Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

汽車をじっくり見た

2016-08-16 | テクニック
玄関への階段の壁が剥がれていた。そこで修理となる。車検に出かけようとすると、親爺が近寄って来て、工具のために電源が欲しいという。左官屋の親爺の顔を見て親近感を感じた。その笑顔が全く指揮者キリル・ペトレンコの人懐っこいあれだった。アクセントは完全に東欧で、雰囲気からするとロシア系もしくはウクライナ系と推測した。ポーランド人との違いはと考えると、ポーランド人の方がなんとなく大仰なところがある。カトリック系の特徴とは別な素朴な感じのあれである。それがこの親爺はその大仰さが無い。それでも旧教徒的な立ち振る舞いもある。ユダヤ系とまでは思わなかったが、確かにウクライナ人にも近いかもしれない。兎に角、こちらが自然と親近感を持つと向こうも余計に親し気になる。天才指揮者のような小柄でも、黒髪系でも、それほど鷲鼻が目立つわけでもないが、似ているのだ。出かける前から一寸嬉しくなった。

一時間半の車検の間、近くの労働技術館の野外展示の汽車をじっくり見た。二回目だが、塗装などが新たに、より見やすくなっていて、興味が尽きない。一つ一つのパーツがなぜこのようになっているのだろうと考えると尽きないのだ。一度も鉄道ファンになったことはない。一度も本格的な蒸気機関車に乗ったこともなく、精々全面電化された後も引き込み線の停車場で貨物車を前後に動かしていたのを覚えているぐらいだ。少なくとも同級生達の様にそこまで関心を持つ事はなかった。

今回の一番の印象は、その蒸気機関車が1933年まで現役であったという事で、これだけごつい機械が時速162kmで走っていたと思うと恐ろしい。ブレーキシステムや圧系などを見ても驚かされる。百年前には人類の文明というのはこうしたものだったと思うと、感慨深いのだ。既に核物理などが盛んに実用面でも研究されていたかと思うと、蒸気機関車の意味合いが更に深まる。勿論燃料の石炭を有効に使うという事情はあったのだろうが、隔世の感がある。そのように丹念に見ていると一時間ほどは直ぐに過ぎ去ってしまった。

USB延長ケーブル購入のため、送料無料の最低額に合わせてネットショッピングをしていると、最終的に予定とは違うものを発注した。なによりも長さが変わってしまった。現在使っているものが3mと中途半端な長さになっているので、延長を2mにする心算だったが、なにも無理して長いものに中途半端に延長することなく、短いものに長めに延長する方が今後も安心して使いやすいと思ったからだ。要するに標準長が3mでは長過ぎて使い切れないので、1.8mに短くして、延長を3mにした。もしこれで問題なく使えたならば、最大6mまで延ばせて使えるかどうかを実験も可能だ。つまり組み合わせとしては、1.8、3、4.8、6mと全部使うことが出来るかどうか、その差が視聴覚上顕著に出るのか出ないのかを実験すればよい。上手くいけばソファーで仕事しながらもPCオーディオを流せるようになる。

それはそれで良いのだが、仕事のためのモニターも新調しなければいけないかもしれない。最大の理由は、デジタル入力のモニターが無いので、大変使い勝手が悪くなってきていることである。本来ならば今年から始めた夏季のノートブック利用も早めにドッキングステーション化するべきだったのだが、気がつくのが遅すぎた。それでも今後マイクロコムピューターのラズベリーなども使っていきたいので、少なくともセットアップには必要になる。誰かの家に出かけてか、どこかでやって来ても良いのかもしれないが、そろそろ替え時だと思っている。調べると現在使用中のモニターは2001年購入で、アナログ入力だけだ。これでは時代遅れも甚だしく、どうしようもない。



参照:
商品テストの相対的価値 2013-05-16 | 雑感
脅迫観念一杯の列車旅 2007-11-17 | 雑感
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週末はそれなりに色々と

2016-08-15 | 生活
今週は三回走った。一度目は週末の疲れの体解し、二度目は沢を往復、三度目は峠である。走るときは比較的涼しかった。日曜日には、先週の同じころ下りてきたところで出会った夫婦が、先に居て、走り出した。嫁さんは膝までのハイソックスで、二人の一人が腰高の小さなサックを背負っている。殆ど肩についているような形である。見ていると峠攻めの林道を走り出したので、長く見ない爺さんに続いて久しぶりにその林道を走るライヴァルだ。但し走る速度がその爺さん程度だったので、時々見かける走り慣れた奥さんとは大分遅い。奥さんの方は山道も軽快に走っていて、林道も盛んに話しながら並走していたのを見て、可成りの実力だと思っていた。それに比べればこの夫婦らしきは大分遅い。但しサックが気になるのだ。長い距離をゆっくりと走るのだろうか。

準備体操をゆっくりしたので、最低二分以上経過後に走り出したので、途中で後姿を追いかけるようなことはなかった。こちらのスピードも最高記録時からすると一割ほど落ちているので当然かもしれないが、最後の上り直線ぐらいで追いつくという見込みもあった。しかし、途中で親爺の声を聞いたようなところで、林道の脇道もあったので、その辺りから谷への周遊ルートを走っているのかもしれない。すると長い距離というよりも、最後に再び駐車場へと上がってくる道程を走るのだろうか。少なくとも下って来た時にはまだ車があったような感じだったので、先に戻ったという事はないだろう。また来週も会いそうなのでも少しわかるようになるだろうか。

パン屋で並んでいるとき、大衆写真紙ビルト新聞に、シュマッハーの娘が金メダルを獲得したとあった。ネットで調べてみると馬術の大会でリオでは無いようだが、新聞の見出しを見るとつい購入してしまう人が少なくないのだろうと思わせた。私も上手く騙されていた。流石なタブロイド紙である。

先日ソファーで画面を真っ直ぐ見るためにUSB延長ケーブルを購入したいと書いた。探すと同じアマゾンオリジナルの2m延長が比較的安くあった。勿論5mのケーブルを購入してみても良いのだが、価格も高く、付け替えるのが面倒なので延長を試してみたいのである。この延長があれば少なくとも充電器からの延長などで、旅行などには使いやすいだろう。無駄にはならない。

USBは規格上、5m以上は延長しないようになっているのだが、今回は3mに2m延長で合わせて5mになるが接点が一つ増えることになる。DACに正しいデジタル情報が送れるかどうかは試してみなければ分からない。手元にある極細延長コードを繋げると、一瞬だけ音が鳴って、そのあとはプログラムが落ちてしまった。これほどひどくはならない筈だが、なんら認知できるような影響が起こるのだろうか。転送速度などには殆ど問題が無い筈だが、なにが変わるのか、使い物になるのか、ならないのかなど興味津々である。

同時に昨年来使っていたラッカースプレーの最後を使い切ったので、同じ缶を発注しようかとも思っている。二つの横並びの洗面器の排水口の塗装がここ十年前に剥がれて、どうしてもそこはあまり使わなくなっていたのだが、その部分をラッカーを使って化粧直しすればよいと思ってやってみる。残り量が少なかったので二度塗りが必要そうだが、先ずは再び精神衛生上に使いやすいようになった。色合わせもあるが、先ずはこの色で使える場所が多いので、これを再発注するのがベストと考えた。



参照:
光を有効に使う方法 2015-12-13 | 生活
ファイルを再生する 2016-08-14 | テクニック
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dffファイルを再生する

2016-08-14 | テクニック
レーベルcpoのオーナー会社jpcから送料無料のお知らせが入っていた。恒例の落穂拾いは次の四半期までは暫くある。そこでサイトを覗くと安売りが目に入った。ヘンスラ―のSWRシリーズである。もともとはリリング指揮バッハアカデミーものなどを録音していたレーベルで、SWRに吸収されてからは放送局録音しかないので殆ど購入していないが、今年吸収合併され、二十世紀後半の歴史の幕を閉じた昔のSWFの管弦楽団の録音が見つかった。そこの前々音楽監督のミヒャエル・ギーレン指揮の新ヴィーン楽派の録音である。ギーレン指揮の録音もツィンマーマンやシェーンベルクしかもっていないので、丁度良いかとも思った。「期待」の録音もブーレーズ指揮とドホナーニ指揮の二種類も持っているが、自作を含めて知らない曲も含まれているので良いだろう。5ユーロしないのが何よりも良い。

