Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

インタヴュー、時間の無駄四

2016-08-03 | 
週末はとうとうチャイコフスキーに手を付けた。秋にボンで聞く交響曲五番のお勉強だ。恐らく生ではエフゲニー・ムラヴィンスキー指揮のレニングラード交響楽団演奏のそれ以来二回目になるだろう。そこでミリ―・バラキレフという、五人組の中の一人で数学の学徒の存在が浮かんできた。五月にパン屋への道すがらの車中チャイコフスキーのパラフレーズのようなものが管弦楽で流れていて、その作曲家だと知ったからだ。基本はロシアの民謡を集めたものらしいが、全くチャイコフスキーの主題のパラフレーズでしかなかった。そのままだったので、正直ショックだった。なぜそれについてあまり知らなかったのか?そもそもチャイコフスキーの曲にそれほど興味が無かったこともあるが、全くの片手落ちだったと気がついたからだ。Wikiなどを見ても交響曲四番絡みしか載っていない。情報が何か欠落している。

そこで、チャイコフスキーについても、もう少し指揮者キリル・ペトレンコに語って貰おう。


承前それでは、コーミッシェオパーで「イェフゲニー・オネーギン」をドイツ語上演するとなるととんでもない問題になりませんか?

先ずは、その通りです。慣れればそれでも何とかなります。「オネーギン」をここでやってからリヨンでもう一度やります。転換するのが難しいのです。それからもう一度ベルリンに戻って来ます。行ったり来たりです。つまり同じ音楽ですが、一度はドイツ語で、一度はロシア語でとなります。まあ、こう言えるでしょうか。ロシア語の「オネーギン」は一寸ドイツ語の「オネーギン」とは違うと。指揮者として、純粋に音楽的なテムポに言語を合わせるのではなくて、言語に合わせなければいけないということです。テキストのテムポは音楽の時間軸を定めます。チャイコフスキーやラフマニノフに対しては、永く朽ちた評価というものがありました。大げさで、キッチュなものだとです。

それは漸くよくなってきましたか?

チャイコフスキーに関しては、ここではまだまだそうした不理解に出合います。そのように音楽を解釈して、そのようにプレスに評論するというようにです。丁度、僕には、ギュンター・ヴァントがブルックナーについて語ったことに似ているように思います。彼は決して線香臭いものを欲しておらず、交響楽作家としてのブルックナーを提示しようとしていました。チャイコフスキーに関しても全くその通りなのです。誇張される大げさでも、ああ彼は同性愛者だった、神の思し召しを、涙涙の、永遠のノスタルジーといったものではないということです。馬鹿げてます。彼は交響曲を書きました。交響的な連関があり、展開があり、クライマックス、どん底、そしてそれらをすべて可能とする有機的なテムポがあるのです。勿論それらは、書物からではなく、心からの発露です。しかしですね、悪い解釈で、歪められて容易にキッチュとなるのですよ。

ロシアでは違うように扱われているということですか?

ええ、私たちにとってはそのものクラシック音楽ですからね。つまり、そこに規範があり、冷静な観察があります ― 勿論コンサートでということではなくて、準備としてですね。イェフゲニー・ムラヴィンスキー指揮レニングラードフィルハモニカ―のチャイコフスキー録音を聞いて、どうであるべきか直ぐに分かるでしょう。または西側の指揮者の15分長くかかる録音を聞いて、一寸そこは同意出来ないとか、気がつきます。またはラフマニノフの自作自演の協奏曲の古い録音を聞いてみましょう。そしてランランが今日弾いているものと比べる。ランランはもうお涙頂戴です。彼がラフマニノフを演奏すると、これはどうしようもない。ちょっと酷いです、僕にはそう感じます。それでも彼を叱っても仕方ないのです。才能があっても、何をしているのか彼は分かっていない。それに引き換え、ラフマニノフ自身はとても信じられないぐらい多くのルヴァートで演奏しています。要するに自由なテムポ設定で、演奏しています。しかしです、そのルヴァートに形式があるのです、厳格な。今日、これは不毛なセンティメンタルとすり替えられているのです、そこでは形式も無く、音楽の死ということです。これが、俗に言われる「ロシアの心」と呼ばれる舞台なのですよ。(続く


こうして読むと、私達が言うのと違って、単刀直入にこうした天才が語ると穏便に聞き流せない。単刀直入でオープンなキリル・ペトレンコがインタヴューで語り続けると天地がひっくり返る。少なくとも業界への影響は甚だしい  ― この指揮者のユダヤ社会との緊張を持った関係ともいえる。チェリビダッケのようにアウトサイダーとして、拗ねたことを語るのとは全く意味合いが異なる。だから正論を述べるだけ無駄なのだ、だから「インタヴュー、時間の無駄」なのである。

幸い乍ら、我々はマスメディアのような業界におんぶに抱っこしているようなメディアとは異なるものを持ち合わせている。そして音楽の語るところを、ライヴでそうしたメディアを通さずに判断することが出来るのだ。

実は、ムラヴィンスキーとチャイコフスキーに関してはかなり慎重に判断する必要があると思っている。勿論我々ムラヴィンスキーを生で知っている者は、彼がチャイコフスキーをロシアのクラシックと語っているのを覚えている筈だ。しかしそこで注意しなければいけないのは、この指揮者が体現していたのはプロレタリア独裁レアリズム芸術としてのロシア音楽であって、本来のそれからそぎ落とされているものが重要だと想像するところである。具体的には冒頭に述べたロシア民謡の扱いであり、キリル・ペトレンコのそれに期待するのはそうした正しいテムポなのだ。もう一つのヒントは、ストラヴィンスキーのデフォルメなどに見出されるのではないかとも思っている。



参照:
倭人を名乗るのは替え玉か 2016-07-04 | 歴史・時事
アクセスをインタープリート 2016-02-08 | 文化一般
インタヴュー、時間の無駄二 2016-07-24 | 歴史・時事
インタヴュー、時間の無駄一 2016-07-20 | 文化一般
ジャンル:
文化
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