Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

ちぐはぐな夏の雰囲気

2016-07-14 | 雑感
予定通り、東海にヴァカンス中の指揮者ハルトムート・ヘンヒェンが急遽呼び出されて、バイロイト祝祭劇場で7月25日からの「パルシファル」を振る。月曜日であるので生放送を聞いてみたい。キャンセルしたアンドリス・ネルソンスのそれよりも興味深いかもしれない。

生放送するバイエルン放送協会のHPにも一連の事情が詳しいが、「辞めたネルソンスの音楽はポッチャリ過ぎる」と語られたように、どうもヘンヒェンの音楽は「脱パトスのヴァークナーでクールに響く」ようだ。演出もテロ絡みで問題となっているようだが ― 恐らくクンドリーに纏わるものだろう、どう考えてもネルソンスのそれでは上滑りしてしまっていたと思われる。そのようなところで、演出家との相性が悪かったともいわれるが、そもそもこの手の指揮者は高い音楽的な技能は持ち合わせていても、高度な芸術的な精華をあまり期待できないのである。

ヘンヒェンはそれどころか、自ら楽譜を持参して配っているというから、なかなかの変わり者のようで面白い。効率よく、練習を付けるためには自らのそれに合わせさせるのが一番早いだろうが、中々ああした殿堂に自らの柱を打ち立てるのは余程揺るぎないものを持ち合わせないと難しい。それでも「マイスタージンガー」などとは異なって、この劇場のために作曲されたものであるから、楽譜通りにやれば出来るという事らしい。

亡くなったモルティエー監督の言うように、舞台の動きを一緒に作っていくような指揮者はやはり舞台音楽には重要だということで、今回の演出家ライフェンベルクは、「ヘンヒェンが楽譜の歌を正確に読むことで緊張の弧を描ける」としていて、「ネルソンスでは全くそうはいかなかった」というのは理解できる。それはこのラトヴィア出身の指揮者のコンサートのプログラミングを見ているだけで、芸術的に興味が湧かないからだ。

如何にオペラの舞台監督というものが詰まらないことをやっているようでも、最低の技術的な職人的な仕事の上に、芝居としての流れとか構成感とかは音楽のそれとちぐはぐであっては公演自体の成果とはならない。その意味からは、唯我独尊的なマレク・ヤノフスキーの公演は失敗する可能性が強い。そもそもカストルフの演出は可成り上手にやらない事には舞台がガタガタしているだけに音楽も支離滅裂となりやすいからだ。劇場経験の少ない指揮者ではとんでもないことになるかもしれない。

話題の初代ヴァークナー祝祭劇場音楽監督ティーレマンは新聞などへのインタヴューで弁明しているようだが、同時にその手のメディアが同時に彼を叩いていて、昨年からの一連のパスキエ女史排斥との関連が背後にどうも敢えて押しやられている。丁度昨年と同じようにパスキエ女史によって指名された歌手への圧力が高まっていたという話である。我々部外者からすると、なぜそこまで拘る必要があったのかは分からないのだが、この傾向は明らかにティーレマンよりもカタリーナ・ヴァークナーの方の問題であって、これはとても謎である。

予想通り冷えてきた。それでも夜中に一匹の蚊と闘うことになった。お蔭で熟睡が出来なくなって、体調が優れない。夜中は殆どアルプスの夏のような気配だったが、まだそこまでは冷えていなかった。



参照:
倭人を名乗るのは替え玉か 2016-07-04 | 歴史・時事
水道水に癒されるこの頃 2016-07-02 | 雑感
木曜日は雪模様となるのか 2016-07-13 | 生活 

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