田舎住まい

吸血鬼テーマーの怪奇伝記小説を書いています。

九年母

2008-03-26 15:40:55 | Weblog
3月26日 水曜日
九年母(随筆) 
「くよくよするなくねんぼ(九年母)、どうせ蜜柑にゃなりはせぬ」
 子供のころ母の背で聞いた歌である。
 諦観にねざした歌詞なのだろう。……母はむしろ哀感に満ちた歌として口ずさんでいた。
 鹿沼に越してきた父と母は、それまで住んでいた栃木とはちがい、いまでいうカルチャー・ショックに悩まされていた。
 栃木は関東平野にひらけた商業都市。関東の大阪ともいわれる活気に満ちた商人町。
 この町は建具職人の町。関東平野の極み、背後は日光連山に遮断された、どん詰まり。
 暗い街だ。
 大麻の売買を商売にしていた生粋の商人の家族には住みにくい町だった。栃木では、お金は貯めるもの。職人街では使うもの。
 その風潮はいまもかわらない。
 どちらがいいとか悪いということではない。生活意識の問題なのだろう。浜口内閣の金解禁のあおりをくって倒産。結婚以来の蓄財をきれいにはたいてしまった両親の無念をときおり思い起こす。
「くよくよするな九年母、どうせ蜜柑にゃなりはせぬ」と母が口ずさむ。木枯らしの伴奏がよく似合う。母の背できいた言葉は、すべて男体颪の吹きすさぶ風景の中であった。
 両親が鹿沼に越してきたときの年齢の倍は、私はすでに生きている。だが、同じように、時流にのれずにいる身にとっては、「くよくよするな……」という慈母の声が耳元に響きつづけているのである。
「正一ね、……九年母はね……蜜柑になりたかったんだよ。でもね、くねんぼうはくねんぼうなのだよ……。蜜柑にはなれないものね……」
 母は泣いていたのではないか、と想う。
 苦労がたたって病に伏して二十有余年。
 死ぬまぎわになって、医者になりたくて宇都宮の病院に看護婦として勤務したことがあったことを告白された。
 私はすべてを悟った思いだった。母の願いは医者になることであった。明治時代のことである。想像を絶する苦労があったであろう。
そして挫折。
見合い結婚。
「結婚してまもなくね、戸籍調べのお巡りさんがきたの。ご主人の名前は……そう聞かれてしらなかったの。おもいだせなくて、あんなに……はずかしかったのは……」
 そういう結婚もあったのだろう。
 それから、生まれ故郷を後にしての転居。
「くよくよするな……」という言葉になる。
 こうした母に育てられた。母には苦労をかけたくなかった。私のことでは後悔させるわけにはいかなかった。
 文学より母に孝養をつくすことのほうが大切だった。東京での生活を諦めた。この町にもどる車窓から利根川をみながら「どうせ蜜柑にゃなりはせぬ。どうせ蜜柑になりゃせぬ」と口ずさんだ。不思議とさわやかな感傷がわいた。涙が滂沱とほほをつたった。家業の麻屋をよして、小説家になる。などと嘯いて上京だった。
 故郷にもどってから生活はつらかった。なにしろ、老人医療が有料の時代である。医療費を稼ぐために夫婦で必死になって働いた。三十年がうたかたのごとく過ぎてしまった。
母はすまないね。すまないね。死んできまりがつくものなら、武士の娘だから自害の作法は教えられているのだけど、それではこの家の家系に傷がつくからね。とよく口癖のようにいっていた。
死ぬまで恵まれた生活のできなかった母だった。
 
 私の二人の娘たちは結婚した。息子は独立して埼玉にいる。私は仏壇の間に寝起きしている。外で木枯らしが吹きすさぶと、母の「くよくよするな九年母、どうせ蜜柑にゃなりはせぬ」という声が、細々とながれてくるような気がする。
 同人誌の仲間は、私が故郷で生活にあくせくしている間に、それぞれ精進して作家になっている。
「おかあさん。ぼくはまだ蜜柑になる夢をすてたわけではないんだ。どうだろうね……おかあさん、くよくよしているわけではないんだけど、蜜柑になる夢をみつづけていいかな」
 母の返事はない。

 注。検索したら、九年母は蜜柑より大きく、甘いとあった。母が育った明治時代はそうではなかったのだろう。

                     平成9年 随筆手帳35号より転載。

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