いいお天気で、朝よりも今のほうがずっといい。ただ、さすがに部屋の中は暑くなって、この暑さに耐える力というのも段々弱くなるのがわかる。
足腰というが、足はすでに棒のような感じもする。足の疲れはかなりあってそれを敏感に感じることがある。普通、足があるとか、手があるとか、それから指もあってなど、感じてもいないし考えてもおらず、勝手に歩いたり、手で何かをつかんだり、ときには物を放り投げたりしたくなる。ちょっと重い物を持ってしばらくすると、どうもこの重さ耐えられないので、右から左に、今度は左から右に持ち手を返る。あー、自分には二本の腕があって、昔は多少の物を持ってもどうのこうの思わなかったが、今はちょっと重いとダメ。右手に買い物袋、左手に買い物袋、2個。さらに、チャリンコの前に買い物袋。それから日傘をさして、チャリを動かす、こいで行く人がうらやましい。
なんだか段々腕が細く、肉もなくなっている。それが、どうも形を、性質を変えて、お腹の周りにいっているようで、なんとも寒気がする。
ある「時」を過ぎるときがあって、それを境にあれれと思うことは多いが、満員電車などに揺られて、どうも今日は何もしないのに疲れた、というのは楽しい思い出である。今も、満員電車に揺られて、それで日々を過ごす人は多い。さぞかし大変だろうが、しかしある種の耐性を獲得しているようで、これも体力の指標の一つと考えてもいいように思う。何も跳んだりはねたり、球を打ったり泳いだり、それだけがスポーツでもないだろう。我慢大会的なものも、ある種のスポーツで、耐寒、あるいは、暑さ我慢大会など、オリンピックの種目にあってよさそうである。
これに似たものかどうか、船酔いをするかどうかというのも面白い。車だとちょっとありきたりで、ここは船酔いコンテストがまずはあげられる。でも、満員電車耐性競技というものもなかなか成り立たないようだ。それに似て非なるものに、くすぐり競技があると思う。こちょこちょやるのである。タモリさんは、どうも脇腹、あるいはも少し上の辺りに「こちょ」が入るとダメらしい。これはTVで、何度も見た。人には意外な弱点があるものだ。
それから、大声というのもある人には耐えられて、ある人には耐えられない。耳をつんざく音はさすがに私も、耳をふさぐ。いつからか忘れたが、ちょっと低めのドーン、あるいはドンという音を聞くと頭がくらくらして、一番いけないのは選挙のときの、あの丸丸で「ございまする」のスピーカでの連呼で、これをやる人には絶対に票を入れない。セミの鳴き声も今はさほどではないがこれがすごくなるとさすがに耳をふさぎたくなる。このセミが、自分の鳴き声を聞いているかどうか、という珍妙な問題もあるが、どうもわかったようなわからないようなもののようである。
それから、声楽家のテノールの歌手の方は、自分の声は、その大きさはたぶん日本一ではないか、と同じタモリさんのTVで、おっしゃっていたが、これは聴きようによっては耐えられるような気もしなくはない。これの延長に大声、がなり声コンテストがあって、これもオリンピックでやったらさぞかし人気は出るだろうが、しかし出場希望が多くて判定が出来ないかも知れない。最近、自分の声が大きいといわれるが、なんでかどうもわからない。TVなどを見ていて、それに対してチクチクゆうときはそれほど大きな声は出していないと思うが、力込めるときは大きいらしい。
昔のことをよく覚えていて、と言うことを考えていたようだ。これは一般によく当てはまっていて私もそのことをよく書く。書くことがなくなると、昔話をよく出す。またこれもよくあると思うが、何かがあると昔の失敗をまたかと言うくらいに、何かに付けてそれを引っぱり出される。まったくもって自分はそんなことを忘れて生きている。それで、何とか今の自分があるのだが、相手との話しで、ちょっと耳の痛いことも言わないといけないが、昔の、まったく今の出来事と関係ないのに、そのことが蒸し返される。ウーン、何でこうなるの。って、
まー私も責め立てられると、そうゆうことを言うように出来ているので、ここは足し引きすると、どっちもどっちか、とうやむやにする。それにしても、いつまでも昔のことは蒸し返されて、最近の評価というものはまったくに無視されているなー。
小さめの花、寄れば撮れると思うのはどうも間違いで、心拍が伝わるからかなー。ダメ、が多い。
休耕田に、ふと小さな白い綿のカタマリのようなものが見えた。それがこれだが、どうも小さすぎるのと、明るすぎるのか、よくないみたい。
赤い、これも小さな花。お天気、それも光の強さが関係しているのか、ツユクサのように、ときにあっさりと小さな花を閉じてしまう。残念なところ。
