lens, align.

Lang ist Die Zeit, es ereignet sich aber Das Wahre.

earth

2008-01-20 09:20:30 | Science
Rearth

?5 billion years ago an asteroid crashed into the earth. The impact tilted the planet at an angle of 23.5 degrees. This cosmic accident created the world we know today. Using the sun as a guide, we set out on an epic global journey.


□ "earth" (邦題:アース)

>> http://www.loveearth.com/


BBC WORLDWIDE
Germany / UK
90/96min

Director:
Alastair Fothergill
Mark Linfield

>> http://www.imdb.com/title/tt0393597/


漆黒の闇に蒼い輝きを放つバイオスフィア
天空高く聳え雲海を見下ろす岩の塔

灼熱の砂に果てしのない波面を紡ぐ乾きの大地
幾億の意識がたゆたう水の揺り篭
下辺の翼で異空を渡る鯨は神話の船の如く

生命の群体は地表を這う細胞の励起を顕現し
その目の眩むような光と闇の明滅によって
生と死の輪舞を奏でる


地球に息吹く2つの魂。『気候』と『生命』が織りなす共生と拮抗のバランス。最先端の撮影技術とスタッフの気の遠くなるような努力が実現した、地球を俯瞰する『自在な視点』。映像素子がスクリーンに投影する脅威のダイナミズムに何を感受し、如何なる兆しを見せるのか、それらは全て観客に委ねられている。

マーク・リンフィールド監督が語るように、この映画は広告で宣伝されているような環境保護の啓蒙を目的としたお説教映画ではない。カメラが捉えた自然の情景や息吹、匂い立つような効果音、そして「物語としての力」を吹き込む音楽によって、生命の躍動をかつてない臨場感で感じるための映像エンターテイメントである。

誤解が多いが、最後の数カットに挿入される温暖化に起因した幾つかの動物の絶滅危惧のメッセージは、あくまで「これらの光景が見られるのは今が最後かもしれない。」という純粋な、しかし残酷な事実である。劇中に人間や人工物は一切登場しないが、その不在の影がジワジワと忍び寄り、暗に彼らを脅かすものとして捉えられるかどうかは、これもまた受け手次第だろう。(動物名など、最低限必要な学術知識は説明されるが、人間が名而した詳細な地名は敢えて伏されている。)


温暖化要因が人為的なものでないとする説もありますが、IPCC Reportで科学的な手続きを経て得られた認識はあくまで「人為的な二酸化炭素量の増加による温暖化は確からしい」という有力なもの。数少ない反例と、より小さな可能性を持って、昨今騒がれている「温暖化は人為に起因しない自然のサイクルの一部である」とする異説は、両者とも推測結果に過ぎないと言う点において、前者の調査結果についても何ら自身の確証性を担保していない。さらに言うなら、温暖化→寒冷化の巨視的サイクルは確かに存在するが、今、議題に挙がっている「温暖化」が地球環境の必然であるなら何も問題の対象にはならない。(→生存の為の手段と選択という別の問題に変わる)現状において人為的な制御の可能性があるか否かに、様々な問題の根幹が絡むのである。異説の支持者は、これらについて根拠を乏しく責任を放棄しているに等しい。



地球環境、主に「気候」と「生態系」の2軸に関係性を固定した切り口、同監督やスタッフが手掛けている環境映像ドキュメンタリー、"Planet Earth"の拡大再編集版とも位置づけられる今作ですが、撮影対象は十数種類の動植物に絞られた限定的な視点を軸としている他、使い回しと言われてもわからないほど見慣れたシークエンスが目立つため、同シリーズのファンとしては物足りない部分があるのも事実。ただコンセプトとしては、ひたすら超高速度カメラや制振技術を応用した映像美に偏重したもので、"DEEP BLUE"の成功によって証明された、一般大衆における地球環境への関心に訴求する潜在的なポテンシャルは決して低くはありません。

映画館のスクリーンで観て改めて、動物の数々の感情を露呈する豊かな「表情」に驚嘆させられます。シロクマが授乳時に見せる慈愛と安らぎに満ちた眼差し、水場でお互いを牽制しあうライオンの狡智とゾウの警戒心。求愛のダンスの為に、せっせと舞台作りに勤しむ極楽鳥。トボケた様子で氷上を滑るペンギン、飢え死に瀕したシロクマの悟ったような悲哀....人間がそれらにシンパシーを抱くということは、人自身が彼らの中に帰属しうる存在であることを裏付けているようです。


動植物が人の理解を超えた知性を行使する時、「まるで人間みたい」とした印象を抱くのは全く逆転した認識に等しく、人に委ねられた高次元に及ぶ『智慧』がというものが、実は生体群の振る舞いを一様に規定する巨視構造の一部を為しているに過ぎないという側面を顕現しているのだと、私は感じます。生命38億年、いや、宇宙が誕生してからの137億年を経た、あまねく物質の振る舞いと膨大な演算と試行の帰結によって、地球と言う惑星上に各個体、群体間のエネルギー交換が関係性を結ぶ「今」の様相なのです。

