3月24日 月曜日
冷蔵庫 (随筆)
秋雨がふりだした。
庭に運びだしておいた冷蔵庫がぬれていた。台所にあって機能をはたしているときとはちがう。電源をぬかれ、廃品――粗大ゴミとして庭の隅にぽつんと置いてある冷蔵庫にはうらさびたやるせない風情がある。
この冷蔵庫は父の死後購入したものだから、十五年もお世話になったことになる。
父の逝ったのは、夏の盛りだった。
葬式の様相は地域によって異なるだろう。わたしの住む町では、葬儀の準備から埋葬までの一切は、喪家とその血縁にあたるものは手も口もださず、すべてを組内の人にまかせる。埋葬がすんで墓地からもどると、喪主が「なにもありませんが、供養(食よう)とおもってめしあがってください」口上をのべる。
仕上げの膳、がはこばれてくる。
組内のひとたちの合力協助にたいする感謝の気持ちとしての膳である。喪主やその親族がこんどは接待役となる。
「仕上げの膳にだすビール、どうやって冷やすの」
妻がうらみがましい眼差しで、わたしに訴えかけた。そのとき、わが家には冷蔵庫がなかったのである。
貧しかったわけではない。老人医療費の負担が現在とは比べられないほど重かった。十日ごとに正確にやってくる支払いが、十万円くらいだったと記憶している。収入はあったが、医療費と病人に付き添ってくれている家政婦への支払をすませると……生活費はあまりのこらなかった。やはり貧しかったのだろう。
「お茶箱にドライアイスをつめて冷やそう」
この着想はわたしのものだった。お茶箱は、衣類をつめても内側に錫箔がはってあるので、湿気をよせつけない。押入れにはいっていた茶箱をとりだす。衣類を空ける。夏のことで父の遺体が腐食しないように宇都宮からとりよせたドライアイスがまだ台所にあった。死体を冷やすドライアイスで、ビールを冷やすなどという奇想は常識のあるもののなすことではあるまい。
ビールはかなり冷えた。
かなり冷えたどころではなかった。凍ってしまい王冠の部分が破裂する瓶もでるほどであった。薄暗い台所でお茶箱からたちのぼるドライアイスの白煙をわたしと妻はただ黙ってみつめていた。
葬儀はとどこおりなくすんだ。ただ妻だけは、小柄な体をさらに畏縮させていた。しょぼんとしていた。
まだ冷蔵庫がなかったのですか。と裏のHさんにいわれたというのだ。
冷蔵庫はその後、ほどなく買った。薄汚れた台所に純白の冷蔵庫が置かれただけでそのまわりが、なにかはれがましくなった。妻はよほどうれしかったのか冷蔵庫の扉といわず側面まで毎日たんねんに、からぶきしていた。
その冷蔵庫がいま庭の片隅に置いてある。
「ながいあいだおつとめごくろうさんでした」
と、わたしはおどけて仁義をきって、それを台所からはこびだしたのだった。
おどけてはいたが、この十五年でわが家も社会もずいぶんとかわったものだと感懐ひとしおである。
父の逝った年に生まれた次女は高校一年生、長女は大学を卒業して就職。六年生になった長男は祖父の顔を知らない。西早稲田の鶴巻町に長女と住んでいる。
妻は鶴巻町と鹿沼のあいだを毎週往復して、すっかり教育ママになっている。
冷蔵庫にも変遷があった。わが家で純白の東芝GR-80TCを買ったあとでカラーブームがおき、ピンクやライトグリーンのものが市場を制覇した。ふたたび白にいまはおちついているらしい。冷凍室もひろくなっている。
そして、新品の冷蔵庫はおなじ白でも、青味がかった光りをおびコーテングの技術革新をみることができる。
そして、さらに流通革命である。秋葉原で購入した電気製品が関東一円、無料配達つきなのである。値段も地方の電気屋さんからもとめるのとは比較にならないほど割引してくれた。
調子づいた妻は、東京のマンションとわが家のほうと二台いっぺんに、わたしにことわることもなく買ってしまった。
「家へは左扉。東京のほうは右扉なのよ」
と、事後承諾ということである。ビールどうやって冷やすの、といった妻の困惑した顔に、はればれとしたいまの妻の顔がダブっている。妻の顔がかすんでみえるのは、中年になってわたしの涙腺がゆるみやすくなったためだろう。
妻と肩を寄せ合って眺める庭の冷蔵庫はあいかわらず雨にうたれている。
夕闇がせまっている。
冷蔵庫のある周辺だけがぼうっと白くみえる。
粗大ゴミの収集日までそこにありつづけるだろう。
昭和60年 全作家18号より転載。
