ときどきであるけれど、昔に比べて木の数が少なくなったということを、強く思う。目の前にあった、杉の大木が、丸3年かあるいはもう少し前の台風で無残に倒れたときは、その木の弱さみたいなものが出て、これが現実かと思ったりもした。しかし、その風はいつもと反対からの風で、それで、あっけなく長い間防風林として役立ってきた、その木は倒れて、それからはそのことが気になって、ついに、杉らしき木はみんな切ってしまった。これなども、今思うともう少し考えようもあると思うが、そのときはなるほど、しょうがないかとも思った。でも、それはやはりやりすぎで、ある程度の高さを残して、切るのがよかったようだ。
最近は、杉ということで、花粉症の元凶のように言われる。この人の症状も、それまでには、あまり無かった。で、出始めのときは、風邪で済ましたし、しっている方は、それがかなり昔からあることもわかっていて、しかしなぜ今頃になって、その症状が出るのか、不思議でもある。私もこの症状が出たのはすでに学生を卒業していた。新緑のいかにもすがすがしい若葉を見て、この緑のもとはなど、やっぱり思うし、ばっさばっさ、切り取られた、古木の杉の切り株を見て、どうも悪いことをしたものだ、など思う時もある。
水の話しというのもある。水道水ではなく、地下水。こちらには、若干ロマンというものを感じる。湧き水である。名水など言われると、それを飲みたいなど思うこともあるし、ときに歩いていて、山道ではなく、普通にわき水が出ていて、コップか、ひしゃくが置いてあれば、一口飲んでみたい、そいゆう気にもなる。
名水というと、そこに人が集まる。これも、あまり望まれるものではないようで、人知れず歩いていると、そこに湧き水があるとまことに今日はいい日であった、など思うのは間違いがない。でも、今はそうゆうものもなかなか出会わない。水辺の道、山里の道、昔と変わらないところ。これはもしかしたら大都市の回りの、少し鄙びた道辺りには、今も残っているような気がする。
人も水も飲むが、大木も潅木も水を求めている。大木があると、その下には地下水が流れているかも知れない。そう思うことは何度かあって、同じようなことを書いている。昔からの大木は減ったが、鎮守の森の下、どこかの集落の片隅、あるいは旧家の庭の大木の下には、地下水が流れている。そして、その大木は、あるいは周りの木々は、どの程度その水を吸い上げているか、きっとかなりな量になる。それこそ、プールの水など、一気になくなってしまいそうである。川に流れる水、それから、地面に残る水。地下にもぐって、長い長い間地面の奥深く旅する水を考えてみる。それから、
新緑のもとというと、これは光合成の原理から、もう一つ忘れてはいけないもに、炭酸ガスがある。もし、炭酸ガスが無かったらどうなるか。無論、ありすぎてもいけないことは、強調されている。しかし、この気体の二酸化炭素がないと、太陽のエネルギを植物は、あるいは一部の細菌なども、固定出来ないのもこれも明らかなのである。なかなか、調和を保った時代のあり方が、存在出来ないのはなぜ、などこの緑を見つつ、毎度のことだが、反復して思う。
これで、いくつかの木が登場する、お膳立ては出来たかどうか知らない。そんなものは要らなかったかも知れない。
梅の木。今はこの木の実が、非常に小さいが出来ている。
なかなか見かけない、そうゆう美しい木を見る。何の木だろうか。お庭にあるもの。借景。
この木は、かなり大きい。よく街路樹にある。その木をよく見かけるが、これだけのものはなかなかない。
ちょうど、まともにお日様に当たっていて、実際はもう少し赤いカエデも、変化する。下側の赤い色がお馴染みである。
最近は、杉ということで、花粉症の元凶のように言われる。この人の症状も、それまでには、あまり無かった。で、出始めのときは、風邪で済ましたし、しっている方は、それがかなり昔からあることもわかっていて、しかしなぜ今頃になって、その症状が出るのか、不思議でもある。私もこの症状が出たのはすでに学生を卒業していた。新緑のいかにもすがすがしい若葉を見て、この緑のもとはなど、やっぱり思うし、ばっさばっさ、切り取られた、古木の杉の切り株を見て、どうも悪いことをしたものだ、など思う時もある。
水の話しというのもある。水道水ではなく、地下水。こちらには、若干ロマンというものを感じる。湧き水である。名水など言われると、それを飲みたいなど思うこともあるし、ときに歩いていて、山道ではなく、普通にわき水が出ていて、コップか、ひしゃくが置いてあれば、一口飲んでみたい、そいゆう気にもなる。
名水というと、そこに人が集まる。これも、あまり望まれるものではないようで、人知れず歩いていると、そこに湧き水があるとまことに今日はいい日であった、など思うのは間違いがない。でも、今はそうゆうものもなかなか出会わない。水辺の道、山里の道、昔と変わらないところ。これはもしかしたら大都市の回りの、少し鄙びた道辺りには、今も残っているような気がする。
人も水も飲むが、大木も潅木も水を求めている。大木があると、その下には地下水が流れているかも知れない。そう思うことは何度かあって、同じようなことを書いている。昔からの大木は減ったが、鎮守の森の下、どこかの集落の片隅、あるいは旧家の庭の大木の下には、地下水が流れている。そして、その大木は、あるいは周りの木々は、どの程度その水を吸い上げているか、きっとかなりな量になる。それこそ、プールの水など、一気になくなってしまいそうである。川に流れる水、それから、地面に残る水。地下にもぐって、長い長い間地面の奥深く旅する水を考えてみる。それから、
新緑のもとというと、これは光合成の原理から、もう一つ忘れてはいけないもに、炭酸ガスがある。もし、炭酸ガスが無かったらどうなるか。無論、ありすぎてもいけないことは、強調されている。しかし、この気体の二酸化炭素がないと、太陽のエネルギを植物は、あるいは一部の細菌なども、固定出来ないのもこれも明らかなのである。なかなか、調和を保った時代のあり方が、存在出来ないのはなぜ、などこの緑を見つつ、毎度のことだが、反復して思う。
これで、いくつかの木が登場する、お膳立ては出来たかどうか知らない。そんなものは要らなかったかも知れない。
梅の木。今はこの木の実が、非常に小さいが出来ている。
なかなか見かけない、そうゆう美しい木を見る。何の木だろうか。お庭にあるもの。借景。
この木は、かなり大きい。よく街路樹にある。その木をよく見かけるが、これだけのものはなかなかない。
ちょうど、まともにお日様に当たっていて、実際はもう少し赤いカエデも、変化する。下側の赤い色がお馴染みである。