こうも言い換えられるかもしれません、「生命と言う形象を借りて顕現する確率的な挙動」。系統発生の過程において記憶された進化の記憶。「空を羽ばたく感覚」、「四肢で地を駆け抜ける感覚」あるいはもっと漠然とした「群れに従い、駆り立てられる衝動」が潜在的無意識において共鳴する感覚。生命は、進化の過程で母なる海を「骨」という形で体内に取り込み、遙かな陸の世界を闊歩した。生命は地球環境から結露した一滴一滴の雫であり、生命は環境を、環境は生命を、お互いの全てを、その身に写している。

人間の生活圏、世界観のみで切り取られる「地球」が如何に矮小なフレームに過ぎなかったのかを、この映画は実際に宇宙から大気を見下ろす光景以上に、私たちの眼前に突きつけてくれるでしょう。



この映画が命を吹き込んだのは、何も生命活動だけではない。ベネズエラのギアナ高地、 「アウヤンテプイ(悪魔の山)」の、落差978mの滝「エンジェルフォール」。自身の風圧で途中で霧に変わってしまうということで有名なスポットですが、通常不可能なアングルから捉えられたショットは、死に近い畏怖さえ覚えさせる程。これほど圧巻のスケールで映し出した映像を他に知りません。また人の畏崇の及ばない力によって茫白たる蜷局を巻き、暗黒の顎を宇宙に向ける台風。雲の一つ一つまで立体感を浮き彫りにする再現力はHD撮影ならでは。そして微速度カメラによって切り出された南極の氷山のダイナミクスとオーロラの演舞は、無意識の彼方にある遠い光景の記憶を目にしているようで涙しました。

斯様にタイムスケールを操作して描き出される、普段はその時間の襞に隠されている自然の様相は心打たれるほど躍動感に満ちていて、例えば奈良県吉野山の千本桜が数十秒で開花~紅葉を迎える様は、正に「もののあはれ」。大昔の詩人たちは、こうして現代人には知り得ない時間感覚で侘び寂びを捉えていたのかもしれませんね。



劇中もっとも迫力を見せつけたのは、補食時に巨躯を捻って空中に躍り出るホオジロザメのジャンプ。同様にハイスピードカメラのスローモーションで描き出される肉食動物の補食シーンもショッキングな感情を喚起させます。それが本能的な共感なのか、演出によるものなのか(anggunによる挿入歌が悲壮感を煽っています。)どちらにせよ、死そのものの描写にはオブラートがかけられているとはいえ、「食べられる側」と「食べる側」の間に敷かれている暗黙の了承、その残酷さの意味に、不気味な寒気を感じずにはいられませんでした。これが飢えた側からの視点だけなら、ホッとするだけの場面なのでしょうけど。。



ここに来て、人間の「映像による情報交換」こそが、現時点において他生命のコミュニーケション手段に準ずる振る舞いであるという自明な事実に一巡して辿り着く。ヴィジュアルによる認知の拡張。形象が紡ぐ物語の力。伝えられた光景に感情移入するということ。まるでヒマラヤの峰を超えるあの渡り鳥のように、私たちは何か連絡をやりとりして、何処かへ辿り着こうしているのではないか。

あの象のように、砂嵐で方向を見失いはぐれてしまった者も居るかもしれない。解けた氷の上に取り残された熊のように、飢えて眠りにつく者が何処かに居るのかもしれない。社会化された通念ではそれとして捉えられない事象かもしれないが、物事は相対的だ。文字通り非人道的に失われる命は限りないし、誰もが、あの象や熊になり得る可能性がある。他種生命の様相であろうと、そこに感情を動かすダイナミクスが働くのは、紛れも無く普遍的な私たち自身の姿を映しているからなのだ。

では、その特性から人間自身にとって有益な住環境である自然を浸食し、文化や生命種としての持続可能性を著しく損なっている我々の業は何だろう。それすら運命付けられ、私は人類が滅びに向かうタイムスケールの縁に偶然産まれて来たのだろうか。否、未然の帰結は存在しない。人には己の習性と群体としての振る舞いを判断し、客観視、制御する力があると私にはまだ信じられる。

そして多くの人間は、他の生命について「弱肉強食」の意味をしばしば誤って用いて来ました。誰かの利益の為に不利益を被る存在を笑うなら、将来、彼のために作られた負債を背負うはずの子孫に泥を塗るのも同じ愚かなことです。子孫が弱者になる関係を目指す種など、淘汰に向かっているのも明らかなのだから。動植物の生命サイクルの全ては、この映画がテーマとしているように、親から子へと受け継がれる絆のバトン(子殺しなどのマイノリティな反応も含めて)と言い換えらるでしょう。しかしそこに何か意味を見出せと言われても、本質は皮を剥がれるほど空虚に帰すだけ。ただそこにある様相に駆り立てられる感情があるのです。


世界を見て、ただ美しいと感じること。
それが最小限の要約を以て投機となるのなら、
この映画の存在価値は十分に見出されるでしょう。



(関連)
>> lens,align.:The IPCC 4th Assessment Report.
>> lens,align.:死の中の生命

Rearth2



□ Mars Lasar / "Karma"

Sacrifice


□ hammock / "kenotic"

the Silence




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