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Lang ist Die Zeit, es ereignet sich aber Das Wahre.

クライマーズ・ハイ

2008-07-06 02:50:14 | 映画
Climbershigh


>> http://climbershigh.gyao.jp/


1985年の日航機墜落に翻弄された、架空の地元新聞社の一週間を描く風刺的人間劇。

日航機墜落当時、私はまだ物心がつくずっと前で、知識として知っているだけなのだけど、今の30代以降の年齢の人々にとって、この題材は現代においてもセンセーショナルなのでしょう。親に話を聞くと、寧ろ回顧というよりも未だ生々しい追想として蘇ると言った方が良いのだそうです。その日は空が真っ赤に染まっていたのだとか。


この映画、あまり「映画然」としていないのが印象的でした。原作は未読なのですが、「映像化」とはこういうことを言うのかもしれませんね。ただ、それは原作読者からすれば逆の評価にも成り得るのかもしれませんが。。


物語の体裁を為す上で、主人公がぶつかる「障害」というのが、ある意味、普遍化された社会的、人間的な性質の「負の側面」だけではなく、意地やプライド、本来「良きもの」とされる様々な行動原理、あるいはもっと利己的な欲求まで、多様な人間の織りなす大きなうねりの中で、摩擦し、歪みを広げていく。疑惑と真相を天秤にかけた時、それまで『クライマーズ・ハイ』状態に陥っていた彼の取った選択は・・・。


「真実」と「情報」の差異。「読者」と「事実」の間。新聞という媒体を形成するプロセスにおいて、それらと全く関係のないドグマや確執が絡み合う。それは「新聞であること」の構造的な宿命でした。ただ、遺族も報道も、そして他ならぬ誰よりも、被害者自身が知りたいと思うもの、同じ「真実」という目的を共有しているということ。

520名の生命の尊厳と、記者らの情熱の歯車は、何処か違う次元で回っていて、全く噛み合っていないように映る。しかし、誰もが「自分達が(事実を伝えるという点で)頂に到達しなければ」という志向性を失った時点で、きっと真実は生臭い汚水と成り果てて、私たちの見聞きする目を、耳を、冒してしまうに違いないのです。


劇中では、1985年と2008年の時系列が同期するかのように交互に織り交ぜられていますが、幾つかの出来事を「登山」の経過と対比させていて、事件渦中の折々において、主人公が置かれていた状況を象徴的に示しています。そして最終的には、現代における彼の未来への足がかりを示すのですが。。。


執拗なカット割や、ランダム・パン、アウトフォーカスの使用も、まさに「クライマーズ・ハイ」にある登場人物の高揚感を表現しているようで必然性がありますね。キャスティングもとても良かったです。特に事実上、主人公の踏破すべき壁となる「大久保連赤」の三人は、それぞれお互いに対立しながらキャラクターを引き立て合っています。「敵の敵は味方」と、一筋縄ではいかない所も痛快。

何と言っても映画としての最大の見所は、叱咤し、怒号する役者たちの迫真のぶつかりあい。それが本編中、幾度となく津波のように畳み掛けてくるので、映画としての「ピーク」は、本当にとてつもない険しい波形を為していると言っていいでしょう。あまりに過激なので、観ていてここが映画の「中盤」なのか「クライマックス」なのかを嗅ぎ取る感覚が麻痺してしまいました。


でも、そういう状況の中でこそ、現場を訪れた記者の雑感や、墜落する日航機の中で書かれた遺書を読み上げるシーンにおいて、彼らがふと失われた生命の実在、他でもない魂の叫びに振り返った時、私たちには「彼らも同じなんだ」という共感とともに、激しく心を揺さぶられる瞬間があるのかもしれません。


事故や災害に見舞われた人々を扱う創作には、否定的な意見も当然寄せられるでしょう。しかし、この作品はメディアの振る舞いを描きながら、そういった「人の浅ましさ」を自己言及的に包含しているように見受けられます。


人が情念を持って伝えるメッセージは、死よりも悲劇よりも尚強く忘却に抗う。このテーマにおいて「新聞社の人々」を描くに至った原作者の隻眼に、まずは感服です。