そのときに輝いていて、なかなか美しい。それからしばらくして、また変化があって、これもなかなかいいものである。それから、散り際の美しさというものもあって、それから本物の美しさになる。何だか、何のことをいっているのか、わからないことを書いている。桜の木がそうかな。
TVを見ていて、女優さんの姿が写る。昔はアイドルだった、今も、昔に戻れば、アイドルであって、その当時の記憶をよみがえさせることが出来る。そうゆう、アイドルの方がいる。それから、解散した、という話しが出て、それがその通りで、その後芸能の世界からあっさりと去る方もいる。なかなかできるようで出来ないことらしい。解散したんだから、もうそのグループは終わったということになるのだろうけれど、また再結成した、というものもある。それが、段々増えてきて、この流れも支流ではなく本流になりつつあるようだ。
何かを止めたということは多いし、また始めたというのは、これは普通のことで、禁酒したが、また飲みだしてなど自分のことのようで、何だか恥ずかしい。何を止めて、何を始めるというその何が問題で、早起きは止めたとか、早寝は止めたとか、まーどうでもいいような気もするが、もう一度大学に行くとか、国家試験のあるものに挑戦するとなると、これはちょっと大事である。
これに少し足りないのに、もう一度学校で習ったはずの勉強、あるいは、習い事、学問に研究にと、それにもう一度挑戦してみるというのも、これはありそうだが、それを遂行するのはむつかしい。本は購入した。何々の理論物理学教程、高等数学教程を購入した、これをこれから毎日読むことにする。そう決めた。これなど、も思うのは簡単であるが、やはり三日で終わってしまう。
何事にも、その時期というのもの、契機、機会というものがあってそれを逸すると、その後新しく、あるいはもう一度やるというのは、むつかしいようで、例えば、まーその話しといい、スケールもぐっと小さくなるが、今日こそは、少し濃くなったレンゲの群生を、それから、珍しくあちこちでニョキニョキ出てきた、あるところのタケノコを、撮ってみようと、ようやく重い腰をあげてその場に行くわけだけど、何ということか、そのレンゲの濃くなった田んぼは、そのレンゲの咲いていた、端っこの一条か二条の畝まで完璧に耕されていて、その後に、かすかに紫の花が見えていたるする。これもしょうないこと。きのうがよかった、あるいは一昨日か。それから、タケノコの方だと、これもやはりおいしそうな、実際のところその味は、見ていた限りではちょっと固いのではと思った、そのものは見事に掘り出されていて、やっぱり遅かったか、と残念に思う。
ちょっと遅すぎたか。この次は、来年か、と言うことになるわけだけど、果たして、来年にレンゲの花は咲き誇るか、タケノコは出てくるか、それもまったくわからないことであろう。
それほど、大仰でもないことを、どうもそのように書いてしまう。これも、どう何を書いていいか、わからないときにやることの一つのようで、結局のところ、落ち着くのは、いつもと変わらないことである。今日も歩いて来て、それで少しその辺りの光景をミニカメラにおさめてきた。それだけのことであるが、その間に少し思うことを書いてみた。
風がある。ちょっと前に書いた。テントウムシに会った。気温は上がらず、春の格好に戻った。ちょうどそれでよかった。いつもの地点に着く。
キカラスウリは、まだ梅の木にぶら下がっている。その下に、この何だかわからないものは出てきたが、葉っぱがかなり緑になって、それから回りの緑に覆われそうになっている。その内、草の中に隠れるかな。
チューリップも、この気温の変化に戸惑っている。中央上の少し右に、新しく出てきた、赤紫の花がある。チューリップは花の中から撮るのがよく思えて、こんな窮屈な感じになってしまった。
ここでも、中央少し上の奥まったところに、小さく、赤紫の、咲き出したばかりのチューリップはあって、見づらいかも知れない。花の色が、他のものに比べて、なぜか少し変色している。これも、残念である。
最後にタケノコ。
写真上の奥まったところに、竹の本体がある。かなり太い、高い竹である。