チャイコフスキーの交響曲の面白い録音を探しているが、なかなか見つからない。特に五番は厄介である。またネットでSACD編集物をDLしてLPと比較してみた。基本的にはLPを上手に鳴らすのは難しいが、SACD盤であると録音や演奏の荒が分かり易くなって興醒めするものが殆どである。何故だか知らないが、ドイツェグラモフォンのアナログ録音ばかりが日本の会社でリマスターリングされて、異常な高額で世界市場に出ている。一体誰が買うのだろうかと思うのだが、LPを知らない世代やそれ相応のHiFi装置を使っていない人には手っ取り早くアナログ名録音を楽しめる機会を与えているのだろう。

残念ながらDGには真面な録音は少ない。当時のEMI録音ならば良いだろう。デッカの録音を比較すると、確かに管弦楽団の鳴りは素晴らしいが芸術的かどうかには疑問も湧く。また嘗てラディオ中継されたようなライヴものは音色感なども当時聞いたFM変調されたような響きは戻ってこない。マスターには何を使っているのだろうか?オリジナルのアナログテープか、スタディオマスターでなければLP以上の音質が得られる筈はないので、その出来上がりからして大変疑問に感じている。放送局のデジタルマスターでも24BitのPCM録音以上では無い。多くは現在のネット中継の艶消しされたような音色になっていて、これならばカセットで録音したものがましかとも思う。そもそもドキュメントでしかないラディオ録音を幾ら音質を良くしても現在のネットストリーミングの新鮮さも無ければ、当時の感興も呼び起こさないものになる。

SACDのデータファイルのdffファイルを初めて再生してみた。前回はISOファイルだったので、新たにfoobar2000にプラグインDSDIFF Decoderをインストールした。SACDのデータの取り出し方にはいろいろあるようだ。どのようなシステムにしてもデジタルデータを取り出すことは可能であるからコピー保護には殆ど意味が無いのだろう。反面、カラヤン二度目のベートヴェン全集LPが180ユーロで出ているが、当時安かったTimeLife版でも十分な盤の厚さがあったことからすると、その内容といい、その価値があると思う人はどれぐらいいるのだろう?まさしく、これも真っ当な市場が壊れている傍証だ。

前回はISO形式でSACDをDLして、それをDSD再生するというのをやってみた。どうやってこれを鳴らすのか分からなかったので調べると、foobar2000にSuper Audio CD Decoderと称するプラグインをインストールするだけで容易に拡張出来た。要するにSACDプレーヤーが要らない。アナログ録音LPをMP3化してもCD化しても購入しないが、鮮度が高いマスタ―テープが残っていたならばSACD化の価値のある場合もあるのだろうと思っていた。

コーミッシェオパーでのレハールの「微笑みの国」のSat3の放送中継録画を早飛ばしで観てみた。DLしてから大分経つが、最近環境が整ってきたからだ。コンヴィチニー演出でそれなりに面白いことは分かった。ソファーに座ってゆっくりという形にはなっていないので、USBの延長コードを試してみようかとも考える。

コンサートとは違って劇場作品などはゆっくりと映像を観たいとは思っても、時間も無く、なによりも音楽に集中するのとは違って、集中力がもたない。映画でも自宅で観るのは苦手である。TVというものを観ないようになってから更にこの傾向が進んだようで、要するに我慢が出来なくなってきている。



参照:
伯林量子化演奏会の響き 2016-08-09 | テクニック
音楽体験の機会を奪う動画 2016-06-19 | 音
マニキュア落としの効果 2016-07-07 | 雑感
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インタヴュー、時間の無駄六

2016-08-13 | 文化一般
経済欄にブレーメンの室内管弦楽団の記事が出ていた。世界的に有名な楽団であり、上手いというのは知っているのだが、生で聞いたことはない。指揮者がハーディングとネルヴィの息子という事で分かるように、恐らくそのプログラムや企画が視野に入らないからだろう。共同有限会社として活動していて、連邦共和国の管弦楽団が平均で17%しか自給していないのに、自給率70%の六百五十万ユーロに達しているという経済優等生として紹介されている。給与も所謂Aランクで年四万ユーロぐらいから六万九千ユーロを楽員に支払っている。

また違う記事では、所謂クラシック音楽の聴衆は増えているというのがあった。詳しくは読まなかったが、コンサートホールが幾つも新設されるぐらいだからある意味事実なのだろう。その中身が問われることが無ければ、嘗ての一部の都市層よりも広がりを見せている可能性はある。その証拠に私などが全く関心を持たない、絶対行かないようなコンサートなどが沢山催されているのを見ても分かるのである ― 同時にこの楽団のように世界中にどさまわりもしている。市場がそこにもあるという事だろう。その一方この二年間で四分の一に当たる管弦楽団が倒産もしくは解散して残りは131団体になったという。それでも多いのか少ないのか、どうかは分からない。一回で七時間も練習で合わせることが出来るという上の管弦楽団が上手に弾くことは充分に予測できる。但しよく聞き込んでいる人になると、楽譜を見ればとまでは言わないが、少なくとも録音などを聞けばライヴでどのような音が鳴っているかを想像できる楽団の演奏会などは視野に入らないという事になる。

その意味からも、今年のバイロイトでの楽劇「トリスタンとイゾルデ」の批評を読んでも、昨年も中継もされて、そしてその音楽運びも分かっているのに態々それについて可成り否定的に批判しているのも不可解である。そもそも昨年のアゴーギクなどが部分的にたとえ上手くいっていたとしても、音楽的に合理性がないものはあざとく繰り返されるうちに、あらとしか響かなくなるのは、「ノイズ」の混ざるライヴ録音を繰り返し聞いていられないのと同じような現象なのである。要するに意味のない表現やドライヴは音楽演奏の否定的な意味しかないという事なのである。

さて、いよいよキリル・ペトレンコの「インタヴュー、時間の無駄」の最終回へと行こう。このほかにも各々のプロジェクトに答えた短いインタヴューなどは存在するが、こうしたプロフィールの全体像を形成するようなインタヴューは他には見当たらない。今後も場面に対応した限られたものしか行われないであろう。


承前あなたの年代の指揮者なら、定まったポジションがあれば喜ばしいと思うのではないでしょうか。それが、これで完全なフリーになろうという。リスクではありませんか?

本当のリスク、つまり、なんら要求を充分に満たせないという危険です。それに対しての特効薬はないのです。あなたが言うようなリスクではないですが。幾らかのオファーがあり、仕事量を減らし休息するだけは経済的に許されます。指揮者にはこれも必要なのです。ひっきりなしに仕事をしている訳にはいきません。私たちは感情的に創造的にも仕事をしているからです。作曲家が望んだものを創造的に再創造して、一つ一つと片付けていくようなものではなくて、作曲家を人格的にも精神的にも全身全霊で代弁するとは、ただ単に楽譜を音化するだけではいけないのです。これは、それだけのものを犠牲にするということです。先ず僕はここで休息を取る必要があります。きっといずれまた役職に就くでしょう。自分自身は未だ嘗てフリーランサーであったことがないので、どのようなものか試してみないと何とも言えません。もしかすると直ぐに、「ああやれやれ、もう役職なんて」と言うのか、「ああ、直ぐに役職をお願い」と言うのか。

音楽以外では、一体何をされてますのでしょうか、それとも一日中楽譜に首ったけですか?

残念ながら、そうなんですよ。仕事ですから。二十四時間業務です。グリゴリー・ソコロフは、「たとえピアノに向き合っていなくても二十四時間練習しているだろう」と話しています。

本当ですか?


しかし彼は一種の天才でもある訳です。ロンドンで聞きましたが、本当に吃驚しました。残念ながらここではまだそれだけの価値は評価されていません。

二月のリサイタルを聞かれたのですか?

聞けませんでしたが、感心してます。彼から学ぶことは多いです。聞き入るだけです。質問にですが、例えば「(レハールの)微笑みの国」のような制作の真っ只中にいると、なにも他には出来ません。帰宅すると、疲労困憊して少し横になって、天気が良ければ散歩に出かけてってことになります。

しかし本は読まれる?


そういうことはないです。気分転換が必要な人は多いですが、僕の場合仕事に縛られていて、どちらかと言えば単主題的な人間です。時間があれば、もう一度楽譜にあたってみたり、問題のある個所を研究します。それ自体が本当に意味あるかどうかは別にしてです。自身、そうしたものです。

コーミッシュェオパーを辞めてから、どこで聞くことが出来るのでしょうか?


