんでしょ? せいぜい笑ってくださいな。
事件とは何の繋がりもない人が、聞きかじった情報だけで、もっともらしく憤って見せては大っぴらに私刑を要求する風潮に不気味なモノを感じるわけですが、もしかしたら周囲の流行や熱狂に乗じているだけで本当は何も感じていないのではないかとも思います。悩める同級生さんのように事件に他人事ではない繋がりがあって、そして真剣に考えたのであればもっと違った考えたかも出てくるはずではないかな、と。
子供の欲しいモノを全て与える、何でも子供の言うことを聞いてやる、そういう親がいい親ではありませんし、たぶん子供にとっても良いことではないわけです。遺族の悲しみや、そこから出てくる犯人を死刑にしたいという思いは理解できないでもありませんが、それを叶えてやることが遺族にとって本当に最良なのかどうか、遺族の希望に添って死刑を要求することが本当に遺族を思ってのことなのか、私にはそういう疑問があってこのエントリを書きました。ただ遺族の訴えに乗るだけではなく、もっと他に被害者や遺族のためにできることを考えた悩める同級生さんは間違っていないと思います。
あの事件は被害者の名前が報道される前から心配していました。現場が学区内であり年齢が同じだった為。翌日、最悪の事態を知ることになりました。
ニュース等で報道されている通り、彼女はおとなしく控えめで、いつもニコニコしている穏やかな子でした。特別仲がよかったわけではありませんが、同じ時間を共有したクラスメイトとして、私の記憶にはしっかり残っています。
なのでこの事件は「他人事と思えない」と言うだけのやはりどこか他人事であるようなレベルではなく、痛烈にショッキングな事件であり、その後何日も私の記憶の中の彼女のこと、その後の彼女の生きてきた時間のこと、事件さえなければ続いたであろう彼女の人生、そして殺されていく彼女の恐怖や無念さを思いました。
私は決して犯人を許しません。
前置きが長くなりました。
昨日、同じく同級生の友人から、署名活動に協力してもらえないかと連絡がありました。活動のことはニュースで何度も見ていたので知っていましたが、そのことに違和感を感じてもいました。
その違和感が何なのか自分でもよくわからず、とにかく何か違うように感じていたのですが…
友人の協力依頼とは、私自身に周りの人から署名を集めて欲しいというものでした。それは簡単には引き受けられない、と断り、自分の分については直接ご家族の方へ届けるようにすると伝えました。
署名活動に対する違和感が何なのかが気になり、ヒントはないかとネットを見ていたのですが、見ず知らずの方が署名活動に積極的に協力されているブログや、それに対する「私も署名します」という声ばかりが目に付き、自分が考えすぎなのだろうか、それが彼女にしてやれることなのだろうか、と、自問していたところ、こちらのサイトにたどり着きました。
非国民…なんでしょうかね。
私も管理人さまのご意見の方が、すんなり受け入れられました。あんな自分勝手な最低な人間の肩を持つ気はさらさらないです。死刑にならないのだとしたらその法律に腹が立ちます。でも、その面だけを見て論じるのは、何か違うと思いました。被害者のかつての一同級生として犯人を糾弾することはできますが、それは無責任でもいいと思っているからできるだけで。。
もし「署名を」と求められたら、多くの人は署名してくれるように思います。どう見ても彼女に非はなく、犯人は残虐非道です。でも、その気持ちだけで署名してしまっていいのか、署名を求めていいのか、悩んでいました。
娘の為に何かしないではいられないお母様やご遺族の方を責めることはできません。でも、絶対に正しいと思えない以上、私自身は他の人にまで署名を求めることはできないと改めて思いました。
こんな自分が、ときに人間らしい感情が欠落しているのかなと思うこともあります。が、こちらのご意見を拝見させていただき、こういう人間もいていいのだという気持ちになりました。
長文になりました。
ありがとうございました。
タイトル云々を言う以前に、本文の内容とも上の主立ったコメントの内容ともずれているので答えようがありませんね。遺族の復讐感情もさることながら、それに便乗して他人の死を要求する人々、他人の死を求めることを正当化しようとするあなたのような人こそが危険なのですよ。
俺はそれがおかしいと思ったから署名しただけ。別に殺すのに加担をするつもりも無い。今回の事件を通して法が少しでも良い方向に変わればと思っただけ。死刑自体賛成はしていない。致死じゃない。最初から殺すつもりで顔を隠す事もせず殺してるんだ。皆さん難しい事並べて生温い事言うてますね。情勢の歪み、彼らが低所得?そんな事は原因じゃないでしょ?奴らは少しでも所得を増やす為の努力をしてない。ヒモ、ギャンブル狂借金苦、元暴力団。世の中には低所得が大半じゃないのか?それでも人様に迷惑かけずに生きてる人が殆どじゃないのか?
