光年・千年

纏わりつくが、纏まらないおはなし、日記ふう。

レンゲの花

2008-04-16 18:52:28 | 散策
  暖かい一日で、汗かいた。大汗をかいて、それも暑いからどこかへ飛んでいったようである。少し、塩分が体外に排泄されて、これはそれでよかった。それから、水をがぶがぶと飲んだかというとそうでもなく、いつものように、ポットの中の熱めのお茶を水で冷ましてから、飲んだ。のどが渇くまではいってなく、いつもの量である。
  
  堪忍袋というのがある。これは、各自持っておられて、それも色々な種類がある。その堪忍袋の緒が切れるなど、よくあることのようで、それを書くわけにはいかないし、またそうゆうものは、緒が切れてもそれを結ばないと、そのままのようで、またその緒の切れ方もそう簡単には切れなくなる。これが、大人になるということなのか、うまいことたしなめられて育ってきた。
  でも、やっぱり堪忍袋は切れるし、そうでないとTVのドラマも始まらないし、生活そのものも平坦な、均一なものになってしまって、さぞかしつまらない日々を送るようにも思える。それゆえ、やはりたまには、この緒を切ることが必要になる。それをやって、あーやっぱり、そんなことしてもどうにもならないなど思うわけだが、それと同じことを相手が、第三者が考えていることの予測は、これは簡単で、相対化の世界では決め手になるものはなかなかない。どこかしら、ぼやけていて、ミスもある。相手のミスも、こちらがそれをちゃんと見てれば、わかることがある。それに気付く遅さ。
  午前中は、なんだか自信がなくなってゆく、そうゆう恐怖というものを味わい、これも正常な証拠と自分を励ます。今日はやけに暖かい。それにも気付かなかった。

  外に出る。出てからかなりたって、財布を忘れたのはきのうのこと。これは久しぶりのことで、他のことを考えていたから。その必要性があった。それで、マイバッグも持った、ズボンもはいたが、肝心のお金を忘れた。こうゆうことが日常で起こるが、これも老化の証左。なんでも、老化が悪い、そうゆう風にしておく。まだ、気分というか心持ちは、子供のままな気もするのに。
  今日は、持つものは持った、しかし、気温までは感知出来ず、汗かいてさすがに着ているものを脱ぎたくなる。
  
  レンゲの花を、見たのはきのうであって、これがよく目に入ってくれた、小さな感激。レンゲもなかなか見ることが出来ない。それでも、どこかからタネが飛んできて、カラスノエンドウと一緒に、よく似た、レンゲが咲くことはある。今回は、田んぼで。その田んぼは、たぶん2年前だと思うが、一面レンゲが咲いた。これはタネを播いたからで、これが適度な大きさになるときに、鋤き込まれる。これで、翌年もレンゲが咲くかというと、どうもそうはいかないようだ。
  レンゲがなぜ、田んぼに植えられるか。これは、話しとしては、レンゲの根っこに付く根粒菌が、分子状の窒素、空中に嫌というほどある窒素分子を固定して、それが肥料として植物が使える形に変えるからであって、ここまでは特に問題はない。これで窒素肥料がまかなえる。それで、どのように、この分子状の窒素が固定されるかという問題が残るけれど、これはおそらくまだはっきりとは解明はされていないのではないか?。


  まだまだ春であるという散歩。




  レンゲの花。これともう少し離れたところにも、似た感じに咲いているところがある。その程度しかない。まったくないよりはいいようだ。




  今頃、スイセンというもの。この花の向こう側にブロック塀があって、今ごろにこのスイセンが花を咲かせる。この小さな花が、人の顔にも見えてきて、でもちょっと小さいかな。




  かなりな数のタンポポがある。ちょっと濁った感じの色になった。

  桜は、まだ咲いていて、




  花の色も、明るいと桃色がはっきりする。葉の緑と和菓子のような色合いを醸し出していて、甘いものがチラチラする。

さじ加減の変容

2008-04-16 07:03:33 | 散策
  朝のお天気、雲の多い晴れ。きのうと同じように、すっきりしない空がある。おぼろ晴れということにしておこう。風は、ちっちゃな新緑の揺れはなく、穏やか。室温13℃。

  暖かいと、20℃くらいまで気温は上がる。そのくらいの気温になると、特に室内では、もうヒータは要らなくて、あると熱い。あっさりと電源を切る。しかし、少し時間がたって体も冷えると、なんだか急に冷える気がしてまたヒータのお世話になる。まったく、老化の階段の長いこと。行けどもいけども、その先は見えない。

  さじ加減というと、これはプロの世界では当たり前で、また適度にものを曖昧化させる、なかなかの戦略だが、この加減も時とともに変化する。やけに鋭敏になったりもするし、その反対で、ときに許容範囲を超えることもある。自分で料理をされる方をうらやましく思う。こうゆうことも、必然的なことに起因するもの、趣味が料理、料理が楽しい、色々な理由があるのだろうけど、作らないほうの理由としては、面倒の一つのようだ。これは私だけかも知れない。
  私と血のつながりのあることになっている、ある女性の方が、夕食を作ってくれることになっていて、これをありがたく頂いている。この味が少しずつ変化するのは、これはこれまではなかった。ずっとおふくろの味であったような気がする。まだまだ、甘えているそうゆう感じの味だった。ところが、この1、2年この味は何、というものがときに食卓にのる。水のような、味噌汁。その逆の、濃過ぎてちょっとのどを通らない、味噌汁。サツマイモの、甘辛い煮物なども最近のものはただただ、しょっぱい。
  しょっぱいものは、もう受け付けなくなった。昔から、ほどほどの味付けでよく、余りに辛いものもだめだし、甘すぎるのもだめ、しょっぱいものもだめ。ただ、昔は食べたいとは思わなかった、フキだの、菜の花の花、山菜、ちょっと苦めのものなどは、食べるのに難儀はしなくなった。

  それで、本人は、やけにしょっぱい煮物やら、味のない味噌汁、その反対の味噌汁、塩の味しかしない、「アジの開き」など平気で食べている。アジの開きは、さておいて、いれ以外の味の変容に、どうもなんとも思っていないらしい。

  料理というか、日々の自分の食べ物、これも自分で作らないといけなくなる日が近い。まーあまり先のことなど考えない。そう悲観しない。なるべくなら、まー気にしない。人生色々なことがある。楽しいこともたまにはあるだろう。毎度の感想を持って、この辺で止めておかないといけなくなった。そう、気にしない。これを十分に自分に言い聞かせる。