光年・千年

纏わりつくが、纏まらないおはなし、日記ふう。

春の、晴れの朝の降霜

2008-04-02 18:50:51 | 散策
  朝が早い。やけに早い。早寝、遅起き。頭が痛くなるもの、この早寝遅起きが関係しているらしい。寝すぎると頭が痛くなる。それって、本当。

  緊張が足りない。確かになー、なにも特に緊張するようなことは目の前では起こっていない。したがって、自分に、自分自身に緊張が走って、頭も痛くなるのか。今日は、さほど頭の痛みもなかった。まったくなかったわけでもないが、眠っていて、それで目覚ましは正常に動いていることを確認した。この目覚まし、電波で制御されている。まさに、精密機械で、かなり手厚く扱わないと、駄々をこねる。あるときは鳴らなかったり、あるときはクルクル回っている。あるときはうんともすんともいわなくなる。これは困ったものだ。でも、やっぱりもとに戻ってくれて、これは正確に朝の時刻を告げる。起きろ、早く、いつまで寝ている、この、「メタボン」坊や、そうゆう感じで、ボケっとして起きる。

  起きると、すでに日が出ている。おいおい、それは話しが違う。もう日が出ている。早すぎる気がするが、これは本当で、そういえば春分は3月20日で、もうそれからかなりの時間がたった。朝は、これからどんどん早く明るくなる。何だか、その明るさがもったいなく感じられるし、またそんなに早く日が出て来て明るくなると、ちょっとした朝の、星空探訪の楽しみもなくなってしまう。これこそ、世界の遺産であるのに、この宇宙の一端をのぞく時間が短くなる、朝方に見ることが出来なくなる。これも、困りものだ。

  ドコドコの遺跡にいった。ドコドコの洞窟にいった。ドコドコの火山の下に埋もれている、昔の住居を見にいった。6千万年前に起きた、大隕石の落下地点というものを見てきて、そのクレータの大きさに驚いた。6千万年?、6千年前の間違いじゃないか。そうだったかも知れない。それにしても、そこに行くまでにかなりのお金と、化石エネルギを消費する。それより、夜空を眺めるだけで、200万年前の宇宙の姿も簡単に眺めることが出来る。太陽なら、8分と少し前だ、木星ならどのくらいだろうか。そう大きな値ではないが、これも過去の姿だ。土星だと、もっと前。そうゆうものが、ただ空が暗いと言うことで、眺めることが出来、昔の時代に、それは地球ではないが、その昔の時代への旅が可能になる。これこそ、最大の人に残された遺産である。これが、しばしの間、見ることがむつかしくなるのは、ちょっと残念である。

  朝には朝の出来事がある。まずは、新聞配達をされる方の音がある。ラジオの早朝の音もときにある。夜行列車、日本海側を縦断する列車の音、それから、小鳥の鳴き声。早起きの方の犬の散歩の、しとしと音。それから、朝に散歩される方の息。
  朝にはいいことがある。これから眠ろうという方の、安堵感と楽しみ。朝には植物は、眠っている。それから、朝には花は閉じている。夜の世界ではない、朝の世界は、未知の知らないものであふれている。そう、朝寝坊の私は想像する。このままだと、もう朝の、そうゆう未知のものと遭遇することもなくなる。こんなことも、一応書いておく価値がありそうで、それにしても、朝か、朝は起きれません。





  ゾクッとするような、暗さと、それから冷たさと、それからもう一つ不思議な白いものがある。ヒメオドリコソウの花やら葉に霜が降りている。一部はそれが溶けて、水滴になっている。露ではなく、霜であった。




  日当たりがいいと、明るく、植物は緑色に変身する。それから、霜が溶けて、水滴に、丸いもの、になるのはなぜか、表面張力の問題か。それより先っぽに飛び出すように、水滴が付いているのが印象的。

