あまりというか、滅多に空を眺めることもなくなる。もともと、そう星空を眺めていた気もしない。子供の時の図鑑の影響で、星にも色々あるようなことが書かれていて、それで多少興味を持った。それから、あまり進歩はない。
有体にいって、大体お昼と夜の、明るさの違いがはなはだしいのである。それで、普段はもう蛍光灯もあったし、TVもあった。夜はお昼より明るいようで、まずはそのTVを見てから、それから星を眺めるというのもなかなかないものである。でも、その当時は、やっぱり今よりも外は暗かった。これは確か。時代も違うが、場所も違う。田舎というところに住んでいて、外に出るとかなりの星が見えていた。そのはずである。今でこそ、星降る里、星のよく見える百選の場所などがファッションにもなるけれど、昔は少し街から離れるとどこでも、見ようと思えば星は見えた。ただ、まだまだ子供である。何か核になる気持ちもないから、そのうち、星を見ることもなくなる。一体に、いつの時代まで、ちょっと都会から離れると、そこそこの星が見えたか、どうも1980年代が、前半がその境目になるような気もするが、この辺はなんとも言えない。
機動力のある人は車で、より高い、より暗いところに行っていた。その当時も、すでにいくらでも車で山に登って、そこでどっこいしょと、撮影用の装置などを組み立てて、それから、電気関係も、暖房関係も用意した。もしかしてマイコン制御という代物も登場していたかも知れない。
いくつかの、星空関係のピークがあって、一つは、「池谷・関彗星」の発見であって、このときに、星空にとりつかれた人はかなり多いはずである。まだまだ、星空は、手元に自分のコントロール出来る範疇にあった。その後しばらくして、アマチュア天文家の写真撮影に関する執念と技術とは富に進歩して、メシエ天体などは、もはやすべて写真に撮り尽くしてしまい、
それ以外に、より狭い場所にある、より昔の天体、星雲星団、銀河、銀河集団、小宇宙、小宇宙群、・・・、限りなく、狭い遠い時間の天体も、アマチュアの方が写真にしてしまって、これではプロの天文学者の方も、特に、太陽系に関する研究者の方々は、何々彗星はどこにあるか、それを調べるのにまず一番に、アマチュアの天体写真家の方に、その位置を教えてもらうことにしたといわれる。
それにしても、その当時のアマチュアの方の天体に関する撮影の技術の進歩はすごく、また、そこに出てくる、何億光年先の銀河の集団、小宇宙のようなものの写真は今思い出しただけで、身震いするほどすごいものがあった。これには、当然ついていけなかったが、問題は、宇宙の構造の方にもあるようで、結局二つの壁が立ちはだかって、アマチュアの方に、かなりレベルの差が出来てしまった。
ハレー彗星などが、ついに人工衛星で探査されるようになった、1986年から87年にかけても、また多くの方が星に、天体に、宇宙に興味を持たれたようであるけれど、それからもう20年の歳月が流れたが、今はどちらかというと、宇宙の出来事をイベントとして捉えることが主立っていて、さてはて、人の宇宙に関する理解は深まったかというと、これはなかなかむつかしい。
自分のことを少し振り返ると、やっぱりときどきに思い出したように、星を見たり、また、何十億年前の星の光が、肉眼で見えていた可能性があるという記事に、少しびっくりする程度で、この宇宙というものも不可解のままで、理解の程度も断片的で、また大きく勘違いしていることも多々あると思う。ミステリ、あるいはロマンという言葉が、まだ自分の中に生きているが、残念で、これまでの多くの方の、極限状況における行動というものを今こそ、振り返ってみたいとも思う。
冥王星はもはや、惑星ではなくなって、ただの一つの天体に過ぎなくなったが、発見者のトンボーの苦労を今また思い出さざるを得ない気持ちにもなる。
星空を見上げるのはなかなかにむつかしい。それで、地上の星でもないけれど、天上の星に一番似ているのが地上の花のようにも思える。
自然と生えてくる花、人の手で、十分にかわいがられた花、様々だが、花はものも言わないし、ただただ、季節が来れば、ある条件が来れば、咲いてくれる。これを見て、美しいと思う。また、その花も無口であるし、何かを主張している感じもしない。咲いている花、咲かない花もあって、これは星空の鏡にも似ていると思う。
シャガの花が、日当たりのいいところで、小さめのものが今年も目に入った。
かなり明るいと、回りはずいぶんと暗く写る。これなどは、人の目と見え方が著しく違う。こうゆうのが、目を引いてしまう。
少しコントラストが強すぎるかも知れないが、これも花を浮き出させる。
後ろ側に、近いところに、葉っぱなどがあると、この花もおばけではないことがわかる。
これからの花。
シラン。もう少し雨が、そう雨が欲しいのである、降れば、あと1週間くらいで咲く?、足りないかな。
