3月7日 金曜日 晴れ
蛸壺 (随筆)
明石は「柿本神社」の前に小さな句碑があった。震災後のことで、ゆがみや凹凸のはなはだしい石畳の参道の脇にたっていた。
丸っぽい自然石に夏の日が照りつけていた。蝉の声もする。向こうに倒れかけたさんもんがみえる。天災にたいしていかに人の世が無防備であるか、脆弱なものであるかをおもいしらされた。句は、
蛸壺やはかなき夢を夏の月
と、読めた。そういえば、芭蕉、「笈の小文」の旅の西の極みがここ明石であった。淡路島が明石の海の彼方、いがいと近くにみえていた。夏の温気のなかに霞み夢幻泡影の感懐をもたらす。明石大橋をかける工事がなされていた。そのためか、わびさびの感銘にはいたらなかったが、海青色の波のきらめきがまさに夢幻の趣をそえていた。
半世紀も昔のこと、戦争が終わり野州麻が軍の納品から解放された。そのころ、藁縄ではすぐ腐るからというので、蛸壺の引き上げロープの注文がわが家にもたらされた。
むろん健在だった父がこれで平和になるんだ。平和になる、とくりかちえしていたのを覚えている。
軍馬の轡や軍需のロープの製造にしかまわせなかった麻が民間の需要にこたえられるようになったのだった。その記憶があった。後年この句を知った時、えらく感動したものだった。
しかし、いまはまた、ちがった読み方をしている。稼業である「麻屋」を不本意ながらも継いだ。すでに斜陽産業であった自然の繊維を原料とする芯縄と「大麻商」をつづけて還暦がすぎた。その間、小説を書き、商人と物書きの相反する悩みをかかえてきた。
頭髪も抜け落ち蛸まがいの頭になっている。芭蕉翁よりもすでに、馬齢をいたずらに重ね俗世にどっぷりとつかっている。物書きとして生きていきたいとは思っても、才能も時間ももう私には残されはていない。こんな訳ではなかった。これもわが性のつたなさとただなげくのみである。
蛸壺の中のように身動きができないほど日常の生活圏がせばまり、このままさらに老いていくのかと嘆く身にとっては、はかなき夢が実感としてとらえられるようになっている。
芭蕉は江戸にでる際の夢であったろう市井の俳諧宗匠としての小市民的な生活をこばんだ。苦労のすえ獲得した職業俳人としての生活を捨て、専門俳人たることを望み、ただひたすら芸道に励むことを志し、三十七歳で深川の草庵に隠棲する。上野をさるにあたって、望んでいたはずの宗匠となる夢をはたしたはずなのに、それをいともあっさりと捨ててしまった。その情熱と決断はどこからきているのか。
その後、十数年「笈の小文」の旅では西をめざし、この明石にたどりついた翁が蛸にたくした、はかない夢とはどんな夢だったのだろうか。そして臨終にいたるまで、かけめぐった夢とは……なにか。旅と草庵の生活にあけくれ、たえず流行をもとめ、新しさは俳諧の華といった翁の俳諧にかけた捨て身の構え。野晒し覚悟でみた夢。たえず脱皮変身して新しさを求めた芭蕉の夢をかんがえていると「ジィチャン」と孫娘が境内から呼び掛けていた。西宮に住む娘家族のところに、遅れ馳せながら震災の見舞いを兼ねてやってきた。それは建て前で、本音は孫に会いたさがこうじての旅であった。
明石まで足をのばして出会った芭蕉の句碑である。
妻をうながして鳥居をくぐる。
孫がよちよちとちかよってくる。
わたしの夢は、……夢はとかんがえてみても、なにも浮かばない。翁の句をもういちど舌頭にころがした。
「蛸壺」は日本作家クラブのその年の随筆賞をいただた。賞品のモンブランの万年筆は大切に使っている。孫娘は中学二年生になっている。 「随筆手帳」より転載。