まず最初にヴィーンのアンデアヴィーンで、またしばしば国立劇場で、ニューヨークではいつものように、ロンドンのコヴェントガーデンで、またミュンヘンやフランクフルトでとなります。

此処ベルリンで、チャイコフスキーの「スペードの女王」を聞きたかったのですが。

ああ、いいですね。本当にいいですね、あれは、チャイコフスキーで最も好きがオペラですよ。激しい作品で、真の心理表象ですね。酷いですよ、本当に酷い。

時々、恐ろしく思いますか?

ええ、深淵が開くとこでの認知、酷いですね、人生で直面する以上のそれをどのように芸術的に示すことが出来るのかを自問自答します。どこからそのものを見出せるのか?難しいですね、でもやらなきゃならない。

次にやりたい作品は?チャイコフスキーの第六交響曲?


それはないですよ、本当に今?


ええ。


この曲はそろそろ一度やりたいとは思っているのです。一番恐れている曲でして、想像できない。

あなたの言うように、作曲家を全身全霊で代弁するとなると、死への誘惑と自身の存在を掛けないといけませんよね。

そして経験からの反映というようなものがまた必要になります。それにも拘らず交響曲として、先ずは「良いときも、悪いときも」のTVドラマシリーズとしてではなく、この曲を理解してということです。本当に恐れおののき、先送りしている作品ですが、一度は経験しないと、そして近々やりたいですね。(終わり)


ここまで悲愴交響曲について語られると、来年の演奏を期待せずにはいれなくなるのだ、たとえその可能性が一面においての可能性だとしてもである。そして、その前には前哨戦の様に九月に第五交響曲が演奏される。それも四番でないことの意味までを考えてしまうのだ。謂わば音楽を特に名曲をよく聞いていて、耳にタコが出来た症状に近い人にとっても、久しぶりにその生の音に触れてみないと分からないと思わせる芸術家が漸く出てきたということであり、その意味からもコンサートが、音楽劇場と肩を並べて、再び文化的イヴェントとなる好機となっている。



参照:
ハリボ風「独逸の響き」 2015-07-27 | 文化一般
インタヴュー、時間の無駄四 2016-08-03 | 音
インタヴュー、時間の無駄三 2016-07-30 | 文化一般
インタヴュー、時間の無駄二 2016-07-24 | 歴史・時事
インタヴュー、時間の無駄一 2016-07-20 | 文化一般
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ステテコの夏が過ぎた

2016-08-12 | 
先日、日本のネットを見ると、ステテコというのが出ていた。なぜ今頃流行っているのかと写真を見ると、今自宅で夏着として履いているものと同じではないか。自分の場合は、通常に売っている半ズボン類よりも大きめの生地の良い下着を重ね着すると安上がりなことに気がついて、そして何よりも快適なのでそれを履くようになったのだ。

要するに下着のままで夏中過ごしていることには違いは無いのだが、流石に出かけるのは控えても人が来ることぐらいはそれほど問題ではない。要するに高級そうな純綿のものを履いている。毎週のように洗濯しても確りしていて、快適さと見た目はそれほど落ちていない。最高級品を購入しても安いのだ。ステテコと聞いて、まさか欧州にまで移住してステテコで生活するなどは考えてもみなかったが、そのように定義されてしまうと否定のしようがないのである。

夏用の半袖パジャマを入手した。夏の終わりで来年度に備えるチャンスと思ったからである。大きさが問題となった。今まで使っていたぼろぼろのそれがサイズ52だったので、同じものを購入したが安い割にはXL52で生地をゆったり使っていて大きめとなった。色合いは今まで使ったことのない砂色で悪くはないと思った。よく見ると前回購入した新しいものはLでサイズ50だった。なるほど腰回りなどには、ステテコ部屋着の54ほどの余裕である。上着も大きめだ。私が着ると膝の長さもあって、丁度甚平のようになる。洗濯で少しでも縮むと良いかもしれない。

上体は筋肉質になってきている一方どうも脂肪が絞られてきているのだろうか、プロポーションとしては良くなってきている筈だが衣服のサイズとしては若干難しいところに差し掛かっている。基本はLで、その上下という感じであろう。二十歳代の時は48が着れたかと思うと、それよりはまだ太い。もう少し筋力をつけたいことには変わりない。

急に冷え込んできた。朝が冷える。山は雪だ。夏の装いで走ると肌寒かった。それでも準備体操の時にも震え上がることはなく、走る風当たりが堪えることも無く、汗を掻き難いので比較的走り易かった。汗の掻き方が明らかに少ないから最後までアクセルを入れたにも拘わらず結構苦しかった。それでも計測上不調から抜け出せない。理由は分からないが、左膝も違和感を屡々感じる。

もう一つ、現行のジーンズを購入したのが三年半ほど前になるので、秋ぐらいに一本欲しい。太さは同じカットでもう一つ絞れそうだが、色合いを考えている。それでも安い方が良い。現行のものより明るめにするか、暗めにするか?オペラの立見席など最近は夜履いて出かけることが増えたので色々と考えている。また散髪に行こうかとも思ったが、涼しくなったので一週間延長することにした。

来週は車検である。エンジンの問題点があるのだが、どのように試験前テストをするのだろう。あまりにも停止時の回転が下がり過ぎているので、排ガス規制などは通り易い筈だが、条件を合わせないといけないとなると、どうしても問題点合わせに掛かるのだろう。その後にあと900kmに迫っているインスペクションもあるので、さてどうなる事か?もし燃焼状態がエアーが噛むことなどで正常ではないとすると、検査前に調整する必要が生じて来る。



参照:
尋常ではない二月の気象 2014-02-20 | アウトドーア・環境
衣装替え無しに汗滴る 2012-09-24 | 暦
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近代天皇の意味、国体

2016-08-11 | 文学・思想
ツィッターなどを見ていると、日本国民の多くはどのような職業についていてもあまり変わらないと思った。天皇を知らない、もしくは自国の権力構造というものに無頓着という事だ。要するに少々学問をしていると自ら信じている人たちが、先にも書いたように科学的な思考に達していないという事なのである。

「天皇が個人であり、それを尊重する」などという論調はどうしたことか?ここが分かっていないと、立憲君主制も美濃部の天皇機関説も分からないだろう。王権などの支配権を盤石とする権力の正統性つまり権威がどこからやって来るかは西欧のその歴史をみれば明白である。同じように古いプロシア憲法を参考にしながら天皇制を取り込んだ訳であるから、その天皇の権威にはそれなりの根拠がある。要するに天皇は決して個人ではない。このようなことは子供の時に考えたことがあるが、その時の共和主義者としての解決方法は「選挙権を持った皇居煎餅の元祖として平民化して貰う」というアイデアだった。それに近いような論調には本当に呆れた。

それに関して、フランクフルターアルゲマイネの特派員パトリック・ヴェルターが流石に上手に纏めている。老舗のズルヒャーツァイトュングの記者もしているようで、なにか慣れないような感じもみられたが、流石に超高級紙に書くジャーナリストは伊達ではない。

彼は書く、その生中継を観る日本人を観察していて、必ずしも皆が何を差し置いても耳を傾けるようなことはなくて、だから天皇は市井の人々に直接訴えかけるために人間的なお面を被り、馴染みやすいように努力する必要があったとする。多くの人、特に若い日本人にとっては天皇などは生活において余白でしかないのだからと観察する。

しかし、そのように装って今回為された明仁天皇の発言こそは、今までの就任直後からの品行方正な「役人の操り人形」のような、そして親しみやすい一つ目の天皇像だけではなく、それ以上に二つ目の顔である民主主義的な、アジアでの戦後の日本像や、右翼修正主義者に対抗する戦争責任への言及の平和主義日本の天皇像を示す以外の何ものでもなかったとする。同時に、世論調査から、「象徴天皇」への支持は85%に達しており、「天皇不要論」は10%を割って、「天皇主権」はそれ以下の支持しかない状況が長く安定的に続いている事実を挙げる。