5枚の花弁を付ける、ヤマブキは今はもう退色しているが、八重のヤマブキはまだ蕾が出来ている状態。これは、いつもと同じのようである。
有体にいって、大体お昼と夜の、明るさの違いがはなはだしいのである。それで、普段はもう蛍光灯もあったし、TVもあった。夜はお昼より明るいようで、まずはそのTVを見てから、それから星を眺めるというのもなかなかないものである。でも、その当時は、やっぱり今よりも外は暗かった。これは確か。時代も違うが、場所も違う。田舎というところに住んでいて、外に出るとかなりの星が見えていた。そのはずである。今でこそ、星降る里、星のよく見える百選の場所などがファッションにもなるけれど、昔は少し街から離れるとどこでも、見ようと思えば星は見えた。ただ、まだまだ子供である。何か核になる気持ちもないから、そのうち、星を見ることもなくなる。一体に、いつの時代まで、ちょっと都会から離れると、そこそこの星が見えたか、どうも1980年代が、前半がその境目になるような気もするが、この辺はなんとも言えない。
機動力のある人は車で、より高い、より暗いところに行っていた。その当時も、すでにいくらでも車で山に登って、そこでどっこいしょと、撮影用の装置などを組み立てて、それから、電気関係も、暖房関係も用意した。もしかしてマイコン制御という代物も登場していたかも知れない。
いくつかの、星空関係のピークがあって、一つは、「池谷・関彗星」の発見であって、このときに、星空にとりつかれた人はかなり多いはずである。まだまだ、星空は、手元に自分のコントロール出来る範疇にあった。その後しばらくして、アマチュア天文家の写真撮影に関する執念と技術とは富に進歩して、メシエ天体などは、もはやすべて写真に撮り尽くしてしまい、
それ以外に、より狭い場所にある、より昔の天体、星雲星団、銀河、銀河集団、小宇宙、小宇宙群、・・・、限りなく、狭い遠い時間の天体も、アマチュアの方が写真にしてしまって、これではプロの天文学者の方も、特に、太陽系に関する研究者の方々は、何々彗星はどこにあるか、それを調べるのにまず一番に、アマチュアの天体写真家の方に、その位置を教えてもらうことにしたといわれる。
それにしても、その当時のアマチュアの方の天体に関する撮影の技術の進歩はすごく、また、そこに出てくる、何億光年先の銀河の集団、小宇宙のようなものの写真は今思い出しただけで、身震いするほどすごいものがあった。これには、当然ついていけなかったが、問題は、宇宙の構造の方にもあるようで、結局二つの壁が立ちはだかって、アマチュアの方に、かなりレベルの差が出来てしまった。
ハレー彗星などが、ついに人工衛星で探査されるようになった、1986年から87年にかけても、また多くの方が星に、天体に、宇宙に興味を持たれたようであるけれど、それからもう20年の歳月が流れたが、今はどちらかというと、宇宙の出来事をイベントとして捉えることが主立っていて、さてはて、人の宇宙に関する理解は深まったかというと、これはなかなかむつかしい。
自分のことを少し振り返ると、やっぱりときどきに思い出したように、星を見たり、また、何十億年前の星の光が、肉眼で見えていた可能性があるという記事に、少しびっくりする程度で、この宇宙というものも不可解のままで、理解の程度も断片的で、また大きく勘違いしていることも多々あると思う。ミステリ、あるいはロマンという言葉が、まだ自分の中に生きているが、残念で、これまでの多くの方の、極限状況における行動というものを今こそ、振り返ってみたいとも思う。
冥王星はもはや、惑星ではなくなって、ただの一つの天体に過ぎなくなったが、発見者のトンボーの苦労を今また思い出さざるを得ない気持ちにもなる。
星空を見上げるのはなかなかにむつかしい。それで、地上の星でもないけれど、天上の星に一番似ているのが地上の花のようにも思える。
自然と生えてくる花、人の手で、十分にかわいがられた花、様々だが、花はものも言わないし、ただただ、季節が来れば、ある条件が来れば、咲いてくれる。これを見て、美しいと思う。また、その花も無口であるし、何かを主張している感じもしない。咲いている花、咲かない花もあって、これは星空の鏡にも似ていると思う。
シャガの花が、日当たりのいいところで、小さめのものが今年も目に入った。
かなり明るいと、回りはずいぶんと暗く写る。これなどは、人の目と見え方が著しく違う。こうゆうのが、目を引いてしまう。
少しコントラストが強すぎるかも知れないが、これも花を浮き出させる。
後ろ側に、近いところに、葉っぱなどがあると、この花もおばけではないことがわかる。
これからの花。
シラン。もう少し雨が、そう雨が欲しいのである、降れば、あと1週間くらいで咲く?、足りないかな。
5枚の花弁を付ける、ヤマブキは今はもう退色しているが、八重のヤマブキはまだ蕾が出来ている状態。これは、いつもと同じのようである。