「反日左翼や害虫への批判も、ほどほどにしないと、同じことになる気がします。」「『ねこ庭』を訪問される方々が減ってしまいましたので、それを感じます。」
このように述べ、しばらく書評を休憩しようかと考えました。順番からしますと今度は佐藤氏です。氏は6人の編者の一人で、「安全保障関連法案に反対する学者の会」の発起人ですから、反日左翼教授の中心メンバーです。東野高校を語った栗原氏の意見は、出版から23年経った現在、結果が現れ愚論と判明しましたが、佐藤氏の主張はまだ健在です。果たして、見過ごして良いものでしょうか。
「ねこ庭」を訪ねる方々が減っても、痩せ馬に跨り、巨大な風車に突進するドン・キホーテと、その愚かしさを共有する私は、目前の「獅子身中の虫」との戦いを、休む訳にいきません。
「昭和26年、広島県生まれ、69才」「東京大学大学院教育学研究科卒、平成9年、東京大学大学院教育学研究科教授。」
「ハーバード大学客員教授、ニューヨーク大学客員教授、ベルリン自由大学招聘教授 を歴任」「平成30年、学習院大学文学部教育学科特任教授」
ネットの情報では、以上の略歴のほか、氏が「日本学術会議」の会員であることや、「新しい教科書を作る会」の藤岡信勝氏の天敵であることも、書かれていました。なるほど氏は、藤岡氏に挑む学者らしく、難解な言辞で読者を惑わせます。しかし注意深く読みますと、表現がややこしいだけで、喋っている内容は栗原氏と同じです。
「わが国の教育改革は、自由な選択と競争という、」「市場原理によって学校を統制する、新自由主義の路線と、」「もう一方では、地方分権と人々のネットワークによって、」「学校を自律的に運営する、社会民主主義路線との狭間で、」「ダッチロールのように、揺れている。」
氏のような学者を、言葉をもてあそぶ曲学阿世の徒と言うのか、言葉のペテン師である吉田清治に似た人物というべきか迷いますが、大きな違いはないようです。氏が推奨している教育の未来像は、栗原氏の意見そのものです。
「一つの方向性は、個々人が、自らの生活をデザインし、」「他者との連携によって実現する、学びの共同体を構成する教育です。」
氏の言葉は、栗原氏が語った東野高校の叙述と重なっています。
「私としては、多様な歴史と文化を刻んだ個々人が、」「差異を通して学び合う教育、学びの身体技法としての教育学に、」「挑戦したいと考えている。」
栗原氏は、具体的な東野高校を語ったため、馬脚を出してしまいましたが、佐藤氏は抽象論で曖昧にしていますから、読者には何のことか分からず、立派な意見を述べていると誤解されます。
「わが国の教育学は、戦前も戦後も、」「国民教育の枠組みに呪縛され続け、閉鎖的な展開を遂げてきたのではないだろうか。」「外部からの眼差しで、自国の文化や歴史を相対化し、」「自らの研究を、各国の人々と共有できない学問は、」「果たして学問の名に、値するだろうか。」
つまり氏は、「教育とは次の世代を育てる共同行動であり、日本の教育なんてものはないのだ。」と言う意見を持つ、あのおかしな建築家アレキサンダー氏を示唆し、彼とともに東野高校を作った関係者たちを持ち上げています。彼らがこの本の中で、仲間内の助け合いをし、読者を反日にしようとしている事実に、息子たちは気づいてくれたでしょうか。
「ねこ庭」を訪れる方々が減った理由は、私の話が煩わしくなっただけでなく、反日左翼学者の意見を読むのが面倒になり、タイトルを見るだけで敬遠されているような気もしてきました。
「なんだ、また教育本の書評か。」
うんざりして、もっと有意義なブログへと移っていく・・そんなことも考えます。次の暉峻俊子氏は、あのドイツかぶれの教授ですし、次の矢野氏は、教育を金銭に換算する教授です。二人の意見を省略し、次の姜尚中氏にするかどうか、暫く考えようと思います。