そして、生前退位への希望を可能にするとは、侵略戦争と共にあったを戦前の超権力の天皇への回帰から撤退することを意味するとある。だから、日本は今週の世界のスペクタクルなニュースとなったのだとしている。同時に、明治以降近代日本の立憲君主制の天皇の意味合いを知らしめて、その区切りとしたとする。それは、右翼筋には、天皇の希望に沿わないようなありとあらゆる努力させることを意味することになると社説を締めくくっている。

カトリック教会においてもフランシスコ教皇などが同様の努力をしているが、どちらも秘儀があってこその権威である。その点においても、明仁天皇の思考は当然のことながらそこまで熟慮されているものと想像される。同時に今回「市井」との言葉が使われた。安倍政権などに50数パーセントの支持率があり、首都東京にポピュリスト知事が当選したように、改憲提議そして国民投票への危機感からも日本津々浦々の人々に呼びかけたのだろう。あとは本当のジャーナリズムや文化学識に携わる人々の科学的な思考とその表現力に掛かっている。象徴天皇におんぶにだっこばかりの生かされている日本人では、一体何のために近代化の歴史があったのかさえも分からなくなる。



参照:
Japanische Scharade, Patrick Welter, FAZ vom 10.8.2016
象徴天皇を庇護するとは 2016-08-10 | 文学・思想
山本太郎よりも厄介な天皇 2013-11-06 | マスメディア批評
期待する三宅洋平効果 2016-07-10 | マスメディア批評
退位の緊急事態への一石 2016-07-15 | 歴史・時事
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象徴天皇を庇護するとは

2016-08-10 | 文学・思想
週明けの車中のラディオはお昼のニュースで明仁天皇のヴィデオメッセージについて報じていた。東北震災以来の異例の二度目の語り掛けであるという事である。私も朝から生を観ようと思っていたが最初の数十秒は欠けた。文字起こしで内容を再確認した。

「始めにも述べましたように、憲法の下、天皇は国政に関する機能を有しません。」の「始め」が気になったからだ。どうもメッセージの題目の「象徴としての天皇」を指すらしい  ― これに関しては、宮内庁の公式文書で再確認すると、「天皇という立場上,現行の皇室制度に具体的に触れることは控えながら,」もしくは「本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇…」となり、題目は「象徴としてのお務めについて」である。そして、「象徴天皇の務めが常に途切れることなく,安定的に続いていくことをひとえに念じ,」と締める。つまり、「これを弄るようなことは認めがたいが、それに対して発言することが出来ない。」という事である。最高級の形で護憲を声明したことになる。

新聞は第一面の二大トップニュースとして伝えている。因みにもう一つは先週から続いている当局のリーク情報の続きで ― 電話で、人の殺し方を車でひき殺ろせとアドヴァイスしたが、アフガニスタン難民の方は免許を持っていなかったという電話会話の中身であった ―、ヴュルツブルクとアンスバッハのイスラム国テロ犯罪とサウディアラビアの関係についてである。その一面で、「(これまでのように、全身全霊をもって、象徴の務めを果たしていくことが、)難しくなるのではと案じています」と言葉を引用して副見出しを付けて、先ずは「右翼日本政権自民党は天皇の退任希望に拘わらず、憲法改正で象徴天皇を元首としようとしている。」と書いて、第三面の写真入りの記事に繋いでいる。

そこでは、病後に長く考えていたことが今回七月の予告に続いて公にされたことで、必要で困難な法改正などに迫られるが、二つの対処法があって、一つは時限立法にするという方策で、これも時間が掛かるという、そしてもう一つは一切無視して、これまでの様に負担軽減で誤魔化すという方法だったが、今回のヴィデオメッセージでそれが明白に否定されているので、これも儘ならなくなったとする。

つまり象徴天皇制が議論される。ここでも七月に伝えられていたように、そこで右翼筋が問題にするのが、空位になる皇太子に女子を選ぶかどうかの議論を再び呼び起こすことだとされる。日本のネットメディアも今回漸くこれを扱った。どうも女子の継承権は日本ではもはやタブー視されているようで、小泉政権から安倍政権への性質の変化がここにもみられる。

しかし女子継承権の議論は、何も男女平等の問題だけではなくて、今後の天皇家の維持を考える場合の重要策だとする。つまり、次世代の男子ヒサヒトはまだ九才であり、それでは危ういとされる。一部の見解として、政治的発言を許されない明仁天皇が平和主義を堅守して、修正主義や民族主義の大きな流れの防波堤となっていて、日本国の良心とされていると書く。

そうした良心も責任も天皇に担保出来ないのが象徴天皇なのだ。つまり、天皇の政治利用を認めないという根拠で天皇発言を無視したり、そもそも象徴天皇をも認めないというならば、私の様に移民するしかないのである。さもなければ自身の科学的な立場に懐疑せよ。男女同権を語る前に女子の継承権を語るのがそれを専門とする学者の仕事であり、市井のものは象徴天皇制の下でこうした発言に真摯に向かい合うことが求められているのである。

新聞には、放送のモニターの前で頭を垂れる者もいたという。戦時戦争世代の人だと思うが、どうなのだろうか。少なくとも私の周りにはそうした人はいなかったので分からない。震災時にも労い、時間を掛けて率直に話しかける姿は、映像を意識する政治家とは全く違うと書いてあったが、象徴制を排して元首としたい人たちの立ち振る舞いをしっかり見届けろと言いたい。



参照:
Beginn einer neuen Zeitrechnung, Patrick Welter, FAZ vom 9.8.2016
退位の緊急事態への一石 2016-07-15 | 歴史・時事
天皇の「悔恨」の意を酌む 2015-08-16 | 歴史・時事
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伯林量子化演奏会の響き

2016-08-09 | テクニック
ベルリナーフィルハーモニカ―から希望していた無料のお試しクーポン券と新年度のデジタルコンサートの冊子が届いた。録画し損なった幾つかを無料一週間のうちに再聴視するのと、新年度のライヴをそれらアーカイヴに組み合わせたい。年内の有効期間であるが、その間に興味あるのは、シーズン明けの26日のブーレーズ「エクラ」ぐらいしかない。恐らくそれを挟んで使うだろうか。いつも無料で見せて貰うだけでは今後の特典が受けにくいので来年には一週間ぐらい購入してもよいかどうか、録画の音質を審査して考えてみよう。幾らぐらいか分からないが、落とす価値を勘定してみなければいけない。

アーカイヴのリストを見て興味あるのは約81曲である。正直それほどの出し物はそれほど多くはなかった。指揮者別ではキリル・ペトレンコ以外の音楽監督でクラウディオ・アバドと多くはサイモン・ラトルである。フォン・カラヤン物は商品化されているものと比べて新味のあるものは殆どないのだろう。客演指揮者では、ピエール・ブーレーズとベルント・ハイティンクまたブロムシュテットぐらいである。その他ではメータ、バレンボイム、ロートやメッツマッハーなどは何曲か興味深いものもある。

音質は、転送速度最高320kB/sまでのAACなので、それほどは期待できないのだが、何とか使い物になることも分かった。なによりもDACのお蔭で音を確かめながら録画可能となったので予め結果が分かっているのが良い。これならば転送速度オート設定でライヴ録画でも失敗しないかもしれない。画質もそこそこTV放送程度なので通常の聴視には全く問題が無いだろう。

特にライヴ中継をいい音で聴視しようと思えば、ブラウザーでWASAPIと呼ばれる排他モードで流さないと音が冴えない。クロームの呼び出しの特性に-enable-exclusive-audioと書き加えることで排他的になったのは確認できた。但しDACにも出力すると排他とはならない。今後、高品質録音するときにはクロームで排他にすることも可能だ。音の質感などが大分改善されるようだ。

このサイトのデジタル技術に日本の会社が関わることになったようだ。主な目的は、ハイレゾリューション録音を同じサイトで提供することらしい。映像のオーディオがCD以下であれば話にならないので必要な試みだろう。高品質デジタルものはコピー防止で、全体の規格としてまたその経済性からして袋小路に陥り易いが、このベルリナーフィルハーモニカ―の場合はそもそも売れるような素材を提供している訳ではないので、寧ろ問題は違うところにあるに違いない。

ハイレゾリューションそのままでもその録音技術から録音芸術としての価値は皆無であり、また殆ど変わらないコピーはいつも可能であるというデジタル技術の原則からして、この種の安く制作して広くばら撒くというそうしたビジネスモデル自体が管弦楽団活動以上に時代遅れになっている。

