ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

いま教育を問う 13- ( 田中孝彦・ 内山節氏 )

2021-03-22 06:31:57 | 徒然の記

 『いま教育を問う』を読み終えました。大切な息子や孫たちのため、世間に流布する悪書の「世迷いごと」をきちんと指摘したいと、意気込みは大きいのですが、目的は中々叶いません。前回までのブログで、6番目の姜尚中氏までを取り上げましたが、残る6名の人々の紹介をどうすれば良いのか、迷っています。

 1. 鶴見俊輔  2. 栗原 彬  3. 佐藤 学    4. 暉峻淑子   5. 矢野眞和    

 6. 姜 尚中    7. 田中孝彦 8. 内山節   9. 柏木恵子   10. 浜田寿美男

   11. 吉見俊哉 12. 鵜飼 哲

 残る6名の人々は同じ左翼教授ですが、12番目の鵜飼哲氏を除くと、傾聴すべき部分もあり、教えられることもありました。共通して言えるのは、日本を離れた、観念的な教育論だということです。日本を語らないのでなく、日本を分析し、検討していても、明治以降の教育論で、それ以前を度外視しているという意味です。

 日本の教育は、「西洋に追いつけ、追い越せ」の明治時代から始まったものでなく、もっと以前からあります。読み書き・そろばんを教えた江戸時代の寺子屋が有名ですが、時代を遡ればさらにいろいろな教育形態がありました。

   7番目の田中孝彦氏の意見は、非行少年とその親たちの話が中心です。非行は正論で正すのでなく、非行している子供たちを「見守る」ことから始まるという意見です。単に見守るのでなく「生の根源的受容」にまでなれば、見守る側の親と教師、見守られている子供も救われる、共同体験ができると語ります。このような教育が、現在の学校で可能かという疑問を別にすれば、立派な一つの意見です。ちなみに氏は、私より一つ年下で、昭和20年生まれの北海道大学助教授です。

  8番目の内山節氏の意見は、戦後の日本教育の一般論です。真面目な主張ですが、私には正しい意見と思えず、間違っているとも断定できない独特の考えです。

 「戦後の日本に定着した、近代思想を振り返ってみると、」「ここに展開されているものは、日本的に作り変えられた近代思想であることが分かってくる。」

 「敗戦後の近代化への憧れが、欧米以上に、」「近代的価値至上主義の社会を、作り上げた。」「もちろん古い時代への郷愁は、いつの時代でも存在するものであるが、」「それが日本の戦後史に、それほどの影響を与えたとは思えない。」

 書き出しの部分ですが、どう考えても戦後日本の説明だと読めません。日本的に作り替えられた近代思想を言うのなら、明治時代からの話であり、敗戦後の日本が憧れたのは、アメリカの文化と生活様式だったはずです。

 内山氏は昭和25年生まれで、立教大学大学院・21世紀社会デザイン研究科客員教授もしています。私よりわずか6才年下で、これほど戦後日本への記憶が異なっているのが、不思議でなりません。

 「戦後の社会を動かしていたものは、科学、合理、進歩、個人といった観念に対する、」「日本的な崇拝であった。」「それらが、何のためらいもなく絶対視される中で、」「日本的な、戦後の精神の習慣が作られていった。」「それは、ヨーロッパの近代精神史の中にも見られない、」「現象であった。」

 私にすれば、戦後の社会を動かしていたのは、むしろ東京裁判史観ではなかったかと思います。戦争への反省、過去の日本への反省、アジア諸国への謝罪などなど、私は学校でそう言うことを教わってきました。

 柏木、浜田、吉見各氏も、東京裁判史観的意見があまりなく、報告するまでもない主張でした。鵜飼氏だけが、頑迷な反日左翼で、徹底的な教育制度、内容への批判でした。頑迷なだけに、読者である私には不愉快でなりませんでしたから、紹介する気にもなれません。

 と言うことで、『いま教育を問う』の書評は、今回で終わりといたします。次回は、いよいよ最後の一冊、『いじめと不登校』(岩波書店)です。

コメント (2)
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