あなた方の身に振りかかって来てそんな生温い事言うてられますか?
私自身、現行の政府や司法には非常に懐疑的なのですが、とは言え昨今の私的な判断で人を罰しようとする風潮には強い危惧を感じています。
やはり被害者の心痛を思えば、被害者が厳罰を求めたり復讐感情に駆られたり、そういうところは致し方ないのでしょうけれど、周りがそれを煽るのであれば、警鐘を鳴らす必要があるのではないかとも感じますね。
動菌と申します。
いつも興味深く拝見させていただいております。
皆さんの主張されるように、民衆の暴走が危険であるということはよくわかります。が、政府や司法ははたしてどの程度民意に適ったものなのでしょうか。悪法もまた法なりと申しますが、法治主義に陥ってしまう危険性もまた脅威ではないでしょうか。まぁこのての問題は私と公というかそのあたりのバランスの取り方が問題になるのでしょうが。
私はこの母親の心情には同情できますし、自分に置き換えてみれば私も同じことをしたかもしれません。 むしろ問題はこういった運動に署名してしまう人々のように思えます。間接的ながらも、当事者ですらない彼らは殺人に加担しているわけです。自らはほとんど何のリスクも負わず、高みの見物というわけでしょうか。まぁこのあたりは突き詰めてしまえば死刑制度自体の問題でしょうが…いっそ決闘権を法的に認めてしまえばなどと(以下略)
まだ勉強中の身ですが、これからも精進いたします。
拉致被害者家族会や光市の事件の木村さんなど、どうもある種の思惑を持った人によって担がれている印象があります。この事件でも同様に被害者の遺族である母親が周りに担がれる形でいつまでも憎悪の炎を燃やし続ける、そんな可能性もありそうで、それはたぶん遺族である母親にとっても不幸なことなのではないかと。遺族が感情的になるのは仕方のないこと、当たり前のこととしても、それを周囲が煽り立てる風潮は本当に危険だと思います。
>小野哲さん
他人の幸福を願うならいざ知らず、他人の死を求めて嘆願が集められる、ましてやそれが聞き入れられるとしたらそれは恐ろしいことですよね。犯人のやったことは許されないことでしょうけれど、だからと言って法の定めるところを無視してでも罰しようとするなら、それはもう法治国家ではないわけですから。
今回の事件は明らかにひどいのは明白ですが、司法国家にふさわしいとはいえない極刑嘆願は絶対に容認できません。
どんなに考えたとしても、絶対的終身懲役刑が現実的ですね。僕自身ブログで今回の事件に関連して厳しく大衆の暴走を批判しています。なんだか危険な動きですね。
この女性が、さらに傷つくようなことがなければいいのですが。
なお、私見では、この女性が犯人たちに極刑を求めるのは、仕方ないかなとは思いますが、マスコミがそれを喜々として(と、私には見えます)報道するのは良くありませんね。どんな人間のクズであろうと、死刑などという刑罰をマスコミが煽る(と、私には見えます)のは、最低の倫理に反します。
こちらをご覧になっているか分かりませんが、頂いたコメント(非公開)に対して返答いたします。
このブログでは原則的にコメントは削除いたしませんが。ただし「気に入らないコメントは削除するようにお勧めいたします」とのお言葉ですので、今後はドコモダケさんからのコメントに限り、心底くだらないと判断した場合はコメントを削除させていただきます。悪しからず御了承下さい。
たぶん、犯人を恨みに思う遺族の気持ちは昔から変わらないと思います。ただ、たとえ犯人が相手といえど、おおっぴらに他人の死を望むことはよくないことだと、そんな建前もあったのではないかと思います。今はタガが外れたと言いますか、逆に堂々と人の死を訴えている、それがあたかも正義であるかのように語られがちで、そんな風潮には危うさを感じるのです。