ライヴとなると九月のミュンヘンの座付管弦楽団の演奏会も14日に放送される。芸術週間の一貫である。他のベルリナーフィルハーモニカ―の録画はアーカーヴに残るのでいつでも観ることが出来るが、これは残らないだろう。するとこのライヴに合わせて計画を立てないといけない。その前後一週間に観たいものから片づけていかなければいけない。技術的な問題は先ずは解決したと思う。時間だけである。



参照:
音楽体験の機会を奪う動画 2016-06-19 | 音
PCオーディオの吟味 2016-06-22 | テクニック 
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引導を渡す線香の刹那

2016-08-08 | 文化一般
湿度計が予想以上に敏感な反応をする。朝のシャワーで20ポイントも急上昇した。それに引き換え温度計は若干上昇したかどうか程度で予想とは大分違っていた。蒸気による湿度温度の変化は、湯沸かし器の吹き出し口のそれを印象していたからで、実際は上部に隔たりが30CMほどあると気化熱が奪われるのか、このような結果となった。また湿度が下がっていくには30分一時間という時を有した。要するに如何に湿度管理が重要かということだ。恐らく冬期ならば、もしくは湯船を使うと事情は違ってくるかもしれない。

土曜も冷えて森の中は摂氏18度ぐらいで、走り易かったが、峠登りの2キロを過ぎるころから汗が噴き出した。木曜日に沢沿い往復、火曜日に短く、そして最後に日曜日の8キロコースと結構走った。最近は柔軟体操をしてから走っているので走り出しの足取りは軽いが、疲れが残っていることも分かった。テムポが乗らない。但しスキーで膝を痛めてからもう一つだったところは大分元通りになってきた感じだ。15キロぐらいは走れたか。

膝の状態もあってか降りが早くなって来た。位置エネルギー少しずつ前進力に繋げる方法が分かって来たかもしれない。印象としては胸元が少し負担が掛かる感じで、腰から上の胴の中の全体の筋力で上下動を前へと変えるバネである。体幹力のバネ力といった感じだ。これを使うと心肺系に負担が掛かるのだが、丁度いい具合に掛けると長続きしてテムポを保てる感じだ。登りは相変わらず冴えないが、降りにスピードが出ると心肺系に登りと同じように負荷を掛けながらの長めの運動が出来るようになる。そして総合タイムが縮まる。

蚊取り線香の洗濯バサミのタイマー機能を習って、早速書類封筒留め金具を使って試作してみた。実験すると完璧に火が消えた。今まで就寝時に使ったのは一回でそれ以降は使っていないが、これほど頼りになるタイマーはない。自作タイマー機構を使うのは何時になるのか、来年になるのかどうかも分からないが、これで安心だ。わざと夕方に窓を開け放って誘き寄せてみたい誘惑すら覚える。

この線香が消えていくというので直ぐに思い浮かんだのが上方噺の「たちぎれ線香」である。故桂米朝と故桂文枝の二系統があるようだが、前者もこれまた故吉朝が十八番としていたようだが、晩年の米朝の語りを観て、とてもではないがこの域には誰も届かないと思わせた。そもそも色町のタイムキーパーとして線香を使うというのも面白いが、なぜだがあまり一般的な風習として残っていなかったのは何故なのだろうか。所謂人情もので、若干怪な趣もあって、また近松もののようなものもあって落語としては長い語り物で、江戸前の人情噺とはまた異なるくどさもある。もともと米朝落語は、この話においても淡々と進めることで、そうした嫌味が少なかったが、この晩年のそれを観ていて驚いた。要は、落ちの「線香」が切れることで意味するのは課金の料金切れを意味する訳だが、今までこれほど落ちが鮮やかだった印象がない。演者の枯れた印象とその時間切れがしっくりと同調していて、これでまさしく花代を払ったお客さんにも、皆に引導を渡すような鮮やかな落ちとなっている。幾つ聞いたか知らない米朝落語の頂点のような至芸だ。もう一つの驚いたのが小文枝から文枝になっていた晩年のそれで、どちらかというとその苦手なしつこい語り口がとても抑えられていて、何よりもその様々な登場者の語りが戯曲のような広がりを見せていて、語る一人一人の腹の内や真意を考慮させる噺になっている。要するに安っぽい感情移入など無しにその舞台設定を思い描かせるような見事な叙述となっているのだ。しかし、この話の流れを見ると、蔵に軟禁されるのも100日と非日常のそれになっていて、女が恋文をせっせと頻繁に書き、その恋煩いも刹那に描かれているのである。米朝の芸の見事さが分かるだろう。関連:高尾死神



参照:
間に合った、金鳥の夏 2016-08-05 | 暦
柱のお札のようなもの 2016-08-06 | 生活
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インタヴュー、時間の無駄五

2016-08-07 | 文化一般
バイロイト音楽祭の最初のサークルが終わったところで批評が出揃っている。それほど新味はないのだが、「指輪」上演が何事も無く一通り終わったかどうかは気になるところだ。あの指揮では厳しいことになると予想していたからである。ラディオと新聞で両方の評価があって、放送局の方は「ヴァルキューレ」、「ジークフリート」は何とかなったが、「黄昏」は本当に黄昏れたとあった。その心は音楽表現上の問題としていて寧ろ劇場的な音楽表現の欠如ということで、充分に楽匠の音楽構造からその問題点を指摘していなかった。音楽制作関係ならもう少し音楽を勉強して貰わないといけない。反対に新聞は、「ヴァルキューレ」などの殆ど事故状態に比較して、「黄昏」は上手く燃えたようなことが書いてあって、これまた一体その耳で何を聞いているのかが知れるような文章だった。そもそも舞台との統合を初めから目指そうとしなければ、舞台側が必死で合せてくるだけだが、充分に芝居も歌も出来なくなってしまうことは仕方がない。キリル・ペトレンコ指揮の「ジークフリートの葬送」にしても嫌にせかせかしていたのだが、ミュンヘンでの舞台では全体の流れが全く異なっていたように、あれだけ楽譜を読み込む指揮者であっても合わせるのが仕事なのだ。年寄りの頑固爺さんにはもはやそのような憂いなどはないのだろう。

因みにヤノフスキーにお声が掛かったのは今回で二度目で、一度目はピーター・ホール演出のゲオルク・ショルティ―が一回振ってあとはシュナイダーに任せたときのようだ。ショルティ―指揮などと同じようにヤノフスキーにダイナミックに鳴らすことをアーティスティックプロデュサーとしてヴォルフカンク・ヴァークナーは期待したのだろう。そのてんやわんやについては回想録に書いてあるが、シュナイダー以外の指揮者については言及していない。

舞台に合わせるような音楽は低級なものなのか?恐らくそうではなくて、楽譜から大きな構造やその叙述法が読み取れていなければ、表面的な動機分析だけで内容を語れると、力尽くで音化することに集中するような指揮者には舞台と奈落の音響的時間差だけでイライラさせるものだったのだろう。大指揮者ショルティーもペトレンコぐらいに劇場に通って音響を把握するということはしなければいけなかった。そもそもショルティ―のカルショー録音も、ヤノフスキーの録音と同じで、そうした劇場性を排したものだったから、いま改めて聞くと明らかにディズニー映画音楽の様になってしまっている。叙述法の本質に触れていないからだ。だからといっても、所謂劇場のオペラ指揮者になってしまうと全く芸術的な創造力が無くとも実務的にルーティンで仕上げてしまうとなる。それどころか劇場で客演ばかりを重ねていると、音楽的に学習することも寄与することも全くなくなってしまうという事が、以下のキリル・ペトレンコが語る「インタヴュー、時間の無駄」の続きで述べられている。


承前「ロシアの心」って何でしょう?なにか特別な、重苦しいものでしょうか?

全く見当外れというようなことはありません、ヴォトッカ一本を食らって、何もかも涙涙で流してしまうというのはありえますね。しかしです、音楽にはテムポがあり、メトロノームがあり、形式があり、内容があります。だから何でも許されるというものではありません。

就任当初、レパートリーに関しては何でもやってやろうと、なによりも仕事に貪欲でしたよね。それでも今まだ、レパートリーの重点をやっていない?

