お昼のニュースといっても、天気予報の画面で河川敷の広大なところに揺れるコスモスの花があって、秋のコスモスもそろそろ咲き始めるころかと思う。
コスモスの花というと、どうしても秋であるけど、これがそうではないことが、この書き込みをやるようになって、ようやく気が付く。このことは他のことにも当てはまっていて、ブログ効果はいい意味で、いろいろ勉強になる。逆にゆうと、それまでいったい何に興味があって生きていたのか、不思議に思うことも当然である。トンボのこと、チョウのこと、花のこと、何でもそのようであって、さてはて実際に写真など撮って、それで知らないものは、最初は知らないで済ませたが、あとから、検索ということが出来るということに気が付く。
これは、楽しいようで、しかし面倒くさいことでもある。そのまま、気楽に絵と文字を書くことも出来そうだが、信憑性の問題やら、少しはもう少し知りたいという気が起きてくるのも、不思議といえば不思議さが、これはかなり事実に近い。それで、そうゆうことがだんだん高度というか、より深くというか、知識の集積につながるかというと、そうでもないようで、相変わらずあるところで止まっている。研鑽とかいうこととは、無関係である。わからないことはわからないままという場合が多い。
こうゆうところが、書き込みの限界であるのかとも思うが、これももともとその人の持つ性格とか、知識とか、こうありたいという願望みたいなものに、よるのだろう。あるところまでゆくと、これはやっぱり本に頼らないとという場合が多いが、そうゆうことは過去に経験済みで、今がある。どうも、進歩するようなことは、私としてはないような気がしている。これはものすごくはっきりしていると思う。進歩のようなものはないにしても、いろいろ興味のある分野は広がるということはあると思う。そのレベルで、これから先も続けていければいいが、なんだかどうなるか、先の見通しも暗くなる。
コスモスに戻ると、この花が、例えば去年だと5月ころに、花芽を見つけて、それがしばらくして咲いた。でも数はさほど多くはなかった。コスモスの本体の方もこれもその年によっていろいろなものが見られる。やたら、徒長したものなどが多かった。すると、花の位置が自分の背よりも高く、その花は天高く空を見つめるように咲く。おかしなものだ。こうなると、コスモスも小さくしないといけない。それに似ているものに、キバナコスモスがあるようだが、この名前を知ったのは去年くらいで、最初にこの花を意識したときは、菊か何かだと思った。
コスモスには、まずは背の高さの問題、うまく密度をたもって育ってくれる問題、花の付き具合、花の色の出方、色々あるようで、あとは、もう冬だという時期に咲くコスモスもある。これを見ると、コスモスは春の花でもあって、初冬の花でもあって、盛夏の花でもあり、秋には少しだけ咲く花、ということもいえそうである。
コスモスの最大の不思議は、あるところでしか咲かないということで、この辺りに、ここにも、コスモスの花はない。コスモスのコの字も咲かない。しばらくゆくと、それでも、20m以上は離れているが、毎年かってに咲くところがあって、うらやましい。それはみなタネを播いているからといわれそうだ。もう少し昔を思い出してみるが、コスモスの記憶というのは、それこそTVの映像、今日ような、あるお知らせのバックグラウンドとして流れているのを見るくらいで、それ以上にこの原物を見ようという気にもならなかった。今日と同じある河の河川敷に何度もいったことがあるが、そのときに、コスモスの花を見たという記憶はない。この場所の問題というものもある。
もう少し遡ってというと、秋ごろに山歩き、里歩きに出かけて、コスモスの花を見た。それは秋だったと思う。その辺りは今はどうなのか知ることは出来ないが、コスモスの花が年がら年中見ることが出来るのがいいのかどうか、ふと考えるとやっぱり秋だけの方がいいかも知れない。
朝の弱い光の中。
逆光で、カエデの葉っぱは真っ黒に近かった。かなり無理をして、色が出るようにしてみた。
普通のアジサイの今の姿で、これは光が足りないままの状態。きっとこのまま冬までこの花はありそう。
