光年・千年

纏わりつくが、纏まらないおはなし、日記ふう。

コスモスの咲くころ

2008-08-28 18:48:56 | 散策
  お昼のニュースといっても、天気予報の画面で河川敷の広大なところに揺れるコスモスの花があって、秋のコスモスもそろそろ咲き始めるころかと思う。

  コスモスの花というと、どうしても秋であるけど、これがそうではないことが、この書き込みをやるようになって、ようやく気が付く。このことは他のことにも当てはまっていて、ブログ効果はいい意味で、いろいろ勉強になる。逆にゆうと、それまでいったい何に興味があって生きていたのか、不思議に思うことも当然である。トンボのこと、チョウのこと、花のこと、何でもそのようであって、さてはて実際に写真など撮って、それで知らないものは、最初は知らないで済ませたが、あとから、検索ということが出来るということに気が付く。
  これは、楽しいようで、しかし面倒くさいことでもある。そのまま、気楽に絵と文字を書くことも出来そうだが、信憑性の問題やら、少しはもう少し知りたいという気が起きてくるのも、不思議といえば不思議さが、これはかなり事実に近い。それで、そうゆうことがだんだん高度というか、より深くというか、知識の集積につながるかというと、そうでもないようで、相変わらずあるところで止まっている。研鑽とかいうこととは、無関係である。わからないことはわからないままという場合が多い。
  こうゆうところが、書き込みの限界であるのかとも思うが、これももともとその人の持つ性格とか、知識とか、こうありたいという願望みたいなものに、よるのだろう。あるところまでゆくと、これはやっぱり本に頼らないとという場合が多いが、そうゆうことは過去に経験済みで、今がある。どうも、進歩するようなことは、私としてはないような気がしている。これはものすごくはっきりしていると思う。進歩のようなものはないにしても、いろいろ興味のある分野は広がるということはあると思う。そのレベルで、これから先も続けていければいいが、なんだかどうなるか、先の見通しも暗くなる。

  コスモスに戻ると、この花が、例えば去年だと5月ころに、花芽を見つけて、それがしばらくして咲いた。でも数はさほど多くはなかった。コスモスの本体の方もこれもその年によっていろいろなものが見られる。やたら、徒長したものなどが多かった。すると、花の位置が自分の背よりも高く、その花は天高く空を見つめるように咲く。おかしなものだ。こうなると、コスモスも小さくしないといけない。それに似ているものに、キバナコスモスがあるようだが、この名前を知ったのは去年くらいで、最初にこの花を意識したときは、菊か何かだと思った。
  コスモスには、まずは背の高さの問題、うまく密度をたもって育ってくれる問題、花の付き具合、花の色の出方、色々あるようで、あとは、もう冬だという時期に咲くコスモスもある。これを見ると、コスモスは春の花でもあって、初冬の花でもあって、盛夏の花でもあり、秋には少しだけ咲く花、ということもいえそうである。

  コスモスの最大の不思議は、あるところでしか咲かないということで、この辺りに、ここにも、コスモスの花はない。コスモスのコの字も咲かない。しばらくゆくと、それでも、20m以上は離れているが、毎年かってに咲くところがあって、うらやましい。それはみなタネを播いているからといわれそうだ。もう少し昔を思い出してみるが、コスモスの記憶というのは、それこそTVの映像、今日ような、あるお知らせのバックグラウンドとして流れているのを見るくらいで、それ以上にこの原物を見ようという気にもならなかった。今日と同じある河の河川敷に何度もいったことがあるが、そのときに、コスモスの花を見たという記憶はない。この場所の問題というものもある。

  もう少し遡ってというと、秋ごろに山歩き、里歩きに出かけて、コスモスの花を見た。それは秋だったと思う。その辺りは今はどうなのか知ることは出来ないが、コスモスの花が年がら年中見ることが出来るのがいいのかどうか、ふと考えるとやっぱり秋だけの方がいいかも知れない。


  朝の弱い光の中。




  逆光で、カエデの葉っぱは真っ黒に近かった。かなり無理をして、色が出るようにしてみた。




  普通のアジサイの今の姿で、これは光が足りないままの状態。きっとこのまま冬までこの花はありそう。




  ほどほどのもの。夏の光が強くて、一部葉が枯れた木の新葉だが、どうも生長がおかしいままである。この夏の異常さを表わしているような。

夜と朝と朝

2008-08-28 16:13:37 | 散策
  小雨が降っている。
  お隣の地域には、大雨洪水警報。

  最近は何でも高い。高すぎる。
  だからというわけでもないけれど、歯磨きペーストも
  最後の最後まで、使う。しぼり出す。もうそうして、1週間くらい
  たったようだ。それゆえか、右手が少し痛んだりする。
  何かに抗するのは、それなりに反作用があるようだ。
  
  歯磨きペーストは出て来る。でも手を離すと、またするっと
  引っ込んでゆく。これを防ぐため、少しチューブを寝かせる。
  この歯磨きペースト、柔らかめであるから、口元から横に垂れる。
  こうなると、もう引っ込むことはない。


  手元に何もないと、さすがに少し窮する。弱ったねー。
  それで、空の様子。




  最近は、もうすぐに暗くなる。ボーっとしていると真っ暗。
  これは少し感度を上げてみた。夜の青。




  朝日が出た。これは、目で見ているのがきれい。
  これだけ色が多くて、濁っていると、カビが生えているような朝に思える。
  実際はきれいなのに。




  ちょっと違う。横縦の比が3:2。でも、色の出具合はあまり感心できない。
  でも、これも面白いといえば、面白い。いいといえば、いい。

枯れアジサイ

2008-08-28 06:45:06 | 散策
  朝のお天気、曇り。日の出のしばらく後に、きれいな朝日。雲の動きはゆっくりで、東北の方角に進んでいる。風は感じられない、ムシムシ。アメダスの6時の気温、24.1℃、気圧は1009.4hPa。ちなみに昨日の最高気温、30.3℃。室温26℃。

  このところの朝はかなり暗いので、光るものも持つ気もないが、今日は朝日がきれいで、これだと朝の光景を撮ることが出来ると思ったが、意外に早く雲の中にその朝日は隠れた。しかし、ほどほどの明るさがある。
  まずは、蜘蛛の巣を払う。蜘蛛もこのところ少なくなってしまった。蜘蛛の卵というものを見たことがない。どうして増えるのか、この脚の8本ある生き物の増殖してゆくところなど一回も見たことがないが、春になれば小さな、赤ちゃん蜘蛛がいる。これが自分より大きな蚊を捕まえる。この赤ちゃん蜘蛛はどこから出て来るのか。これも今はいなくなった。それより大きな蜘蛛も、金属のある枠の中に巣を張っていたが、いつのまにか動かなくなって、そのままである。蜘蛛のことも未知なる部分だらけ。
 
  蜘蛛の巣を払う。それから、まわりがずいぶんと「すかすか」していることがわかる。草がなくなった。正確には、これまでは地面から出ていたが、今は横になっている。茎は根っことはつながっていない。弱ったものである。草もなくなると、虫も来ないし、草だってかわいいのはかわいい。そこで、仕方なしに垣の辺りまでゆく。これはなくならない。でもねー、アジサイは今は枯れている。
  光の量が足りないか、すると大体に真っ暗になる。そこの中で、ポッと明るく写るものもあるから、それでゆくしかないか。こうして、草がシワシワ、ぐちゃぐちゃになっているのを横目に、大して光らない物のボタンを押す。何が出来ているかは、あとのお楽しみ。

  今日はどんな天気になるか、出るのは溜息、それから、汗。