勿論、モーツァルトは当然ながら明白です、僕自身モーツァルト指揮者と思わないでも、寧ろ他のものに聴衆の反響が強くともです ― シュトラウスの「ばらの騎士」や交響演奏会などですが、それでもモーツァルトの「フィガロ」、ドンジョヴァンニ」、「コシファントュッテ」そして「後宮からの逃走」はここコーミシェオパーでは最重要な仕事でした。初めてのことで、初めての素材に馴染んで行かなければいけませんでした。勿論、ヴィーンではモーツァルトを指揮してはいましたが、それでも一度も自分自身でアンサムブルと演出家、そして管弦楽団とで最初から稽古をつけていくということはなかったのです。そう、丁度ここの劇場で管弦楽団が知っている出し物は、取り分け容易なものではなかったです。二十年も「ドンジョヴァンニ」を演奏していると、音楽家として自分のテムポがあるのです。

それを先ずはぶち破らなければいけなかった。しかしそれを為したのでしょう。

残念ながら、自身の決定的な解釈で最初から押し通すことが出来なかったのです、今ならやれるようにはです。

きっともう一寸時間が必要だったのでしょう。

それでもモーツァルトは最も意味深いものだったです。それが皆の好みに合ったということはあり得ませんが。そしてもう一度モーツァルトをやるならまた違うようにやるだろうということです。昨年末の三つのオペラを一挙にやる小モーツァルトフェスティヴァルを催したのが自慢です。私のベルリン体験で最も素晴らしいものの一つですよ。四年前に密接に協調することになって、これは素晴らしく継続的な、とても集中的な仕事になると思いました。そのようにあまりに集中的だったので、モーツァルトで大休止を入れようと考えました。

ベルリン時代をどのように要約しますか?

ここの劇場では、どのような流儀で演奏することが正しいとするのかを、自身はっきりさせたいと思いました。つまり、妥協なく、可能な限りの正確さで、それでも乾くことはなくです。これを公演ごとに試みました。時にはまあまあ、時にはより上手くはまりました。精一杯やりましたよ。これは本当に言うことが出来ます。

この町の他所の音楽監督以上に頻繁に指揮をしましたよね。最後の最後に報われた。

全く思い残すことはないです。この劇場でのすべての制作を喜ばしく感じ、勿論全てを更に良くは出来ますよ。それは分かってますよ。それでも為した仕事に自負しています。最初はとても厳しく、沢山の逆風が吹きました。

一体誰から?

政治からとか、また内部からとか、またはプレスからとかです。これはなんら問題はありません。それらには幾らか抵抗すべきものです。そうすることで成長する、人間的にね。それでも全てにとても体力を消耗しました。だから、次の数年はもう一度充電しなければならないのです。

それでも目的は達成された。あなたがやって来たとき、劇場は入場者数からしてもよくはなかった。そして一年半ぐらいで強い上昇期となりました。もしかすると、ここに留まった方が良かったということはないですか?


はあ、それはないです。それについては言わねばなりません、その上昇はハッキリあまりにも遅過ぎた。最後の複年は力を使い果たしました。そう感じて、もう一度、創造的に思考して、学ばなければいけない。日常のレパートリーに錨を下してしまうと、しばしば実務的に、非芸術的に考えてしまうものです。ここで、そうした実務的なものは横にやって、日常の責務から解き放たれるべきなのです。勿論政治的な交渉からもです。ああ、やれやれ。オペラの支配人たちは守ってくれました。それでも管弦楽の人事で戦わなければいけなかった。文化大臣のフリ-エルと、どんだけ手紙を交換しなければいけなかったか、個人的に近づき、フル管弦楽団が必要なことを説明してです。時限なしに五人を削減して、エクストラを雇う。管弦楽は身体そのもので、二本の指が欠けた、絶えず代わりの指で代用する。管弦楽団は出たり入ったりの中央駅ではないですよ。これは全て難しかった。五年間、こうしたことを進んでやりました。そして今少し回復しないといけません。負荷が取れて更に向上、喜ばしいことです。幾らか何かに貢献しました。素晴らしいことです。これ以上いい頃加減がとかは、全く考えられないことですよ。(続く



参照:
「神々の黄昏」再生 2014-11-07 | 音
ヴァークナー熱狂の典型的な例 2014-07-26 | 音
何事も初制覇の心意気 2014-03-03 | 生活
ヤノフスキーのワンパターン 2016-07-28 | 文化一般
インタヴュー、時間の無駄三 2016-07-30 | 文化一般
インタヴュー、時間の無駄二 2016-07-24 | 歴史・時事
インタヴュー、時間の無駄一 2016-07-20 | 文化一般
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柱のお札のようなもの

2016-08-06 | 生活
懸案のシャワー上の不要になった穴を塞いだ。落語の牛褒めにあるように、柱の節を隠すお札の様にそこのネジ穴などを上手に使いながら隠すものを探していたのだ。シャワーの上方で手が届かない高みであるから、サウナ用品などを探した。例えばサウナ様の植物や香料や塩などをシャワーの湿気で使えないかなどである。結局使えるようなものはなかった。そこで気がついたのは温度計である。湿気管理も、昨年カビ騒動もあったように、したいと思ったので、それに相当するネジ穴に合うものを探した。

気温摂氏40度までの測れるものが9ユーロ以下であったが、40度では湯気が上がる場所では足りないと思っていると50度までのものが一ユーロ追加であった。大きさも下から覗いても読み取れる直径11㎝でまずまずだ。

配達されて、早速壁の穴に捻じ込まれているネジを外して、それを吊る穴に入れるとぴったりの大きさだった。写真で計算推定していたものとぴったりであった。6㎜口径である。完璧だ。

バルコンにおいてある水銀型温度計と合わせて温度キャリブレーションを試してみる。先ずは棒温度計の表示がずれていることにも気がついた。摂氏60度限界なので、氷点を作成してそこで合わせるしかない。そして二つの温度計を合わせればよい筈だ。それでも近々計測計を購入する予定もありそれでもキャリブレーションしたいので、先ずは棒温度計の方を新しい壁掛け型に合わせておいた。

今書いておかないといけないと思った。沖縄高江の闘争のことである。再び強制撤去が行われる前にである。皆と同じく、このヘリパッド建設反対の歴史については知らなかった。その歴史的背景以上に、今行われている強制的で威圧的な「公共事業」推進に注視する。そもそも米海兵隊駐留への援助に公共目的があるのかどうかは大疑問である。日米安保遵守の翁長県政であるが、特に海兵隊は、これの日本防衛とは関係が無い。

「沖縄の運動が日本の民主化」だとか叫んでいるようなネット市民が居るようだが、それは全く間違っている。沖縄高江には本土各県警の機動隊だけでなく、防衛庁の職員が交通規制や撤去作業までしているとなると違法な弾圧でしかない。そして防衛庁の弾圧は次には本土の一般国民に向けられる。安倍内閣は無血クーデターを成功させていると言われるが、これで自衛隊が国軍化すれば緊急事態法によって、軍事クーデターが完成することになる。

要するに「沖縄の運動は民主日本保守への運動」でしかないのである。もしこのまま突き進めば、明日には本土でも同じように防衛庁の検問が緊急事態と称して方々でなされて、軍が日本国民に銃を向ける風景が世界のニュースとして伝えられる日も決してそう遠くはないであろう。違法性があっても、軍事力で制圧できれば、勝てば官軍で、違法的な支配は新たな法的整備で正当化される。それがクーデターなのである。そして日本では、国民が気付かぬうちに、既に起こっている。

窓を閉めて床に入って消灯すると、モスキートトーンが聞こえた。早速起き上がって、蚊取り線香に着火する。暫くうとうとして目が覚めると煙が充満していて、結構線香に痺れていた。神経ガスだろうか起き上がって、準備してあった水と綿棒で消火して、一部の窓を薄く開けて熟睡する。これで先ずは寝室に潜んでいた蚊を一掃できたであろう。完璧だ。



参照:
沖縄・高江を守るために行動を! (FFTV)
【緊急集会】 今こそ高江!今高江で何が起きてい (UPLAN)
シャワーの喜びに濡れる 2016-06-09 | 生活
シャワーにフライパン? 2016-06-09 | 生活
夏の終わりの体の洗濯 2015-08-19 | 生活
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間に合った、金鳥の夏