ほどほどのもの。夏の光が強くて、一部葉が枯れた木の新葉だが、どうも生長がおかしいままである。この夏の異常さを表わしているような。
コスモスの花というと、どうしても秋であるけど、これがそうではないことが、この書き込みをやるようになって、ようやく気が付く。このことは他のことにも当てはまっていて、ブログ効果はいい意味で、いろいろ勉強になる。逆にゆうと、それまでいったい何に興味があって生きていたのか、不思議に思うことも当然である。トンボのこと、チョウのこと、花のこと、何でもそのようであって、さてはて実際に写真など撮って、それで知らないものは、最初は知らないで済ませたが、あとから、検索ということが出来るということに気が付く。
これは、楽しいようで、しかし面倒くさいことでもある。そのまま、気楽に絵と文字を書くことも出来そうだが、信憑性の問題やら、少しはもう少し知りたいという気が起きてくるのも、不思議といえば不思議さが、これはかなり事実に近い。それで、そうゆうことがだんだん高度というか、より深くというか、知識の集積につながるかというと、そうでもないようで、相変わらずあるところで止まっている。研鑽とかいうこととは、無関係である。わからないことはわからないままという場合が多い。
こうゆうところが、書き込みの限界であるのかとも思うが、これももともとその人の持つ性格とか、知識とか、こうありたいという願望みたいなものに、よるのだろう。あるところまでゆくと、これはやっぱり本に頼らないとという場合が多いが、そうゆうことは過去に経験済みで、今がある。どうも、進歩するようなことは、私としてはないような気がしている。これはものすごくはっきりしていると思う。進歩のようなものはないにしても、いろいろ興味のある分野は広がるということはあると思う。そのレベルで、これから先も続けていければいいが、なんだかどうなるか、先の見通しも暗くなる。
コスモスに戻ると、この花が、例えば去年だと5月ころに、花芽を見つけて、それがしばらくして咲いた。でも数はさほど多くはなかった。コスモスの本体の方もこれもその年によっていろいろなものが見られる。やたら、徒長したものなどが多かった。すると、花の位置が自分の背よりも高く、その花は天高く空を見つめるように咲く。おかしなものだ。こうなると、コスモスも小さくしないといけない。それに似ているものに、キバナコスモスがあるようだが、この名前を知ったのは去年くらいで、最初にこの花を意識したときは、菊か何かだと思った。
コスモスには、まずは背の高さの問題、うまく密度をたもって育ってくれる問題、花の付き具合、花の色の出方、色々あるようで、あとは、もう冬だという時期に咲くコスモスもある。これを見ると、コスモスは春の花でもあって、初冬の花でもあって、盛夏の花でもあり、秋には少しだけ咲く花、ということもいえそうである。
コスモスの最大の不思議は、あるところでしか咲かないということで、この辺りに、ここにも、コスモスの花はない。コスモスのコの字も咲かない。しばらくゆくと、それでも、20m以上は離れているが、毎年かってに咲くところがあって、うらやましい。それはみなタネを播いているからといわれそうだ。もう少し昔を思い出してみるが、コスモスの記憶というのは、それこそTVの映像、今日ような、あるお知らせのバックグラウンドとして流れているのを見るくらいで、それ以上にこの原物を見ようという気にもならなかった。今日と同じある河の河川敷に何度もいったことがあるが、そのときに、コスモスの花を見たという記憶はない。この場所の問題というものもある。
もう少し遡ってというと、秋ごろに山歩き、里歩きに出かけて、コスモスの花を見た。それは秋だったと思う。その辺りは今はどうなのか知ることは出来ないが、コスモスの花が年がら年中見ることが出来るのがいいのかどうか、ふと考えるとやっぱり秋だけの方がいいかも知れない。
朝の弱い光の中。
逆光で、カエデの葉っぱは真っ黒に近かった。かなり無理をして、色が出るようにしてみた。
普通のアジサイの今の姿で、これは光が足りないままの状態。きっとこのまま冬までこの花はありそう。
ほどほどのもの。夏の光が強くて、一部葉が枯れた木の新葉だが、どうも生長がおかしいままである。この夏の異常さを表わしているような。