いいお天気であって、申し分ない。何だか浮かれている。
まだ、西の空に太陽がまぶしいが、東の空には、月が、ちょっと白いが、はっきりとわかる。太陽も出て、月も出て、これに足りないものは何かすぐに思い浮ぶものはない。それが出て来ないといけないが、まだまだ考慮の余地は残されている。それを今期待するのは、無理のようである。
朝方にはまだ、木々の様子からいうと雨が残っていた。やけに静かな朝であって、なかなか眠りの世界から覚めることもなかったが、目覚ましのなる前に起きた。今日は土曜日。ラジオを付けることもしなかった。まだ、寝ぼけている。
よく眠っていても、それでも疲労感が残りあまりいい気持ちではないが、こうゆうものは、もうよくなるとかいうものではない。多分、このままずっとこの感触が続く。それよりも、このことを「どうのこうの」考えないようにすることが大切だろう。
人の老化は20歳からということになっているが、それを信じるにしろ、信じないにしろ、ある時点で大体の方は、これはちょっと変だなど思うときがあって、今までのように、多少のお酒ではなんともなかった朝が、起きるのが辛い。こうゆうのは、年齢に関係ないか。それでも、いつか、その疲労感はやってきて、ほどほどに昔学校で習った、老化というものが自分に、自分の身に起こることを実感する。それは早くても面白くないし、遅すぎても、これはちょっといけない。そのまま、快調に走れると思っていると、突然にガタッとくる。ここで、ようやくそういえば、学校で、人の老化は20歳くらいから始まるっていっていたっけ。そう思っても、自分の体の今と、心理的な今の乖離に幅がありすぎて、これは一致することはむつかしくなってくる。
この逆というのもある。早くから、からだに変調を感じるもので、こうゆう方は、昔よりは今が、増えていると思う。一つには、やけに健康志向が高まっているということ、もう一つは、やたら気を付けないといけないことが多すぎることがあげられる。なんだか矛盾した事を書いているが、正しい老化の方法というか、段階というものはないと思う。どっちかに傾く可能性が大で、うまく長生きして、大往生というようにはいかない。
何でこんないい天気であって気分も爽やかなのに、そんな神経質なことを書くのか、というと、やっぱりこのいいお天気になかなか、乗り切れないものがあるからで、ただただこのお天気がうらやましく、やがて少し意地悪にも思えてくる。そう簡単に、どこかへお出かけということも出来ないし、お買い物にもいけません。それで、せいぜい、いつもとはちょっと違った方向へ歩くことしか、考えられない自分としては、それこそ、この暖かな、そして心地よい風の吹くお天気で、外に出てみる。そして、いつものように、ミニカメラを懐に忍ばせて、いや違った、もう手に持っていて、そして、行くところは決め手おかないと、糸の切れた凧のように、どこまでも飛んでいきそうになるのをしっかりと自分で押さえて。それでも、なんだかいつもと違った、浮き浮きした気分になれる、という事は仕合せ以外のなにものでもないような気がする。
これでいい、よかった、そう自分で思う。
日が出てしばらくした、空の様子。つい先ほど、ようやくこのファイルを見ることができて、こんな天気だったのかと思うが、実際のものとは感じがずいぶん違う。まだまだ、寝ぼけまなこ。
これも、朝の様子で、カエデの細かい枝やら葉っぱに水滴が残っている。これを見て、まだ朝方までは雨が降っていたようだ、と思った。まだ、朝の様子が続く。
麦畑である。ファイルを拡大してみると、かすかにその細い茎までがわかる。この、浅い、あるいは黄緑色の色が鮮やかで、これからビールの絵が浮ぶかというと、そうでもない。
太陽の高度が少し上がった。柿の木の、若葉がまだ緑が足らなくて、黄色に近い感じで見えている。
ほぼ快晴の一日、晴れた、澄み渡った一日の、午前の様子の一瞬です。
まだ、西の空に太陽がまぶしいが、東の空には、月が、ちょっと白いが、はっきりとわかる。太陽も出て、月も出て、これに足りないものは何かすぐに思い浮ぶものはない。それが出て来ないといけないが、まだまだ考慮の余地は残されている。それを今期待するのは、無理のようである。
朝方にはまだ、木々の様子からいうと雨が残っていた。やけに静かな朝であって、なかなか眠りの世界から覚めることもなかったが、目覚ましのなる前に起きた。今日は土曜日。ラジオを付けることもしなかった。まだ、寝ぼけている。
よく眠っていても、それでも疲労感が残りあまりいい気持ちではないが、こうゆうものは、もうよくなるとかいうものではない。多分、このままずっとこの感触が続く。それよりも、このことを「どうのこうの」考えないようにすることが大切だろう。
人の老化は20歳からということになっているが、それを信じるにしろ、信じないにしろ、ある時点で大体の方は、これはちょっと変だなど思うときがあって、今までのように、多少のお酒ではなんともなかった朝が、起きるのが辛い。こうゆうのは、年齢に関係ないか。それでも、いつか、その疲労感はやってきて、ほどほどに昔学校で習った、老化というものが自分に、自分の身に起こることを実感する。それは早くても面白くないし、遅すぎても、これはちょっといけない。そのまま、快調に走れると思っていると、突然にガタッとくる。ここで、ようやくそういえば、学校で、人の老化は20歳くらいから始まるっていっていたっけ。そう思っても、自分の体の今と、心理的な今の乖離に幅がありすぎて、これは一致することはむつかしくなってくる。
この逆というのもある。早くから、からだに変調を感じるもので、こうゆう方は、昔よりは今が、増えていると思う。一つには、やけに健康志向が高まっているということ、もう一つは、やたら気を付けないといけないことが多すぎることがあげられる。なんだか矛盾した事を書いているが、正しい老化の方法というか、段階というものはないと思う。どっちかに傾く可能性が大で、うまく長生きして、大往生というようにはいかない。
何でこんないい天気であって気分も爽やかなのに、そんな神経質なことを書くのか、というと、やっぱりこのいいお天気になかなか、乗り切れないものがあるからで、ただただこのお天気がうらやましく、やがて少し意地悪にも思えてくる。そう簡単に、どこかへお出かけということも出来ないし、お買い物にもいけません。それで、せいぜい、いつもとはちょっと違った方向へ歩くことしか、考えられない自分としては、それこそ、この暖かな、そして心地よい風の吹くお天気で、外に出てみる。そして、いつものように、ミニカメラを懐に忍ばせて、いや違った、もう手に持っていて、そして、行くところは決め手おかないと、糸の切れた凧のように、どこまでも飛んでいきそうになるのをしっかりと自分で押さえて。それでも、なんだかいつもと違った、浮き浮きした気分になれる、という事は仕合せ以外のなにものでもないような気がする。
これでいい、よかった、そう自分で思う。
日が出てしばらくした、空の様子。つい先ほど、ようやくこのファイルを見ることができて、こんな天気だったのかと思うが、実際のものとは感じがずいぶん違う。まだまだ、寝ぼけまなこ。
これも、朝の様子で、カエデの細かい枝やら葉っぱに水滴が残っている。これを見て、まだ朝方までは雨が降っていたようだ、と思った。まだ、朝の様子が続く。
麦畑である。ファイルを拡大してみると、かすかにその細い茎までがわかる。この、浅い、あるいは黄緑色の色が鮮やかで、これからビールの絵が浮ぶかというと、そうでもない。
太陽の高度が少し上がった。柿の木の、若葉がまだ緑が足らなくて、黄色に近い感じで見えている。
ほぼ快晴の一日、晴れた、澄み渡った一日の、午前の様子の一瞬です。