冷蔵庫 (随筆)
秋雨がふりだした。
庭に運びだしておいた冷蔵庫がぬれていた。台所にあって機能をはたしているときとはちがう。電源をぬかれ、廃品――粗大ゴミとして庭の隅にぽつんと置いてある冷蔵庫にはうらさびたやるせない風情がある。
この冷蔵庫は父の死後購入したものだから、十五年もお世話になったことになる。
父の逝ったのは、夏の盛りだった。
葬式の様相は地域によって異なるだろう。わたしの住む町では、葬儀の準備から埋葬までの一切は、喪家とその血縁にあたるものは手も口もださず、すべてを組内の人にまかせる。埋葬がすんで墓地からもどると、喪主が「なにもありませんが、供養(食よう)とおもってめしあがってください」口上をのべる。
仕上げの膳、がはこばれてくる。
組内のひとたちの合力協助にたいする感謝の気持ちとしての膳である。喪主やその親族がこんどは接待役となる。
「仕上げの膳にだすビール、どうやって冷やすの」
妻がうらみがましい眼差しで、わたしに訴えかけた。そのとき、わが家には冷蔵庫がなかったのである。
貧しかったわけではない。老人医療費の負担が現在とは比べられないほど重かった。十日ごとに正確にやってくる支払いが、十万円くらいだったと記憶している。収入はあったが、医療費と病人に付き添ってくれている家政婦への支払をすませると……生活費はあまりのこらなかった。やはり貧しかったのだろう。
「お茶箱にドライアイスをつめて冷やそう」
この着想はわたしのものだった。お茶箱は、衣類をつめても内側に錫箔がはってあるので、湿気をよせつけない。押入れにはいっていた茶箱をとりだす。衣類を空ける。夏のことで父の遺体が腐食しないように宇都宮からとりよせたドライアイスがまだ台所にあった。死体を冷やすドライアイスで、ビールを冷やすなどという奇想は常識のあるもののなすことではあるまい。
ビールはかなり冷えた。
かなり冷えたどころではなかった。凍ってしまい王冠の部分が破裂する瓶もでるほどであった。薄暗い台所でお茶箱からたちのぼるドライアイスの白煙をわたしと妻はただ黙ってみつめていた。
葬儀はとどこおりなくすんだ。ただ妻だけは、小柄な体をさらに畏縮させていた。しょぼんとしていた。
まだ冷蔵庫がなかったのですか。と裏のHさんにいわれたというのだ。
冷蔵庫はその後、ほどなく買った。薄汚れた台所に純白の冷蔵庫が置かれただけでそのまわりが、なにかはれがましくなった。妻はよほどうれしかったのか冷蔵庫の扉といわず側面まで毎日たんねんに、からぶきしていた。
その冷蔵庫がいま庭の片隅に置いてある。
「ながいあいだおつとめごくろうさんでした」
と、わたしはおどけて仁義をきって、それを台所からはこびだしたのだった。
おどけてはいたが、この十五年でわが家も社会もずいぶんとかわったものだと感懐ひとしおである。
父の逝った年に生まれた次女は高校一年生、長女は大学を卒業して就職。六年生になった長男は祖父の顔を知らない。西早稲田の鶴巻町に長女と住んでいる。
妻は鶴巻町と鹿沼のあいだを毎週往復して、すっかり教育ママになっている。
冷蔵庫にも変遷があった。わが家で純白の東芝GR-80TCを買ったあとでカラーブームがおき、ピンクやライトグリーンのものが市場を制覇した。ふたたび白にいまはおちついているらしい。冷凍室もひろくなっている。
そして、新品の冷蔵庫はおなじ白でも、青味がかった光りをおびコーテングの技術革新をみることができる。
そして、さらに流通革命である。秋葉原で購入した電気製品が関東一円、無料配達つきなのである。値段も地方の電気屋さんからもとめるのとは比較にならないほど割引してくれた。
調子づいた妻は、東京のマンションとわが家のほうと二台いっぺんに、わたしにことわることもなく買ってしまった。
「家へは左扉。東京のほうは右扉なのよ」
と、事後承諾ということである。ビールどうやって冷やすの、といった妻の困惑した顔に、はればれとしたいまの妻の顔がダブっている。妻の顔がかすんでみえるのは、中年になってわたしの涙腺がゆるみやすくなったためだろう。
妻と肩を寄せ合って眺める庭の冷蔵庫はあいかわらず雨にうたれている。
夕闇がせまっている。
冷蔵庫のある周辺だけがぼうっと白くみえる。
粗大ゴミの収集日までそこにありつづけるだろう。
昭和60年 全作家18号より転載。