このように被害者が加害者の極刑を望む事をはっきりと表明するようになったのはいつ頃からなのだろうかと、近頃考えます。最近とみに目立つようになったと感じるのですが、人の考え方が変わったのか、昔からそうだったのか、以前は報道がこうした事を伝えなかっただけなのか。何しろ複雑な思いです。
と、言うのも、私自身は管理人さまと全く同様に考えるからです。しかし、今の時代、その考え方はおかしいと、あっさり否定されてしまう雰囲気を強く感じます。果たして本当にこの考えの方が間違いだったのでしょうか。
復讐したいという気持ちは大いに分かります。しかし、それをかなえてはいけないのが現代社会だったと思うのです。重い罰は当然、しかし復讐としてそれが適用されてはいけないというのが。
もし罪の軽重ではなく署名の数によって刑が重くなったりするとしたら、ワイドショー政治ならぬワイドショー裁判時代の始まりでしょうか。それはやはりリンチの発想に近い、前近代への後退に見えるのですが、どうにも良からぬ方向へ進んでいますね……
>Unknownさん
極論すれば「殺してはいけない人」と「殺していい人」に分断されているのかも知れませんね。殺人に強く憤る人ほどむしろ執拗に加害者を殺せと主張しているわけですが、これはある命を大きく評価する一方で、別の命を軽んじているとも言えそうです。
>tatu99さん
文中にもあるとおり、被害者の遺族が復讐の感情を持つのはイラクでもパレスチナでも、アメリカでもイラクでも似たようなものであって「日本人の心」というのには普遍性がありすぎるかと。「日本人の」と付けるならばやはり衆道のように他の文化圏に抜きんでたものに対してでないとしっくり来ないでしょう。ともあれ裁判ではその事実認定を争っているわけですが、昨今では一方の側に肩入れするあまり加害者側の主張が「くだらない論争」と初めから退けられているところに問題がある気もしますけれど。
>非国民2さん
世間の注目と同情を集める事件もあれば、逆に世間から全く相手にされない事件もあります。犯した罪は同じでも、話題性の高い事件となると世論に押されて罪が重くなるようでは不公正ですよね。どうも加害者と被害者の綱引きと言いますか、加害者を罰すれば罰しただけ被害者にとってプラスであるかのような錯覚が多いですが、犯人への罰と被害者の救済は別のものとして切り離して考えることが必要な気がします。
>ドコモダケさん
“罪ある者を探すなら、目の前の鏡を見よ。”ですね。真ん中の辺りで「具体的な例」と仰いますが、ならば鏡を見ることをお勧めします。それを直視できるかどうかは知りませんが。
当然ですよ。それは、今さら言うことではありません
それを踏まえた上で幸せを壊したのはその加害者達だということを忘れてませんか?!
>今回の事件も同様で、犯人が極刑になろうがなるまいが被害者はもう戻ってきません。犯人をどのように罰したところで、もう取り返しは付かないのです
だから、取り返しのつかない事をしたのは犯人だってば・・・
全体を読ませていただいて一番、不快に思ったのは最後の段落ですね。
>遺族の復讐勘定を満たしてやることが、遺族への救済なり回復なりに結びつくのか、遺族と一緒になって犯人への憎悪を煽り立てることが本当に遺族にとってプラスになるのか、その辺はロクに考えられていないような気がします。
復讐感情を満たす?なんか言い方おかしくないですか?一緒になって憎悪する?遺族にとってプラスになるかどうか?憎悪を煽り立てる?考えられてない?