2016-08-05 | 
なんとか間に合った、金鳥の夏。待ちかねていた蚊取り線香が届いた。小包の箱には受付郵便局の注意書きが張ってあって、そこには「緑色のぐるぐるの蚊取り線香」と書かれていて、「送れること確認済み」とあった。若い女性の丸文字だったので、あまり馴染みが無いのかもしれない。勿論送り状にはこちらで呼ばれるようにスピラールつまり螺旋のコイルスと書いてあるが、日本の税関では分かり難いのかもしれない。そもそも最近の日本の家庭ではどれほど使われているのだろうか。

なるほどこちらで売っているものも基本は戸外向きとなっている。日本の昔の家屋は通気性が良すぎたものだから全く問題が無かったが、昨今は気密性の高い部屋にクーラーが掛かっていると、こうしたものは必要が無いのかもしれない。

さてその装丁はネットで見ていたので、レトロな箱は分かっていた。なかなか趣があって嬉しい。しかしレトロと言っても殆ど違和感が無く以前はこれに似ている意匠にも馴染みがあった。少なくとも大正という感じではないが、どうなんだろう。そして箱を見ると、大日本除虫菊株式会社と書いてあって、明治23年に世界で初めてとか書いてある。最近はシナ製などがこちらでも出ているので、これまた嬉しい。それにしても今でも正式名称が大日本とするとこれは凄い拘りである。本社西区土佐堀というのはなんとなく知っていた。

その「ぐるぐる」は、馴染みの色よりも茶系であって、これは流石に着色料の入っていない天然素材の色なのだろう。十巻が二巻づつ組み合わされていてビニール包装されている。開けてみると特に強い匂いはしないが、線香臭いことには変わりがない。そしてしっとりしているのはやはり天然素材か。上に乗っていて先が少し欠けたようになっているのをとってみる。子供の時から上手く外せなかったあれだ。今回は横着で折るようなことは出来ない。商品代よりも送料が20巻で2800円と七倍ぐらい掛かっている。超高級品である。慎重に完璧に分離して早速燻らせてみる。従来通りの金具の足を乗せるのはコーヒーの欠けたソーサ―である。

点火はマッチで綺麗に点いた。想像以上に厳しい煙だ。これならば少し燻らすだけで駆除できると確信した。暫く嗅いでいないものだから、撮影会をしているうちにこちらの頭がくらくらしてきた。そして煙が体に纏わりつく。神経ガスの威力である。これなら絶対大丈夫である。一昨日バルコンでたばこ臭いような香りがしたが、あれは階下の住人のシナ製蚊取り線香だったのだろうか?

序に仕事机の下も燻らせてから、先ずは消化して夜に備えよう。消火方法を考えたが、綿棒を濡らして押さえると綺麗に消えた。これならば再点火も問題ないであろう。

こちらにも良さげな陶器の入れ物はあるが、来年にでも日本から豚の線香入れでも持って来て貰うようにするか。室内で長時間燻らし続けることはあり得ないので、先ずはこれで万全だと思う。窓を開ける夜が楽しみになる。掛け布団に皮膚を包み込むタオルケットなどの使用も考えたが、どう見ても本質的な解決方法ではないので、これで先ずは一安心だ。



参照:
アベニグマの殺戮の夜 2016-07-11 | 生活
木曜日は雪模様となるのか 2016-07-13 | 生活
ちぐはぐな夏の雰囲気 2016-07-14 | 雑感
民主主義を叫んだ独裁体制 2016-07-22 | マスメディア批評
日本の問題、世界の問題 2016-07-23 | 歴史・時事
ヤノフスキーのワンパターン 2016-07-28 | 文化一般
夜な夜な続く蚊との死闘 2016-07-26 | アウトドーア・環境
温床となるバランス 2016-08-04 | 雑感
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温床となるバランス

2016-08-04 | 雑感
購入した若いリースリングを開けた。2014年産のフォルスターである。地所がら二年ほどは開かないのだが、それだけでなく鋭い酸が厳しくて、まだまだと思わせる。しかし、その酸は全体の一部が突出しているだけで、開いて来れば可成りバランスが取れるものと想像する。糖は充分に抑えられているので余計に水っぽい感じがするが、その液感とミネラルはグローセスゲヴェックスを十分に想起させる。それでもペッヒシュタインのそれだけでないのは、より複雑なミネラルを感じさせるところで、ウンゲホイヤーから、イェズイーテンガルテン、キルヘンシュチュックまでをミックスした土壌感が出ている。数年保存向けに追加で押さえておかなければいけない。これに関してはもう一度改めて報告しよう。

要するに最近は良いリースリングは瓶詰後二年ほど経つまでは飲めないようになってきていて、それがオルツリースリングにまで及んできているという大事実である。これがドイツのリースリングの最先端なのだ。

雨勝ちになって気温が下がった。久方ぶりに窓を閉め切って就寝した。お蔭さまで、一度もモスキート音を聞くことも無く、刺された様子も無かった。なるほど前日辺りに、弱った蚊が窓際で蹲っていた筈だ。その夜は全部で五匹ほどを片づけた。

天然除虫菊の蚊取り線香がまだ到着しない。これだけ涼しくなっても書き机の下などに潜んでいるかは、しぶとくその辺りに潜伏し続けている。PCの箱など隠れるところは幾らでもあるので通常の捜査では駆除出来ないのである。一発線香を焚けばそれで済むのだ。そしてまた暖かくなると発生してくるかもしれないので、無駄にはならないが、一刻も早く手元に置いときたい。折角の気持ちよい夜も台無しになるからだ。

久しぶりに昼間に横になったので、寝つきが悪かった。更に、タブレットにアプリケーションをインストールした関係でツィキャスト云うのをちょこちょこ開くようになっている。主に訪問先は決まっているのだが、なぜか多くは日本語が主体で、その次に中南米と韓国人などが中継している。人気のあるのは、山本太郎とかIWJ沖縄とかそうした絡みで、その次に若い女性が顔見世しているというもののようだ ― 残念ながら地域や言語や人種が限られているが。ツイッターの名前で入っているのでそのような偏りがあるのかと思っていたら、経営しているのがそれとは無関係な日本の会社だとあった。少なくともこちらから見ていると、ラインなどのよりも可能性のあるものだと思うが、そこでも性犯罪の温床として話題になっていたように、ここでも問題が起きているのだろう。

現に観覧したオハイヨーからのミドルティーンのところでは記録さえ残しておけば完全に刑事告訴できるような訪問者などがあり、そうした防犯意識を持っていない好奇心の強い思春期の少年少女本人が自覚がないうちに犯罪の被害者になっている。視聴者が警報など簡単に加害者を届けるシステムが見当たらないので、この事業が成功するのが早いか問題が顕著化するのが早いかの時間の問題だと思った。要するにこのままでは東京の会社が強制捜査されるような事態になるのは時間の問題だということだ。

システムとしては良く出来ていて使い手がありそうなので、ツイキャス運営会社モイ株式会社がつまらない市場拡大よりも先ずはそうした防犯処置を施すべきだろう。児童ポルノ法などの規制は世界共通でどこでも厳しくなっているのだが、こうしたところで検挙できないとなるとバランスが取れない。



参照:
夜な夜な続く蚊との死闘 2016-07-26 | アウトドーア・環境
期待する三宅洋平効果 2016-07-10 | マスメディア批評
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インタヴュー、時間の無駄四

2016-08-03 | 
週末はとうとうチャイコフスキーに手を付けた。秋にボンで聞く交響曲五番のお勉強だ。恐らく生ではエフゲニー・ムラヴィンスキー指揮のレニングラード交響楽団演奏のそれ以来二回目になるだろう。そこでミリ―・バラキレフという、五人組の中の一人で数学の学徒の存在が浮かんできた。五月にパン屋への道すがらの車中チャイコフスキーのパラフレーズのようなものが管弦楽で流れていて、その作曲家だと知ったからだ。基本はロシアの民謡を集めたものらしいが、全くチャイコフスキーの主題のパラフレーズでしかなかった。そのままだったので、正直ショックだった。なぜそれについてあまり知らなかったのか?そもそもチャイコフスキーの曲にそれほど興味が無かったこともあるが、全くの片手落ちだったと気がついたからだ。Wikiなどを見ても交響曲四番絡みしか載っていない。情報が何か欠落している。

そこで、チャイコフスキーについても、もう少し指揮者キリル・ペトレンコに語って貰おう。


承前それでは、コーミッシェオパーで「イェフゲニー・オネーギン」をドイツ語上演するとなるととんでもない問題になりませんか?

