光年・千年

纏わりつくが、纏まらないおはなし、日記ふう。

夏だけど秋な話し

2008-08-26 18:57:07 | 散策
  夏はどっかと居座っている。歩いていて、本の少しの距離で、少しだけスピードを上げて歩く。大体きのうは、財布を忘れてしまった。だから、そのことが頭にあって、早くこのお金を払わないといけない。まずは自分の気持ちが穏やかでない。買ってから気が付いて、もう馴染みになっているから、甘えてお金は明日ということで、帰った。いつもなら、引き帰してまたそのお金を払う、そうゆうことにしているが、何せ入院している人がいるし、それだから自分の体調も二倍気を付けなくてはならず、こうゆうこともあるものだ、納得して帰った。それで急ぎ足になる。そうでなくても大体急ぎ足で、ゆっくり歩くというのは性に合わない。

  車の運転手さんともずいぶんと仲良くなる。そこにゆくと、決まってある方の車ということになる。だから、もう道の話しもする必要がなく、楽といえば楽で、それでこちらも気晴らしというか少し、あるいはかなり色々な話しをする。この辺りの緑は、きれいですね。昔はイノシシも出たのでしょうけど、そうゆう感じで話しは進む。クマも出るかも知れないですね。そういえば、去年はかなりにぎやかなところも出ましたから、それもあるでしょうね。話しは、大体平穏である。

  それでときに、病気の話しというもの出る。この方も、ずいぶんとこの話しをしようとして、話されなかったのではないか。結局のところ、長生きしてもらうのはありがたいが、痴呆の症状が出ていて、困っているのですよ、そうゆうところの話しになった。痴呆症とは最近は言わないようであるが、認知症という言葉も、なかなか何のことかわかりにくい。痴呆という言葉に特に敏感になる必要はないように思う。例えば、私の家族の場合がそうであり、もう一人の方もそうであって、そうなると、この言葉は一番わかりやすい。同時に、なかなかこの病と付き合うのは大変であって、特にまわりの人は大変に気を使う。家族思いという方も多いのであって、そうゆう観点からも、この痴呆という言葉に特に悪い印象は抱かないものだ。本人も気の毒であり、まわりにいる人もそれなりにしんどい思いをする。どうにもこうにもなりませんがなー、長い詠嘆に意味もある。
  
  簡単な症状だと、物忘れがある。本の少し前のことを忘れる。こうゆう話しを聞いて、これはお互いに、そのとおりなんですよ、と胸のうちでうなづく。例えば、運転手さんのお母さんがそうだという話しになると、まったくそのとおりなんですよ、言葉にも出すし、心のうちでも、そのとおりでとつぶやく。色々なわがままみたいなものも出る、あそこにゆくのはいや、という問題。これもある。介護施設にいってもらえると、それなりにまわりの人も一休み出来る。ありがたいもので、私も今また強く、介護施設の方にはお世話になったという感じを持つ。

  こうゆうとはあまりないという考え方が私の頭の中で渦巻いていた。が、車に乗る機会も増えて運転手さんと話しをする。病院へ、病院からというので、ごく自然と「こうこうこうゆう」状態でという話しになるが、その中で運転手さん自身の口から、家族の方を介護されていたり、あるいは病気で入院している、あるいは、最後の病院でなくなった、という話しを聞くことが出来て、その頻度の高さとさらにどのようであったか、という詳しい話しもときにはあって、これは勇気付けられるし、今どきの世間というものもこうゆうものなのか、諦めが半分だがわかってくる。

  もう少し、すごいというと妙だが、壮絶という感じの話しもあるが、どうも長くなりすぎる。ただ、そうゆう経験をされてもなおその方はお元気なようなので、こちらも簡単に「へばった」ということも出来ないな、と、少しだけ思うのである。


  きのうの傷付いた、アゲハ、キアゲハのようである、の続き。
  翅を表からみる方向になる。




  一旦移動したので、後にまわった。かなり近寄っている。地味目の色合いで、田んぼもこの色だから、チョウのもつ派手な感触は絵にはない。





  右の後翅の、突起状のところがなくなっているようである。チョウの寿命というのもなかなか聞かない。





  右側の部分。っていっても、左側が合焦しているねー。移動できない。




  翅をほぼ水平に開いていて、こうゆう状態も珍しい感じがする。
  この後は、あっさり向こうの方へ遠くへ、このチョウも飛んでいった。  

雨の後の、朝焼け

2008-08-26 16:38:02 | 散策
  ちょうどいい気温だと思う。
  そう思って、近道をして、しかし速歩で歩く。
  それでも、まだ風もあるし、そこで買い物やら、その他
  細かなこと、神経を使うこともある。これが苦手、
  小さな紙に、文字を書くのがいやというか、うまくゆかない。

  でも時間は大してかからない。反対方向に
  歩きだす。すると、少し汗ばむのがわかって、
  結局戻ると、そこで靴のゴミなどを払っていると
  汗が出て来て、手と顔を洗うときには汗だく。
  これはやっぱり、夏だな、あっさり夏戻り。


  雨の後の朝焼け。目が覚めて目の前にこれが見えると、少し 
  アドレナリンが出る気がする。



  感じでいうと、目で見るのが一番で、カメラの小さなモニタ
  の像が、次。このモニタで見ると、少しがっかりの感じの赤になる。




  少しずつ、しかし確かな変化がある、と思う。どう違うといわれると
  困るけど。




  この色具合を見ると、目で見ているときはさほどでもなく、カメラのモニタ
  の絵は、はっきりせず、このモニタでの映像が一番いい。肉眼では、
  ただ白いだけの感じである。わからないことが多いものである。

小雨の朝、電線にムクドリ

2008-08-26 06:41:47 | 散策
  朝のお天気、小雨。雨になる気配はなく、お湿り程度の雨。風も弱い。アメダスの6時の気温、21.3℃、気圧は1012.6hPa。室温24℃。一定のようである。

  まだ薄暗い時間、ガタガタか、ゴトゴトか、あるいは、ザワザワか、この辺りを正確には表わせないが、その音で目が覚めた。木造の建物で、揺れることもあれば、ギシッという音もする。するのが当たり前で、おかしくもない。しかし少し音の程度が違うし時間も長い。考えたくないことも考えてしまう。何か屋根裏にでもいるのか。わからないままである。しばらくして音は止んだ。このとき、屋根瓦が怪しく光っていて、その光り方から雨、とわかった。その後朝焼けがあった。雨で、朝焼け。

  アゲハの幼虫がサナギになってそれからかなり時間がたったが、相変わらず、石のような少し黒い小さな塊のままで、どうなっているのかわからない。こうゆうのは、最初はやはり観察をしないといけない。小学生のような気分である。しかしどうも気が短いせいか、こう長く固まったままであると、死んじゃったのかなど思ってしまう。ついつい我慢が出来ず、虫関係のページを見て、アゲハのサナギを探してみると、ちゃんとあってその形、色具合はここにあるのと同じようだ。ただ、どのくらいで羽化するかそこまでの記述はなかった。
  去年はセミの抜け殻ではなく、なかにちゃんとセミが入ったものがそのままでいた。うまく羽化出来ず終わった個体。このアゲハもそうゆう運命にあるのか。
  セミの鳴き声も急速に消滅しつつある。秋はそこまで来ている。

  電線に、雨に打たれてショボっとしたムクドリがいる。どう見てもやせている。ずんぐりした感じがない。電線にスズメではなく、ムクドリ。彼らもいるところがない、食べ物がない、自分の羽はもう水をはじかない、そう思いながらも生きているのだろう。何を考えているか本当のところはわからないが。