蛸壺 (随筆)
明石は「柿本神社」の前に小さな句碑があった。震災後のことで、ゆがみや凹凸のはなはだしい石畳の参道の脇にたっていた。
丸っぽい自然石に夏の日が照りつけていた。蝉の声もする。向こうに倒れかけたさんもんがみえる。天災にたいしていかに人の世が無防備であるか、脆弱なものであるかをおもいしらされた。句は、
蛸壺やはかなき夢を夏の月
と、読めた。そういえば、芭蕉、「笈の小文」の旅の西の極みがここ明石であった。淡路島が明石の海の彼方、いがいと近くにみえていた。夏の温気のなかに霞み夢幻泡影の感懐をもたらす。明石大橋をかける工事がなされていた。そのためか、わびさびの感銘にはいたらなかったが、海青色の波のきらめきがまさに夢幻の趣をそえていた。
半世紀も昔のこと、戦争が終わり野州麻が軍の納品から解放された。そのころ、藁縄ではすぐ腐るからというので、蛸壺の引き上げロープの注文がわが家にもたらされた。
むろん健在だった父がこれで平和になるんだ。平和になる、とくりかちえしていたのを覚えている。
軍馬の轡や軍需のロープの製造にしかまわせなかった麻が民間の需要にこたえられるようになったのだった。その記憶があった。後年この句を知った時、えらく感動したものだった。
しかし、いまはまた、ちがった読み方をしている。稼業である「麻屋」を不本意ながらも継いだ。すでに斜陽産業であった自然の繊維を原料とする芯縄と「大麻商」をつづけて還暦がすぎた。その間、小説を書き、商人と物書きの相反する悩みをかかえてきた。
頭髪も抜け落ち蛸まがいの頭になっている。芭蕉翁よりもすでに、馬齢をいたずらに重ね俗世にどっぷりとつかっている。物書きとして生きていきたいとは思っても、才能も時間ももう私には残されはていない。こんな訳ではなかった。これもわが性のつたなさとただなげくのみである。
蛸壺の中のように身動きができないほど日常の生活圏がせばまり、このままさらに老いていくのかと嘆く身にとっては、はかなき夢が実感としてとらえられるようになっている。
芭蕉は江戸にでる際の夢であったろう市井の俳諧宗匠としての小市民的な生活をこばんだ。苦労のすえ獲得した職業俳人としての生活を捨て、専門俳人たることを望み、ただひたすら芸道に励むことを志し、三十七歳で深川の草庵に隠棲する。上野をさるにあたって、望んでいたはずの宗匠となる夢をはたしたはずなのに、それをいともあっさりと捨ててしまった。その情熱と決断はどこからきているのか。
その後、十数年「笈の小文」の旅では西をめざし、この明石にたどりついた翁が蛸にたくした、はかない夢とはどんな夢だったのだろうか。そして臨終にいたるまで、かけめぐった夢とは……なにか。旅と草庵の生活にあけくれ、たえず流行をもとめ、新しさは俳諧の華といった翁の俳諧にかけた捨て身の構え。野晒し覚悟でみた夢。たえず脱皮変身して新しさを求めた芭蕉の夢をかんがえていると「ジィチャン」と孫娘が境内から呼び掛けていた。西宮に住む娘家族のところに、遅れ馳せながら震災の見舞いを兼ねてやってきた。それは建て前で、本音は孫に会いたさがこうじての旅であった。
明石まで足をのばして出会った芭蕉の句碑である。
妻をうながして鳥居をくぐる。
孫がよちよちとちかよってくる。
わたしの夢は、……夢はとかんがえてみても、なにも浮かばない。翁の句をもういちど舌頭にころがした。
「蛸壺」は日本作家クラブのその年の随筆賞をいただた。賞品のモンブランの万年筆は大切に使っている。孫娘は中学二年生になっている。 「随筆手帳」より転載。