日々・from an architect

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―建築は誰のものか(Ⅱ)― 京都会館の存続の課題

2012-07-06 14:36:26 | 建築・風景

「岡崎公園と疎水を考える会」から、メッセージを寄せてほしいとの依頼があった。送付した一文に少し手を入れてここにも記載しておきたい。京都会館改修計画は建築家香山壽夫氏である。

香山氏の「京都会館再整備(工事に関わる)基本設計の総括」によると、京都会館再整備の目的は(要約、)「これまで長く市民に愛され、親しまれ、また専門家にも高く評価されてきたこの建築の、優れた特質を尊重し、保ちつつ、さらに今後長く、生きて使われる建物として存続できるよう、必要な保守・改良の手を加えること」だとする。
その結果が、京都市の2011年3月に京都市が策定した「京都会館再整備基本計画」の下記三点だと明言する。
(1) 第一ホールは建て替える。
(2) 第2ホールおよび会議棟は保存・改修する。
(3) 会館全体を一体的に、そしてより活発に、利用できるよう諸空間、諸機能を拡充・向上させる。
しかし、香山氏の論旨は上記(1)によって既に論理矛盾している。市民に愛され、親しまれた建築を継承すると述べたそのあとで、取り壊して建て替えるといいうのだ。香山氏の、前川國男が風土に目を向けて腐心して抑えた高さの制限を撤廃して策定した計画案と温室のような(発表された計画案パースによる)囲いが建築の主体者市民の批判を浴びている。

―岡崎公園と疎水を考える会へのメッセージ―「建築は誰のものだ」
京都会館問題を考えるときに「建築は誰のものだ」という命題が浮かび上がる。個人の住宅であっても人々の生活に影響を及ぼす「まち」を構成するので「市民のものだ」と言いたいが、さまざまな課題が浮かび上がってきて、短絡的には言い難い。しかし少なくとも公共建築の所有権は市民にあると言い切りたい。同時に建築は、設計する「建築家のもの」でもあるといえるのかと問いたい。僕の答えは「NO」である。
つくられた建築が時を経ておおぜいの人々の共感を得てそこにあるのが当たり前の景観となり、まぎれもなく「市民のものだ」と認知されて「建築家のもの」にもなるのだと考える。

1960年に前川國男によって建てられた京都会館は、50年を経て前川國男のものになり、この度の事件(事件と言いたくなる)で紛れもなく市民権の確認を得た。東山を望む風土を汲んで広場をつくり、高さや形態、材質感に配慮し、さらにピロティによって、行き交う「市民と前川という建築家」の建築になったのである。

そういう建築であっても使い続けるためには、時代と場所に対応した手入れをする必要がある。
前川の育んできたオーセンティシティ(価値)を検証し、市民の意を受けることになる。ことに改修を担当する建築家にその認識がなくてはいけない。またその実現のための仕組みにも取り組む必要があると拝察する。

さまざまな課題が顕在化して、新たに武庫川女子大学建築学科長岡甚幸教授が委員長による建築の在りかたを検証する委員会「京都会館の建築勝ち継承に関わる検討委員会」がつくられ、この建築の価値の、つまりオーセンティシティティの検証がなされた。
提案された基本計画案は、この建築に敬意を表してオーセンティシティに対応した提案とはいえないと委員の大半がそう表明したが、この委員会の意向が反故にされたと嘆く状況は異様である。詳しい状況はよくわからないが、提案された基本計画に対してその是非や担当する建築家とのやり取りのできる(検証する)次の段階の委員会設置を、委員長主導によって構築する必要があったのではないだろうか。基本計画が提案された現在(いま)からでも遅くない。

現段階では、この建築は改修担当する建築家のものではないのである。まして、市長や議員、そして市の担当職員のもの、またオペラハウスにすることを条件に資金を提供するという企業のものでもないのである。 

<写真 京都会館第一ホール>