光年・千年

纏わりつくが、纏まらないおはなし、日記ふう。

天気が良すぎるのも、困りもの

2008-04-19 18:57:06 | 散策
  いいお天気であって、申し分ない。何だか浮かれている。
  まだ、西の空に太陽がまぶしいが、東の空には、月が、ちょっと白いが、はっきりとわかる。太陽も出て、月も出て、これに足りないものは何かすぐに思い浮ぶものはない。それが出て来ないといけないが、まだまだ考慮の余地は残されている。それを今期待するのは、無理のようである。

  朝方にはまだ、木々の様子からいうと雨が残っていた。やけに静かな朝であって、なかなか眠りの世界から覚めることもなかったが、目覚ましのなる前に起きた。今日は土曜日。ラジオを付けることもしなかった。まだ、寝ぼけている。
  よく眠っていても、それでも疲労感が残りあまりいい気持ちではないが、こうゆうものは、もうよくなるとかいうものではない。多分、このままずっとこの感触が続く。それよりも、このことを「どうのこうの」考えないようにすることが大切だろう。
   人の老化は20歳からということになっているが、それを信じるにしろ、信じないにしろ、ある時点で大体の方は、これはちょっと変だなど思うときがあって、今までのように、多少のお酒ではなんともなかった朝が、起きるのが辛い。こうゆうのは、年齢に関係ないか。それでも、いつか、その疲労感はやってきて、ほどほどに昔学校で習った、老化というものが自分に、自分の身に起こることを実感する。それは早くても面白くないし、遅すぎても、これはちょっといけない。そのまま、快調に走れると思っていると、突然にガタッとくる。ここで、ようやくそういえば、学校で、人の老化は20歳くらいから始まるっていっていたっけ。そう思っても、自分の体の今と、心理的な今の乖離に幅がありすぎて、これは一致することはむつかしくなってくる。
  この逆というのもある。早くから、からだに変調を感じるもので、こうゆう方は、昔よりは今が、増えていると思う。一つには、やけに健康志向が高まっているということ、もう一つは、やたら気を付けないといけないことが多すぎることがあげられる。なんだか矛盾した事を書いているが、正しい老化の方法というか、段階というものはないと思う。どっちかに傾く可能性が大で、うまく長生きして、大往生というようにはいかない。

  何でこんないい天気であって気分も爽やかなのに、そんな神経質なことを書くのか、というと、やっぱりこのいいお天気になかなか、乗り切れないものがあるからで、ただただこのお天気がうらやましく、やがて少し意地悪にも思えてくる。そう簡単に、どこかへお出かけということも出来ないし、お買い物にもいけません。それで、せいぜい、いつもとはちょっと違った方向へ歩くことしか、考えられない自分としては、それこそ、この暖かな、そして心地よい風の吹くお天気で、外に出てみる。そして、いつものように、ミニカメラを懐に忍ばせて、いや違った、もう手に持っていて、そして、行くところは決め手おかないと、糸の切れた凧のように、どこまでも飛んでいきそうになるのをしっかりと自分で押さえて。それでも、なんだかいつもと違った、浮き浮きした気分になれる、という事は仕合せ以外のなにものでもないような気がする。

  これでいい、よかった、そう自分で思う。




  日が出てしばらくした、空の様子。つい先ほど、ようやくこのファイルを見ることができて、こんな天気だったのかと思うが、実際のものとは感じがずいぶん違う。まだまだ、寝ぼけまなこ。




  これも、朝の様子で、カエデの細かい枝やら葉っぱに水滴が残っている。これを見て、まだ朝方までは雨が降っていたようだ、と思った。まだ、朝の様子が続く。




  麦畑である。ファイルを拡大してみると、かすかにその細い茎までがわかる。この、浅い、あるいは黄緑色の色が鮮やかで、これからビールの絵が浮ぶかというと、そうでもない。




  太陽の高度が少し上がった。柿の木の、若葉がまだ緑が足らなくて、黄色に近い感じで見えている。

  ほぼ快晴の一日、晴れた、澄み渡った一日の、午前の様子の一瞬です。  

イチョウ新緑

2008-04-19 16:58:11 | 植物・花(春)
  いいお天気の一日。
  ツバメが、用水の水面に何度か、着水していました。
  きれい好きなツバメなのかな。
  残念ながら、小さくしか写っていません。
  イチョウの木。新緑と青空。




  まぶしくて、何がどこにあるのか、わからない状態。




  一番上まで、入っているか心配でしたが、どうにか写っています。
  それにしても、いいお天気。適度な、風。青い空。
  いうことありません。  

月から見たような、青空

2008-04-19 07:10:16 | 散策
  朝のお天気、ほぼ快晴の空。雲もあって、それが北から南に移動している。雨も降りそうで、なんだかおっかない気もする。乱流があって、ときに風は強い。室温15℃。

  起きると、やけにまぶしい太陽が、東北東に近い位置にある。まぶしい、透き通っている空である。そこから少し離れると、空は、明るい青で、濃い青ではなく、これは初夏の青空のような感じがする。このような透き通る、抜けるような、明るい青空も、このところなかった。真冬のそれとも異なって、なんだか狐につままれた気持ち。

  この今の空の青さは、何かに似ている。そう思ったが、それは大気のない、真っ黒な地平から見た地球の青い部分ではないか、そうゆう感じがした。月には、空気がない。気体分子はなく、真空。よって、何ら散乱ということも起こらず、そのまま太陽の反射光は月に届く。その地球の白と黒と、青い色合いが、今の地球から見た、空の色に似ている気がするが、むろん、地球の空の青さは、空気があってこそであって、これは見当違いなことを書いている。気分と理屈は違う。

  朝から、賑やかである。ただ、太陽光が降り注ぐだけで、雨のあとの地平は、輝いている。麦畑が遠くに見えるが、この黄緑色が美しい。そこに、白いものが撒かれるが、これは特に言及しない。
  光が真横から当たっている。普段わからない様子がわかる。ここからどのくらい離れているか、100mはあるかな、もっとありそうだが、大木があるが、それが多分ケヤキだと思っていたが、それがどうも他のケヤキの木と、葉っぱの出方が違うように見えている。それではと、他の木の名前を色々思い出してみるが、どれもそれに該当しない。これは一体に、何の木であるか、これはわからないままもうしばらくその様子をみることにしよう。

  きのうは朝早く、少し歩いてみた。すると、やはり普段見ない光景があって、学生さんは遅刻しないように、急いでいる。車のエンジン音、それから、電線に止まるツバメ。残念ながら、止まったままで人のいるその建物の中まで入っていかない。しかし、その建物の中に、やはりそれまで何度も使われている、ツバメの巣は残っている。バス停で、一人学生さんが、バスを待つ。今日は、晴れ、きのうのことだが。それから、お寺の辺りに行くと、木々が新鮮でイチョウの葉っぱももうその芽を開いているかのごとくである。大きな瓦屋根が存在感をあらわしている。
  ポストの中に、葉書きを放り込む。すっと消えてしまった。もう出したのか、どうかもわからないが、それ以上の疑いは捨てた。それから、再びもたもたしながら歩いていた。雨の後の、朝日の当たる、昔の面影も少しある、鄙びた町。ここもなかなかいいところ。手ぶらでよかった。そう思う。しっかりと、この光景は、脳裏にしまいこまれた。ほんまかいな。

  再び今日の朝に戻る。ほぼ快晴のお天気に変化なく、風もあるが、汗ばむ感じのするお天気になりそう。