>あるいは、本当は他人を血祭りに上げたいだけなのに、被害者感情に便乗することでその欲望をあたかも義憤であるかのごとく装おうとする、被害者の悲しみをリンチに参加するための大義名分として利用しているだけだとしたら、それは卑劣なことです。
えっと・・・
全て、具体的な例があるならお教え下さい・・・
たとえ話をするのはいいが酷すぎるよ・・・
今までの記事の中で最悪・・・
記事より抜粋・・・
>その一方で「何の関係も落ち度もない人に、これほどの行為ができるのでしょうか。凶悪犯罪を二度と繰り返させないためにも、協力をお願いします」とつづっている。
こんな事件、二度といやだよね。
この種の事件が繰り返される=この母親の心の傷口に塩を塗る ってことだもの・・・
厳罰化に諸手をあげて賛成というわけでもありません
凶悪犯の中にも島秋人のように真の人間性に目覚めた人もいます。彼が生きていたら、多くの殺人犯が殺人を思いとどまっていたのではないかと思います。
>司法を無視して私的な判断で人を殺めようという発想は、少なくとも法治国家においては危険視されるべきものです。
司法は万能ではありません。
福岡で起きた飲酒運転による追突で三人のお子さんが亡くなりました。それによって飲酒運転の厳罰化が進んだ訳です。
人の心にそうような形にもっと司法は変化するべきです。第二の事件を第二の島秋人の死刑執行を生まない
ために・・・
どうも、裁判をめぐる報道がが感情に流されているのではないだろうか?と・・・。
「悪いことは悪い」というのは、当然ですし、それ相当の処罰を受けるのが当然だと思います。
問題は、同じ犯罪を犯したとして、署名を集めたり、テレビに出たりして、遺族が重罪を求めれば、刑が重くなるのかということです。
日本は言うまでもなく、罪刑法定主義の国であり、法律によって、犯罪の内容や刑罰はおおよそ決められています。
そして、多くの判例によって、刑罰の重さが決められています。もちろん、被害者のつらい思いを受け止めて、救済をしていく必要はあると思いますが、それと刑罰の重軽とは、分けて考えるべきものだと思います。
あくまでも、確かな捜査と証拠に基づき、「犯罪に応じた刑罰」を受けるという原則を簡単に変えてはならないと思います。
「被害者がかわいそうだから、犯人を死刑にしてしまえ」という考え方は、どうか?ということです。
司法判断で気ままな刑罰、刑法ではなんとなく最高刑が規定されているだけ、しかも重罪ほど一審で決着せず、ずるずると弁護団が引き延ばす現状では遺族の哀しみが引き摺られます。
裁判の過程で殺意の有無、被告の生い立ちなどくだらない論争ではますます遺族の怒りが倍化します。
殺人事件が死刑もしくは終身刑でほぼ判決が予想されるなら、あえて極刑を求める賛同は必要もありません。
司法制度(裁判)では犯罪事実の認定が本来の任務です、現状では量刑について裁判所の判断余地が大きすぎる、刑法の見直しで量刑範囲を厳密にして、再審で量刑が変わらない(事実認定以外の再審は無駄)刑法改正こそを議論すべきです。
いつも拝読させていただいております。
的を射た文章、たいへん有意義です。
さて
日本の司法制度、法体系、また遵法意識などには様々な問題があることはいうまでもありません。日本には社会契約的な考え方は存在しておらず、「超法規的措置」などということを軽々しく口にする政治家は現在でも存在しています。
お書きになっている内容のことを「リンチ」というのでしょうが、これは、かつてのアメリカでKKKなどによって行われてきたことと同じ範疇だと思います。
アメリカは現在刑務所が満員であり、パリス=ヒルトンなどのようなこともしばしばあるようです。
犯罪発生が少ない地域というのはどのような地域なのか、これを社会学的に研究することが求められることではないかと思います。
私見ですが、犯罪は社会が分断化される過程で増加してゆき、「慣れ」によって、常態化してゆくのだと思います。この国では、かつては殺人事件は「大事件」であり、殺人事件が起きれば報道はそれ一色になりました。
その状態が変化し、命の価値が減少し、今のように命が軽い扱いを受けるようになったのは、小泉時代からです。
ゲシュタポの例を書かれていらっしゃいますが、絶叫型の政治家が登場し、国民がのめり込んでゆく構図は強度のストレス社会を生みます。常に攻撃するためのターゲットを探し、生け贄の羊を殺し続ける社会だからです。ヒトラー時代のドイツではユダヤ人、身体しょうがい者などがそのターゲットとなり、小泉以降の日本では老人としょうがい者そして収入の低い人たちです。ぴったりその構図は重なりますし、この現象には普遍性があると思います。
今回の事件は、来年から始まる被害者求刑制度が適用され、遺族の方も法廷で主張できるはず。署名の数などに意味を持たせて欲しくはないと思います。「遺族の気持ち」云々と云われそうですが、遺族の方の気持ちに沿うより、近代法治国家の体をなしていることの方が大切です。