パン屋が夏休みに入った。これで再開の八月一日までは、違う場所で走ることになる。厳しい坂は億劫だがまた違う景色と心拍計で遊べるかもしれない。二週間で何回頂上まで走れるか。
バルトークの第一ヴァイオリン協奏曲を聞いた。遺作となっていて、読むと26歳の時の作曲で、献呈して初演する筈の女流ヴァイオリニストに拒絶されてお蔵になっていたとある。だから初演は戦後のバーゼルで、パウル・ザッヒャー指揮でカールハインツ・シュネーベルガー演奏となっている。シュネーベルガー氏は、いつもヴァイオリンを抱えたスイスの爺さんだと一緒になった食事の席などでも思っていたが、まさか1958年にこのような名曲を初演しているとは知らなかった。生年月日を見ると90歳になっている。
今回聞いた資料は、ギドン・クレメルが弾いて、ブーレーズ指揮ベルリナーフィルハーモニカ―が付けているものだ。クレメルの譜読みはペトレンコなどのそれに近く、アンダンテの八分の六拍子の後半をしっかりと弾いているが、ハンガリーのリズムは少し違うような気がしないでもない。ブーレーズも着かず離れずで無難な演奏をしていると思うのだが、全集録音の一貫であって、それなりの言い分はあるに違いない。少なくともBBCとの「青髭公」などのような鮮烈さはここには無い。
この曲が出版されなかった反面、編曲されて「二つのポートレート」の第一曲になっている。確かその曲も記憶にあるので、記憶を辿ると、指揮者クリスト・フォン・ドホナーニがフィラデルフィアでも演奏していたと思い、カセットテープを探してみると、ヴィーナーシムフォニカーとの1985年1月のコンツェルトハウスの演奏会の録音があった。これまた資料が手元にあって助かる。失恋の厳しさが伝わるエピソードだ。若い男性らしい感情であるが、年齢が嵩むとその痛みも感じなくなってしまう。鈍感な分だけ、くすれ火のようになかなか火がつかないのも情けないことである。
ユリアが髪を短くしていた。ポニーテール側を短くして小ざっぱりとしていて、結ってあるので顔が小さくコムパクトになって、可愛さが増した。フランス女性のコケットさはないが、その分清潔感が際立って好ましい。そしてクシャミをするのをみていて驚いてしまった。なんと今時珍しく、音も無しにくしゃみをする仕草が、とても可愛らしいのだ。
我がマドンナ面々を思い起こせば、この手の女性はいなかった。美人タイプやコケットやおしゃま女や可愛子ちゃんタイプなどはいたのだが、彼女はこれには当てはまらない。敢えて分類すれば知的ながら童女的な穏やかな女性だろうか。意外にこのタイプがいなかったのだ。なるほど彼女の前ではこちらも童子に戻ったような気持ちになってしまうところがあるのだ。どうも彼女の方もその感じが気持ちよいらしい。そう言えば彼女もおばさんたちにも受けが良さそうだ。普通ならばあれだけ彼女に好意を示されると、こちらもふにゃふにゃになってしまうところがならないのは、そうしたところにあるのかもしれない。
彼女も同じ気持ちとすれば、幼稚園時代を思い起こして、それ風に口説いて行かないといけないとなる。半ズボンのポケットから綺麗な石をそっと取って見せるような風にである。なにか結構いい感じの恋愛だなと感じる気持ちのよい夏である。
今日の音楽:ブラームス交響曲四番第二楽章アンダンテ
参照:
まるでとても可愛い男の子 2016-03-01 | 女
必然的帰着からの予想 2016-07-16 | 雑感
バルトークの第一ヴァイオリン協奏曲を聞いた。遺作となっていて、読むと26歳の時の作曲で、献呈して初演する筈の女流ヴァイオリニストに拒絶されてお蔵になっていたとある。だから初演は戦後のバーゼルで、パウル・ザッヒャー指揮でカールハインツ・シュネーベルガー演奏となっている。シュネーベルガー氏は、いつもヴァイオリンを抱えたスイスの爺さんだと一緒になった食事の席などでも思っていたが、まさか1958年にこのような名曲を初演しているとは知らなかった。生年月日を見ると90歳になっている。
今回聞いた資料は、ギドン・クレメルが弾いて、ブーレーズ指揮ベルリナーフィルハーモニカ―が付けているものだ。クレメルの譜読みはペトレンコなどのそれに近く、アンダンテの八分の六拍子の後半をしっかりと弾いているが、ハンガリーのリズムは少し違うような気がしないでもない。ブーレーズも着かず離れずで無難な演奏をしていると思うのだが、全集録音の一貫であって、それなりの言い分はあるに違いない。少なくともBBCとの「青髭公」などのような鮮烈さはここには無い。
この曲が出版されなかった反面、編曲されて「二つのポートレート」の第一曲になっている。確かその曲も記憶にあるので、記憶を辿ると、指揮者クリスト・フォン・ドホナーニがフィラデルフィアでも演奏していたと思い、カセットテープを探してみると、ヴィーナーシムフォニカーとの1985年1月のコンツェルトハウスの演奏会の録音があった。これまた資料が手元にあって助かる。失恋の厳しさが伝わるエピソードだ。若い男性らしい感情であるが、年齢が嵩むとその痛みも感じなくなってしまう。鈍感な分だけ、くすれ火のようになかなか火がつかないのも情けないことである。
ユリアが髪を短くしていた。ポニーテール側を短くして小ざっぱりとしていて、結ってあるので顔が小さくコムパクトになって、可愛さが増した。フランス女性のコケットさはないが、その分清潔感が際立って好ましい。そしてクシャミをするのをみていて驚いてしまった。なんと今時珍しく、音も無しにくしゃみをする仕草が、とても可愛らしいのだ。
我がマドンナ面々を思い起こせば、この手の女性はいなかった。美人タイプやコケットやおしゃま女や可愛子ちゃんタイプなどはいたのだが、彼女はこれには当てはまらない。敢えて分類すれば知的ながら童女的な穏やかな女性だろうか。意外にこのタイプがいなかったのだ。なるほど彼女の前ではこちらも童子に戻ったような気持ちになってしまうところがあるのだ。どうも彼女の方もその感じが気持ちよいらしい。そう言えば彼女もおばさんたちにも受けが良さそうだ。普通ならばあれだけ彼女に好意を示されると、こちらもふにゃふにゃになってしまうところがならないのは、そうしたところにあるのかもしれない。
彼女も同じ気持ちとすれば、幼稚園時代を思い起こして、それ風に口説いて行かないといけないとなる。半ズボンのポケットから綺麗な石をそっと取って見せるような風にである。なにか結構いい感じの恋愛だなと感じる気持ちのよい夏である。
今日の音楽:ブラームス交響曲四番第二楽章アンダンテ
参照:
まるでとても可愛い男の子 2016-03-01 | 女
必然的帰着からの予想 2016-07-16 | 雑感
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