  少し広いところに、出てみる。




  ヒメオドリコソウの群生。これは、かなり広い部分の一部。
  赤いものは、落ちたツバキの花。

  朝はなかなかいいものだが、早起きはむつかしい。

今年も、テントウムシ

2008-04-02 16:13:20 | 虫、その他
  きのうより、ぐっと暖かい。
  ヒメオドリコソウの群生、それとツクシが、ニョキニョキ出ていて、
  これを接近して見ようと、ひざを曲げると、そこに
  いつもの、赤い、ちょこまか動く、動くことを止めようとしない
  テントウムシを見つけて、ヒメオドリコソウとツクシのことは忘れた。

  今年初めて見るテントウムシ。どの辺りで越冬しているのか、
  わからないが、テントウムシも、一度見つかると、あちこちに
  いるように思える。しかし、この虫、動くことを止めない。




  一旦、右にゆき、今度はなぜか左に戻ってきた。よかった。
  ナナホシテントウのようである。



  動いているのを撮っているので、どうしても、ブレが生じる。
  マクロの合焦に時間はかかるし、テントウは動くし。




  上を向いたので、狙いどころだが、やっぱりゆっくりでも動いている。
  テントウの顔というのも何が何やら、わからない。

  他にも、虫はいたが、




  この虫は一旦止まった。それゆえ、目だけははっきりわかる。
  しかし2、3秒でくるりと反転して、どこかに消えてしまった。

  蠢く春がここにはやって来ている。

年齢が気になるお年頃

2008-04-02 07:13:33 | 散策
  朝のお天気、晴れ。すこし、霞がかっていて、それゆえか、空全体が白っぽい。太陽の中心に向かってゆくにつれて、白くなって。風は、弱く穏やか。室温9℃。久しぶりに、アメダスをのぞく。6時で、3.6℃。これは低め、黄砂は観測されていない。

  ある世界では、3月までが、07年度で、きのうから08年、新しい年に入った。おかしなものである。でも、それでもいい。もっとおかしなものも、たくさんありそうで、年齢もその一つではないか。
  月齢というと、普通はお月様の年のことのように思える。しかし、ネットで見ると、子供さんの年齢ということもあるようで、ただし、その子供は、また1歳にはなっていない。一番、お母さんも気になるころの年齢。
  私は3月生まれで、何でも一番子供であった。わけわかんない。そうですね、幼稚園にいっても、4月生まれの子供と、3月生まれの子供、やっぱり3月生まれのほうが子供だ。それから、1年上のお姉さん、お兄さんとも一緒にいたような気がするから、そうすると、3月生まれはかなり子供だ。私は、2年間も、幼稚園にいったことになっており、そのときは普通は1年間だけであった。ネンチュウだの、そうゆうのはなかった。

  年齢が気になるときである。これを意識しなくなればかなり楽だが、ある歳から、やけにこれは気になる。30になったときがある。これで、かなり「がくっ」とくる。何だか、おっさんになった。もう先が見えた。それから、40になった。厄年か、そんなの関係ねー、のはずが、そんなの関係ありだった。ここはこう書いておかないと、そのうち厄年を迎えるかたのためにならないだろうと思う。大いに、厄年は気を付けないといけなく、そうゆう風に社会も出来ている。神様、その他仏様に祈願し、諸々の神社仏閣に詣でるのもいいが、それだけでは何か足りない。自覚が必要なようであって、しかしそれを過ぎてしまうと、もう厄は訪れないかというと、そうでもない。大体、その後も厄は付いて回る。
  ある歳になると、もう人生も終わりか、そう一昔、二昔前は、そうであった。この辺の歳のことについてまだ客観的にその年齢を見ることが出来ない。もうその年齢なのか、まだまだなのか、その辺が自分でもはっきりしない。
 
  肉体年齢というものがあるらしく、何でもあるものだ、それによると、私はもうよぼよぼの爺さんということになってしまうし、また精神年齢という、これも何だかわからないもの、ものを考えると、これはその数は不明である。やけに、若いと思うこともあるし、幼稚だし進歩もない。かと思うと、これも、常套句だが、若年寄など、言われることもあった。これ、最近聞かない。効果ないからか。
  年齢に惑わされる。これが気にならなくなるのは、まだまだ先か、ずっとこのままか。生きている限り、しかし、年齢は大きくなり、それは、残念ながら有界であって、今のところ不老不死の薬もない。これは、今後も開発されないだろう。