これは、キカラスウリの花芽だろうと思う。これから、あのヒゲもじゃの花が咲くと思うのだが。
足腰というが、足はすでに棒のような感じもする。足の疲れはかなりあってそれを敏感に感じることがある。普通、足があるとか、手があるとか、それから指もあってなど、感じてもいないし考えてもおらず、勝手に歩いたり、手で何かをつかんだり、ときには物を放り投げたりしたくなる。ちょっと重い物を持ってしばらくすると、どうもこの重さ耐えられないので、右から左に、今度は左から右に持ち手を返る。あー、自分には二本の腕があって、昔は多少の物を持ってもどうのこうの思わなかったが、今はちょっと重いとダメ。右手に買い物袋、左手に買い物袋、2個。さらに、チャリンコの前に買い物袋。それから日傘をさして、チャリを動かす、こいで行く人がうらやましい。
なんだか段々腕が細く、肉もなくなっている。それが、どうも形を、性質を変えて、お腹の周りにいっているようで、なんとも寒気がする。
ある「時」を過ぎるときがあって、それを境にあれれと思うことは多いが、満員電車などに揺られて、どうも今日は何もしないのに疲れた、というのは楽しい思い出である。今も、満員電車に揺られて、それで日々を過ごす人は多い。さぞかし大変だろうが、しかしある種の耐性を獲得しているようで、これも体力の指標の一つと考えてもいいように思う。何も跳んだりはねたり、球を打ったり泳いだり、それだけがスポーツでもないだろう。我慢大会的なものも、ある種のスポーツで、耐寒、あるいは、暑さ我慢大会など、オリンピックの種目にあってよさそうである。
これに似たものかどうか、船酔いをするかどうかというのも面白い。車だとちょっとありきたりで、ここは船酔いコンテストがまずはあげられる。でも、満員電車耐性競技というものもなかなか成り立たないようだ。それに似て非なるものに、くすぐり競技があると思う。こちょこちょやるのである。タモリさんは、どうも脇腹、あるいはも少し上の辺りに「こちょ」が入るとダメらしい。これはTVで、何度も見た。人には意外な弱点があるものだ。
それから、大声というのもある人には耐えられて、ある人には耐えられない。耳をつんざく音はさすがに私も、耳をふさぐ。いつからか忘れたが、ちょっと低めのドーン、あるいはドンという音を聞くと頭がくらくらして、一番いけないのは選挙のときの、あの丸丸で「ございまする」のスピーカでの連呼で、これをやる人には絶対に票を入れない。セミの鳴き声も今はさほどではないがこれがすごくなるとさすがに耳をふさぎたくなる。このセミが、自分の鳴き声を聞いているかどうか、という珍妙な問題もあるが、どうもわかったようなわからないようなもののようである。
それから、声楽家のテノールの歌手の方は、自分の声は、その大きさはたぶん日本一ではないか、と同じタモリさんのTVで、おっしゃっていたが、これは聴きようによっては耐えられるような気もしなくはない。これの延長に大声、がなり声コンテストがあって、これもオリンピックでやったらさぞかし人気は出るだろうが、しかし出場希望が多くて判定が出来ないかも知れない。最近、自分の声が大きいといわれるが、なんでかどうもわからない。TVなどを見ていて、それに対してチクチクゆうときはそれほど大きな声は出していないと思うが、力込めるときは大きいらしい。
昔のことをよく覚えていて、と言うことを考えていたようだ。これは一般によく当てはまっていて私もそのことをよく書く。書くことがなくなると、昔話をよく出す。またこれもよくあると思うが、何かがあると昔の失敗をまたかと言うくらいに、何かに付けてそれを引っぱり出される。まったくもって自分はそんなことを忘れて生きている。それで、何とか今の自分があるのだが、相手との話しで、ちょっと耳の痛いことも言わないといけないが、昔の、まったく今の出来事と関係ないのに、そのことが蒸し返される。ウーン、何でこうなるの。って、
まー私も責め立てられると、そうゆうことを言うように出来ているので、ここは足し引きすると、どっちもどっちか、とうやむやにする。それにしても、いつまでも昔のことは蒸し返されて、最近の評価というものはまったくに無視されているなー。
小さめの花、寄れば撮れると思うのはどうも間違いで、心拍が伝わるからかなー。ダメ、が多い。
休耕田に、ふと小さな白い綿のカタマリのようなものが見えた。それがこれだが、どうも小さすぎるのと、明るすぎるのか、よくないみたい。
赤い、これも小さな花。お天気、それも光の強さが関係しているのか、ツユクサのように、ときにあっさりと小さな花を閉じてしまう。残念なところ。
これは、キカラスウリの花芽だろうと思う。これから、あのヒゲもじゃの花が咲くと思うのだが。