光年・千年

纏わりつくが、纏まらないおはなし、日記ふう。

新緑のもと、地下水道

2008-04-28 19:00:10 | 散策
  ときどきであるけれど、昔に比べて木の数が少なくなったということを、強く思う。目の前にあった、杉の大木が、丸3年かあるいはもう少し前の台風で無残に倒れたときは、その木の弱さみたいなものが出て、これが現実かと思ったりもした。しかし、その風はいつもと反対からの風で、それで、あっけなく長い間防風林として役立ってきた、その木は倒れて、それからはそのことが気になって、ついに、杉らしき木はみんな切ってしまった。これなども、今思うともう少し考えようもあると思うが、そのときはなるほど、しょうがないかとも思った。でも、それはやはりやりすぎで、ある程度の高さを残して、切るのがよかったようだ。
  最近は、杉ということで、花粉症の元凶のように言われる。この人の症状も、それまでには、あまり無かった。で、出始めのときは、風邪で済ましたし、しっている方は、それがかなり昔からあることもわかっていて、しかしなぜ今頃になって、その症状が出るのか、不思議でもある。私もこの症状が出たのはすでに学生を卒業していた。新緑のいかにもすがすがしい若葉を見て、この緑のもとはなど、やっぱり思うし、ばっさばっさ、切り取られた、古木の杉の切り株を見て、どうも悪いことをしたものだ、など思う時もある。

  水の話しというのもある。水道水ではなく、地下水。こちらには、若干ロマンというものを感じる。湧き水である。名水など言われると、それを飲みたいなど思うこともあるし、ときに歩いていて、山道ではなく、普通にわき水が出ていて、コップか、ひしゃくが置いてあれば、一口飲んでみたい、そいゆう気にもなる。
  名水というと、そこに人が集まる。これも、あまり望まれるものではないようで、人知れず歩いていると、そこに湧き水があるとまことに今日はいい日であった、など思うのは間違いがない。でも、今はそうゆうものもなかなか出会わない。水辺の道、山里の道、昔と変わらないところ。これはもしかしたら大都市の回りの、少し鄙びた道辺りには、今も残っているような気がする。
  人も水も飲むが、大木も潅木も水を求めている。大木があると、その下には地下水が流れているかも知れない。そう思うことは何度かあって、同じようなことを書いている。昔からの大木は減ったが、鎮守の森の下、どこかの集落の片隅、あるいは旧家の庭の大木の下には、地下水が流れている。そして、その大木は、あるいは周りの木々は、どの程度その水を吸い上げているか、きっとかなりな量になる。それこそ、プールの水など、一気になくなってしまいそうである。川に流れる水、それから、地面に残る水。地下にもぐって、長い長い間地面の奥深く旅する水を考えてみる。それから、

  新緑のもとというと、これは光合成の原理から、もう一つ忘れてはいけないもに、炭酸ガスがある。もし、炭酸ガスが無かったらどうなるか。無論、ありすぎてもいけないことは、強調されている。しかし、この気体の二酸化炭素がないと、太陽のエネルギを植物は、あるいは一部の細菌なども、固定出来ないのもこれも明らかなのである。なかなか、調和を保った時代のあり方が、存在出来ないのはなぜ、などこの緑を見つつ、毎度のことだが、反復して思う。

  これで、いくつかの木が登場する、お膳立ては出来たかどうか知らない。そんなものは要らなかったかも知れない。




  梅の木。今はこの木の実が、非常に小さいが出来ている。




  なかなか見かけない、そうゆう美しい木を見る。何の木だろうか。お庭にあるもの。借景。




  この木は、かなり大きい。よく街路樹にある。その木をよく見かけるが、これだけのものはなかなかない。




  ちょうど、まともにお日様に当たっていて、実際はもう少し赤いカエデも、変化する。下側の赤い色がお馴染みである。

フキノトウの今

2008-04-28 16:52:48 | 植物・花(春)
  フキノトウだって、そんなものがまだあるの。
  自分でそう思ったりもするが、やっぱりそれはフキノトウ。
  
  木の影になって見えなくなっていたが、そのフキノトウは、
  おじいさんになっていました。




  お行儀のいい写真ですね。オリジナルをそのまま縮小しました。
  右上に、ぼんやり全体のものが見えています。
  
  これを、拡大すると、



  
  これだけ見ると、何がなんだかわかりませんね。
  フキノトウが、よんでくれたのかも知れません。  

朝の湖面を眺める

2008-04-28 07:15:41 | 散策
  朝のお天気、雲の多い晴れ。太陽が顔を出したり、引っ込めたり、忙しい。きのうの強風が嘘のような、静かさ。また、吹くかも知れないけれど。室温、14℃、さっき顔を外に出したら南の風が冷たい。見るのと、感じるのは違う。

  TVを見ている。聴いたりもする。でも、ラジオに耳を傾けるときが多く、でもそれに集中すると、どうも何事もおろそかになるので、ときにボリュームをしぼる。でも、やっぱりラジオはいい。そのラジオも、電気ヒータやら、PCやら、ルータやら、別個においてあるディスクのオン・オフ、自分がいるかいないか、あるいは、あからさまにアンテナを手で握るかいなかによって、雑音が入り、その程度も変調する。この雑音が、ときにシャクにさわる。お天気が怪しくても、そのようになる。ジージーいう雑音が入る、ラジオによって天気の様子もわかりそうだ。

  湖面、懐かしい言葉で、また懐かしいそのもので、最近見たことがない。まったく、いったいいつに、湖というものを見て、それから見ていないか、覚えていない。そのサイズをずっと小さくして、せいぜい25mプールくらいにすると、そのようなものだと、お城のお堀が、最近見た水面かも知れない。
  そのお堀に波は立っていなかった。ここにポチャンと石でも投げたいが、しかしそれをやる気にもならない。それで、本物の湖面を想像すると、そこにはモーターボートが走る。かなりの勢い。ジェット噴射式かも知れない。その後には、波しぶきが残り、さらに線上の波は段々横に広がっていく。果てしなく、広がるようで、これの拡大版が津波だが、再び、モーターボートの波に戻ると、その波によって、湖面の陸に近いところに生えている、蘆をゆらゆらと揺らす。この蘆はたくさん生えているから、一斉にゆらゆらと揺れる。この蘆は、風によってもゆらゆら揺れて、モーターボートと、風の揺れによって、その動きはさらに複雑になるかも知れない。

  なかなか、朝の湖面の光景というものも素晴らしいもので、本物を見ていると、少しめまいを覚えるような気がする。電波というのも、AMでもFMでもいいが、ラジオの電波というものも、このようにして伝わると説明されているものを読むことがあった。ここでようやく、湖面の揺れと、ラジオが結びつく。それで、雑音に相当するものは、何かというと、小学生か中学生の、まだまだ元気な子供さんが、向きになって、石の投げ合いをする。何回湖面をたたくか競争する。そうゆうものが、たまに蘆の揺れに影響して、その振動に変調を与える。それが、雑音ではないか。これまた、想像である。

  電波、電磁波というものも、ずいぶんと長い間その正体を間違って認識されていて、よってこれをごくごく簡単に理解するのはむつかしい。よって、これはもうあまり考えないことにして、ラジオに耳を傾ける。これが一番いいようで、お気に入りのDJさんが登場する、アナウンサがおしゃべりするときは、静聴する。いっときの安寧の時間がここにあり、また湖面の揺れも思い出すことが出来る。