きのうは、この回りに、ざらざらタケノコはあった。今日は、よさそうなのはなく、竹に近いものと、こうゆう小さいものだけが残っている。
何だか妙な感じだが、いつもと変わらないものです。
TVを見ていて、女優さんの姿が写る。昔はアイドルだった、今も、昔に戻れば、アイドルであって、その当時の記憶をよみがえさせることが出来る。そうゆう、アイドルの方がいる。それから、解散した、という話しが出て、それがその通りで、その後芸能の世界からあっさりと去る方もいる。なかなかできるようで出来ないことらしい。解散したんだから、もうそのグループは終わったということになるのだろうけれど、また再結成した、というものもある。それが、段々増えてきて、この流れも支流ではなく本流になりつつあるようだ。
何かを止めたということは多いし、また始めたというのは、これは普通のことで、禁酒したが、また飲みだしてなど自分のことのようで、何だか恥ずかしい。何を止めて、何を始めるというその何が問題で、早起きは止めたとか、早寝は止めたとか、まーどうでもいいような気もするが、もう一度大学に行くとか、国家試験のあるものに挑戦するとなると、これはちょっと大事である。
これに少し足りないのに、もう一度学校で習ったはずの勉強、あるいは、習い事、学問に研究にと、それにもう一度挑戦してみるというのも、これはありそうだが、それを遂行するのはむつかしい。本は購入した。何々の理論物理学教程、高等数学教程を購入した、これをこれから毎日読むことにする。そう決めた。これなど、も思うのは簡単であるが、やはり三日で終わってしまう。
何事にも、その時期というのもの、契機、機会というものがあってそれを逸すると、その後新しく、あるいはもう一度やるというのは、むつかしいようで、例えば、まーその話しといい、スケールもぐっと小さくなるが、今日こそは、少し濃くなったレンゲの群生を、それから、珍しくあちこちでニョキニョキ出てきた、あるところのタケノコを、撮ってみようと、ようやく重い腰をあげてその場に行くわけだけど、何ということか、そのレンゲの濃くなった田んぼは、そのレンゲの咲いていた、端っこの一条か二条の畝まで完璧に耕されていて、その後に、かすかに紫の花が見えていたるする。これもしょうないこと。きのうがよかった、あるいは一昨日か。それから、タケノコの方だと、これもやはりおいしそうな、実際のところその味は、見ていた限りではちょっと固いのではと思った、そのものは見事に掘り出されていて、やっぱり遅かったか、と残念に思う。
ちょっと遅すぎたか。この次は、来年か、と言うことになるわけだけど、果たして、来年にレンゲの花は咲き誇るか、タケノコは出てくるか、それもまったくわからないことであろう。
それほど、大仰でもないことを、どうもそのように書いてしまう。これも、どう何を書いていいか、わからないときにやることの一つのようで、結局のところ、落ち着くのは、いつもと変わらないことである。今日も歩いて来て、それで少しその辺りの光景をミニカメラにおさめてきた。それだけのことであるが、その間に少し思うことを書いてみた。
風がある。ちょっと前に書いた。テントウムシに会った。気温は上がらず、春の格好に戻った。ちょうどそれでよかった。いつもの地点に着く。
キカラスウリは、まだ梅の木にぶら下がっている。その下に、この何だかわからないものは出てきたが、葉っぱがかなり緑になって、それから回りの緑に覆われそうになっている。その内、草の中に隠れるかな。
チューリップも、この気温の変化に戸惑っている。中央上の少し右に、新しく出てきた、赤紫の花がある。チューリップは花の中から撮るのがよく思えて、こんな窮屈な感じになってしまった。
ここでも、中央少し上の奥まったところに、小さく、赤紫の、咲き出したばかりのチューリップはあって、見づらいかも知れない。花の色が、他のものに比べて、なぜか少し変色している。これも、残念である。
最後にタケノコ。
写真上の奥まったところに、竹の本体がある。かなり太い、高い竹である。
きのうは、この回りに、ざらざらタケノコはあった。今日は、よさそうなのはなく、竹に近いものと、こうゆう小さいものだけが残っている。
何だか妙な感じだが、いつもと変わらないものです。