先ずは、その通りです。慣れればそれでも何とかなります。「オネーギン」をここでやってからリヨンでもう一度やります。転換するのが難しいのです。それからもう一度ベルリンに戻って来ます。行ったり来たりです。つまり同じ音楽ですが、一度はドイツ語で、一度はロシア語でとなります。まあ、こう言えるでしょうか。ロシア語の「オネーギン」は一寸ドイツ語の「オネーギン」とは違うと。指揮者として、純粋に音楽的なテムポに言語を合わせるのではなくて、言語に合わせなければいけないということです。テキストのテムポは音楽の時間軸を定めます。チャイコフスキーやラフマニノフに対しては、永く朽ちた評価というものがありました。大げさで、キッチュなものだとです。

それは漸くよくなってきましたか?

チャイコフスキーに関しては、ここではまだまだそうした不理解に出合います。そのように音楽を解釈して、そのようにプレスに評論するというようにです。丁度、僕には、ギュンター・ヴァントがブルックナーについて語ったことに似ているように思います。彼は決して線香臭いものを欲しておらず、交響楽作家としてのブルックナーを提示しようとしていました。チャイコフスキーに関しても全くその通りなのです。誇張される大げさでも、ああ彼は同性愛者だった、神の思し召しを、涙涙の、永遠のノスタルジーといったものではないということです。馬鹿げてます。彼は交響曲を書きました。交響的な連関があり、展開があり、クライマックス、どん底、そしてそれらをすべて可能とする有機的なテムポがあるのです。勿論それらは、書物からではなく、心からの発露です。しかしですね、悪い解釈で、歪められて容易にキッチュとなるのですよ。

ロシアでは違うように扱われているということですか?

ええ、私たちにとってはそのものクラシック音楽ですからね。つまり、そこに規範があり、冷静な観察があります ― 勿論コンサートでということではなくて、準備としてですね。イェフゲニー・ムラヴィンスキー指揮レニングラードフィルハモニカ―のチャイコフスキー録音を聞いて、どうであるべきか直ぐに分かるでしょう。または西側の指揮者の15分長くかかる録音を聞いて、一寸そこは同意出来ないとか、気がつきます。またはラフマニノフの自作自演の協奏曲の古い録音を聞いてみましょう。そしてランランが今日弾いているものと比べる。ランランはもうお涙頂戴です。彼がラフマニノフを演奏すると、これはどうしようもない。ちょっと酷いです、僕にはそう感じます。それでも彼を叱っても仕方ないのです。才能があっても、何をしているのか彼は分かっていない。それに引き換え、ラフマニノフ自身はとても信じられないぐらい多くのルバートで演奏しています。要するに自由なテムポ設定で、演奏しています。しかしです、そのルバートに形式があるのです、厳格な。今日、これは不毛なセンティメンタルとすり替えられているのです、そこでは形式も無く、音楽の死ということです。これが、俗に言われる「ロシアの心」と呼ばれる舞台なのですよ。(続く


こうして読むと、私達が言うのと違って、単刀直入にこうした天才が語ると穏便に聞き流せない。単刀直入でオープンなキリル・ペトレンコがインタヴューで語り続けると天地がひっくり返る。少なくとも業界への影響は甚だしい  ― この指揮者のユダヤ社会との緊張を持った関係ともいえる。チェリビダッケのようにアウトサイダーとして、拗ねたことを語るのとは全く意味合いが異なる。だから正論を述べるだけ無駄なのだ、だから「インタヴュー、時間の無駄」なのである。

幸い乍ら、我々はマスメディアのような業界におんぶに抱っこしているようなメディアとは異なるものを持ち合わせている。そして音楽の語るところを、ライヴでそうしたメディアを通さずに判断することが出来るのだ。

実は、ムラヴィンスキーとチャイコフスキーに関してはかなり慎重に判断する必要があると思っている。勿論我々ムラヴィンスキーを生で知っている者は、彼がチャイコフスキーをロシアのクラシックと語っているのを覚えている筈だ。しかしそこで注意しなければいけないのは、この指揮者が体現していたのはプロレタリア独裁レアリズム芸術としてのロシア音楽であって、本来のそれからそぎ落とされているものが重要だと想像するところである。具体的には冒頭に述べたロシア民謡の扱いであり、キリル・ペトレンコのそれに期待するのはそうした正しいテムポなのだ。もう一つのヒントは、ストラヴィンスキーのデフォルメなどに見出されるのではないかとも思っている。



参照:
倭人を名乗るのは替え玉か 2016-07-04 | 歴史・時事
アクセスをインタープリート 2016-02-08 | 文化一般
インタヴュー、時間の無駄二 2016-07-24 | 歴史・時事
インタヴュー、時間の無駄一 2016-07-20 | 文化一般
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視線が絡むということ

2016-08-02 | 
パン屋の夏休みの間に結局二回しか「山登り」コースを走れなかった。気温が高いと厳しいの一言に尽きる。だから週の間で走る余裕などはなかった。一番最初に緑のベンチまで仮に走っただけだった。もう一度はワイン地所の上の縁を軽く駈けた。近所で気持ちよく牧草地を走れる場所である。出口の林の中に倒木があったりして、予想より時間が掛かり、1.8KMを16分も掛かった。それでも日差しを浴びると汗を十二分に掻いた。丁度ワインの町フォルストの上部を往復した感じで、ウンゲホイヤーの広さを感じるランである。

人の顔が思い出せないことがある。勿論特徴とかを押さえていれば再構築できるのだろうが、そうした素養の無い人にとっては、まるで印画紙のように映像的に脳裏に焼き付けていないとその顔を思い出せないことがある。なぜか愛しの女性の顔が思い出せないとなると悔しい。それが急に脳裏に焼き付くようになったのだ。そして不思議に感じていた。ユリアの顔立ちはそれほど特徴はない。心もち顎の出方も、歯科上は全く問題の無い程度であり、ドイツ女性としてはそれほど特徴にもならないほどのものであるが、そこだけでは全体の印象は掴めないのだ。

顎と言えばフランスの有名人気女優シャルロット・ゲンスボールのことをふと思い出した。子役の時から活躍しているこの女優の写真をみると、ローティーンの頃は顎辺りの特徴があっても口元が小さく収まっているのだが、成長すると口元が特に巨大化して、顎の先だけではなくて鰓が張り、鼻頭も張ってきて、全体のバランスが全く変わってきている。現在も歌手としても妖精的な少女風で舞台に出ていて、セックス映画「ニムフォマニア」と40歳過ぎてもそれで売っているのが凄い。個人的趣味としては口元が決め手になるので、なかなか女優さんなどでは我が条件に適うのを見たことが無いのである。

小ぶりな目鼻立ちや額当たりの感じもバラバラには特徴を掴んでいても、なぜか全体の印象としてまとまらないのだ。因みに私自身は歯科衛生士に顎当たりは褒められているが、日本で褒められたことはなかったのである。骨格が形成的に確りしているということだろうか。そして今、急に印象に残るようになったのである。何か髪型が特に変わったとか、特別に長く見つめ合ったとかではないので余計不思議に思ったのだ。そして時間が経過してもその印象は変わらずに今までには無かったほどその面影が残るようになって来た、

原因を探して色々と考えてみた。どうも彼女の瞳に我が姿が映って、それを無意識のうちに認めたのではないかと思う。すると印象に残ったのは彼女の顔では無しに我が姿となるのだが、これがまた興味深い。それにしても彼女の瞳に自分が映るというのはお互いのことで、言うならば視線が絡むというやつである。ここに来て一年ほど経ってから漸くこの感じになって来た。

視線が絡むというのは予想していた以上に深みのあるコンタクトであると今更の如く思う。同性の瞳では、故フォン・ヴァイツゼッカー大統領の瞳であるが、大臣か夫婦か誰かと歓談中だったのでほんの一瞬なのだが、その視線は強く脳裏に焼き付いて残り続けている。言うなれば視覚のセンサーをP2P直結したようなもので、時間差を置いて脳と脳の接触となっている。一瞬で人格深くを探れるというのはそういうことである。勿論これは動物と遭遇して目が合うのと似た感じがあり、特に異性関係となると特別な緊張感を孕むのだ。そう言えば追い詰めた猫の目も記憶にある。



参照:
手に取るポッケの小石 2016-07-19 | 女
危机と紙一重の良机の七十年 2015-07-21 | 歴史・時事
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