日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

沖縄文化紀行(Ⅱ―1) コンクリートの沖縄

2006-11-08 14:57:28 | 沖縄考

文化人類学を学ぶ大学院生と教授に同行した今年の「沖縄の旅」は、昨年にも増して楽しくもあり考えることも多い5日間だった。今年の旅・研究テーマは興味深い「風水」なのだ。が・・・

この一ヶ月は、トルコ、札幌、新潟、大阪と息つく暇もない旅に明け暮れることになり、その最後が沖縄になった。
その間を縫って「二人の家」の上棟式に出て形になってきた家に胸を震わせ、JIAアーキテクツガーデンで敬愛する建築家林昌二さん写真家の村井修さんと鼎談を行い、デジタルアーカイブ、DAASの委員会に出るなど、何故このようなことになってしまったのか自分でもわからないまま歩き回った。
だからくたびれ果てたイスタンブールでは、港に座り込んで2時間あまり人の行き交う様をボーっと眺めながら、取りとめもないことをぼんやり考えたりすることになった。札幌の北大植物園でも、芝生に座り込んで写生をしている人たちを、こちらはベンチに腰掛けて眺めたりもした。其れがなんとも楽しく面白い。

そうやっていて確信したことがある。
旅は「人の生きること」を確認する作業だということを。
旅に出ると自分が傍観者だということに気がつく。傍観者だから人を眺めるのが面白いのかもしれない。
いや旧知の人に会う喜びがある。時間を介して会うと和やかで穏やかな空気が漂い始めるのだ。無論新しい出会いもあるが、次の旅では旧知といいたくなるだろう。時を共有するのは少しく大人の体験だ。
傍観者だけでもない、「旅」。いいコトバだ。

そして建築家の僕はやはり建築の有様が気になってくる。建築は人の生きることを具現化していると改めて感じるからだ。さてその沖縄の建築は・・・

この風化した穴あきコンクリートブロックの写真を見せて「これが沖縄だ」といったら沖縄の人に嫌な顔をされるだろう。でも使われなくなったこの婦人科医院の外壁を覆いつくした遮光と通風と装飾を考えたブロックはなかなか魅力的で、こだわった建築家の感性を汲み取ることが出来る。
しかし覆われた内部はすべてここから差し込む光によって外部と繋がるが、鬱陶しくはないだろうか。さわやかな風を誘い込むとは思えない。それに年々劣化して汚れ始める。メンテは難しそうだ。金を掛けない建築に金をかけてメンテをする気持ちになるだろうか。そして放置されてしまう。

沖縄の建築の多くは、コンクリートとこのようなブロックの組み合わせで作られている。赤瓦の、沖縄に来たことを実感する住宅も、瓦の下はコンクリートブロックかコンクリートの壁なのだ。沖縄の都市はこういう建築で覆い尽くされているともいえる。

戦後の米軍キャンプ建築群に影響されて使われ始めたコンクリートブロックとコンクリートによる住宅は、あっという間に台風に悩む沖縄の人々に受けいれられた。沖縄には木造の建売住宅がない。全て「コンクリート流し込み住宅」だ。そして一様に同じような形態を取る。
しかし概して夏は暑く、冬は寒い。つまりコンクリート内に蓄積された熱や冷気が簡単には室内のコントロールを許さないのだ。

沖縄の都市の抱える課題のひとつは、このコンクリート建築だ。でも沖縄人は其れが課題だとは考えていないのかもしれない。
だって沖縄の人はコンクリートで家を作り続けているのだから。なんとなくバナキュラーっぽい建築群、沖縄にしかないこの都市景観が妙に気になり始めた。
ふと木造住宅に埋め尽くされた東京の街の姿が頭の隅をよぎる。