lens, align.

Lang ist Die Zeit, es ereignet sich aber Das Wahre.

lean on sign.

2015-01-19 19:39:27 | 日記・エッセイ・コラム
人の共有する価値観を決定する尺度(「測度」と言って良いかもしれない)は、客観という名の、他人と交換可能な主観評価のインタラクションと、それによって記述・改訂されるコンテクストの参照の反復である。しかし、人が経験によって語りうることの蓋然性と真理を担保するものは定義できない。

どのようなネットワークにおいてもノード間は一対一で連結しているように、主観は遍在にして一つである。対話は恒にpeer to peerでしかない。次に考えるのは時間という測度だ。人の一生が100年程度であるとして、人の思考や評価測度の論理的蓋然性を保証するのは、その連結と言えるのか

私は甚だ疑問である。論理的蓋然性はニューラルネットワークにおける信号交換の挙動と同値かもしれない。それは知能に関わらず客観を担保し、コンポジットに個人差はあれど、獣も赤子も老師も哲学者も同じように完成されている。だから言語化され共有される客観的測度は、保存強度と同じ意味を持つ。

人類が一万年後に得た知識と、一万年を生きた1人の智慧にどのような違いがあるのか。そこが要点である。人という種の寿命は蓋然性を持って規定され、それに見合った知能を発現させているのかもしれない。


愛とは何だろう。目の前にいる唯一の交換不可能な存在への憧憬。永遠に孤独で誰にも規定されず、その評価測度を決めるのが私だけのもの。私以外の生きているものへの渇望。私のいないところであり、私のいるところ。

愛や渇望を口にする時、私はそれが衝動であることを知っている。性でありアトラクタであると言語化できる。あることを知っている。それと認められることを知っている。そして共有されうることを知るのである。