知らない訳ではありませんが、ここまでハッキリ書かれますと無視出来なくなります。
前置きなしで、氏の意見を紹介します。
・世に現憲法は、マッカーサー憲法とも呼ばれるが、戦争放棄を明記した前文と、九条に関する限り、発案者は幣原であったことをマッカーサーも当の幣原自身も認めている。
ここで氏が、幣原氏の『回顧録』の一文を紹介します。
・私は図らずも内閣組織を命ぜられ、総理の職に就いたときすぐ頭に浮かんだのは、あの野に叫ぶ国民の意思をなんとかして実現すべく、努めなくちゃいかんと固く決心したのであった。
・それで憲法の中に、未来永劫戦争をしないようにし、政治のやり方を変えることにした。
・つまり戦争を放棄し軍備を全廃し、どこまでも、民主主義に徹しなければならんということは、他の人は知らんが私に関する限り信念からであった。
・軍備に関しては、少しばかりの軍隊を持つことは、日本にとってほとんど意味がないのである。
・外国と戦争をすれば、必ず負けるような劣悪な軍隊ならば、誰だって軍人となって身命を賭するような気にはならん。
・軍隊を持つとだんだん深入りして、立派な軍隊を拵えようとする。
・戦争の主な原因は、そこにある。中途半端な、役にも立たない軍備を持つよりも、むしろ積極的に軍備を全廃し、戦争を放棄してしまうのが一番確実な方法と思うのである。
この一文を紹介した後、氏は昭和26 ( 1951 ) 年の5月に米国の上院で行われた、マクマホン議員と、マッカーサー元帥の議論を紹介しています。質問者がマクマホンで、答えているのが元帥です。
「ところで将軍、戦争というものは、なくならないものですかね。」
「実は私も、そのことを言おうと思っていたんですよ。それは、戦争を全面的に放棄することです。」
軍事外交委員会でのやりとりだと氏が説明していますが、翻訳も拙く、まるで中学生の放送劇を聞いているようで、紹介するのがバカバカしくなります。
「現に日本に、その偉大な例が見られます。日本人たちは、自分の意思で、戦争を放棄することを、憲法に盛り込みました。」
「ときの首相の幣原という人ですが、私のところへ来て言いました。」
「私は長い間、この信念を抱いてきたのですが、世界平和のためには、戦争する権利を全面的に放棄するしかありません、とね。」
「彼は私に、軍人である貴方にこれを話すのは、非常に躊躇したのですが、」「私は思い切って、今草案されつつある憲法に、戦争放棄の条項を盛り込むよう一生懸命努力してみようと思うのです、とね。」
「私は立ち上がって、その老人と握手せざるを得なかった。そして私は彼に、それは人類が取りうる、最も建設的な手段だと勇気づけました。そして彼ら日本人は、本当にこの条項を盛り込んだのです。」
この議論に「ねこ庭」が不信感を持つには、それなりの理由があります。
朝鮮戦争の勃発が昭和25 ( 1950 ) 年 ですから、昭和26年は戦争の最中です。しかもマッカーサー元帥は昭和26年( 1951 ) 年の4月に、中国軍を殲滅させるため原爆を投下すると言って大統領に逆らい、トルーマンから解任されたばかりです。
その同じ年の5月に米国の議会で、このように呑気な問答を果たしてするのでしょうか。
氏の著書が出版されたのは、昭和47年ですが、当時の学者たちの本には、かなりいい加減なものが混じっています。
根拠の一つとして「ねこ庭」は、塩田潮氏の著書『最後のご奉公』を考えています。この本は幣原元総理の伝記で、中に書かれている吉田元総理の言葉を紹介します。
・戦争放棄の条項を、誰が言い出したかということについて、幣原総理だという説がある。
・マッカーサー元帥が米国へ帰ったのち、米国の議会で、そういう証言をしたということも伝えられておって、
・私もそのことを質ねられるが、私の感じでは、あれはやはり、マッカーサー元帥が先に言い出したことのように思う。
・もちろん総理と元帥の会談の際、そういう話が出て、二人が大いに意気投合したということは、あったろうと思う。
さらに塩田氏は、マッカーサー元帥が解任された後、幣原氏が総司令部を訪ねた折、ハッシー大佐からこの話を持ち出された時、口にした言葉を紹介しています。
「元帥が、憲法第九条の発案者が私であると述べたことについては、正直に言って、迷惑している。」
塩田氏の『最後のご奉公』は平成4年の出版ですから、馬場氏が著書を出した時には知られていなかった事実です。
幣原氏の『回顧録』の言葉が事実だとしても、幣原氏は持論を述べているだけで、憲法の条文とのつながりについて具体的に語っていません。塩田氏の紹介する青字の言葉が事実だとすれば、馬場氏の意見は捏造になります。
「自分の国を愛せない人間の言葉を、信じてはいけません。」